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001
日本橋雪晴=にほんばしゆきばれ
Nihonnbashi-yukibare

 

001

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、訪ねてみました。
まずは、一番最初に出てくる春の部「日本橋雪晴」。見ている地点を推測してみると、江戸橋北の交差点から、日本橋北詰に歩いて行く途中の上空ではないかと思われます。
この絵を安藤広重の描いたのは、安政3年、1856年5月だと言われています。既に日本橋は、江戸の中心的存在になっていたようで、現在の中央通り、日本橋の両サイドには、たくさんの商家や蔵、問屋が建ち並んでいたと言われています。

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、訪ねてみました。
まずは、一番最初に出てくる春の部「日本橋雪晴」。見ている地点を推測してみると、江戸橋北の交差点から、日本橋北詰に歩いて行く途中の上空ではないかと思われます。
この絵を安藤広重の描いたのは、安政3年、1856年5月だと言われています。既に日本橋は、江戸の中心的存在になっていたようで、現在の中央通り、日本橋の両サイドには、たくさんの商家や蔵、問屋が建ち並んでいたと言われています。

画を上下3つに分けて詳しく見ていくと、画の下段には、屋根に雪が積もった、日本橋の魚河岸が描かれ、荷下ろしをしたり、天秤棒で魚を運んでいく人の姿が見られます。当時の日本橋沿岸には毎日魚介類が届いて、港、市場、倉庫の役割を担っていたようです。陸にいる人は紺色の衣装、押送船と呼ばれる高速船を漕いでいる人は赤い衣装を纏っているのが、何か違いがあるのでしょうか?川を行き交う船には、菰が掛けられ、商品である魚を雪から守っているのでしょう。

中段は、当時50mほどあったといわれている日本橋の上を、大名らしき参勤交代の一行が渡っています。「江戸は七つ立ち」と言われているので、時間の設定は朝の4時ごろなのでしょう。また、天秤棒をかつぐ魚屋や、大八車もみられます。橋の左側には、江戸時代の掲示板の役割を担った、高札場も見ることができます。この高札に違反した人を、一般の人の目に晒す、「晒し場」も、このすぐ脇にあったようです。白い蔵屋敷の右側に架かる橋は、一石橋で、今も外堀通りの首都高速の下に位置しています。

上段右下には木々に囲まれた江戸城、その先には朝焼けの霞み越しに丹沢、その向こうに雪をいただく富士山が描かれています。かなり誇張はされているものの、当時の日本橋からは、こんなイメージで、富士山が見えたのでしょうねえ。

実際かなり視点が高いので、まずは、この絵に沿って、視点を大まかに決めて、Google Earthに頼ってみました。西側を上にして、目的地に寄っていきます。
描かれている富士山は雪をかぶっているのですが、Googleでは夏の山になっています。建物もリアリティがないので、同じ地点から、GoogleMapのストリートビューを見てみました。現在日本橋は、首都高速道路の下になっているので、全く見えていません。さらにAppleMapのストリートビューも見てみました。こちらの方が少しアングルが低くなります。デフォルメの効いた絵なので、ちょっと強引に写真にかぶせてみました。
ここからは実際の地点まで行ってみました。この上空からの眺めがおそらく画の視点ではないかと思われます。左側の駐車場のあたり一帯が当時河岸があったであろう日本橋川の沿岸です。見えている信号が日本橋北詰、つまり画の中では見えていない、日本橋の北側になります。その先左側に少し見えている首都高速の下が橋になります。右側の黒いビルがスルガ銀行で、一階が今、スターバックスになっています。左側の駐車場の横が野村證券本社で、その一帯が兜町になっています。
この写真が、昔の日本橋河岸から見た日本橋です。あいにく高速道路の下にはなっていますが、江戸時代はここからしっかりと富士山が望めたはずです。白いビルは今はカンヅメの国分の本社で、その左横があんみつで有名な榮太郎の本社になります。
これが、今の日本橋を手前に銀座方面を見た写真です。高速道路が丸々被さっているのが痛々しいです。昨年、下だけ、石造りに作りかえられました。
これが小説にもなった、日本橋の中央に立つ翼を持つ麒麟像です。左側赤茶色いビルが野村證券、後ろのガラス張りのビルが西川日本橋、その後ろがコレド日本橋、その先が日本橋タワーです。
すべての道は、日本橋に通ず。日本の道路の始まりを示す、道路元標がこの橋の脇に埋め込まれています。写真の後ろは三越百貨店新館です。

002
霞かせき=かすみがせき
Kasumikaseki

 

001002は、霞ヶ関。現在の六本木通り、外務省上の交差点あたりからのお正月の風景です。その昔、この台地には奥州街道のが通っていて、ヤマトタケルの蝦夷討伐のために関門が置かれていて、ここから海を望む風景が「雲霞のごとくいい景色」と言うことで、霞ヶ関と呼ぶようになったらしいです。
画の大部分は、下半分に集約されています。画の右側は、松平美濃守、福岡藩黒田家の上屋敷で、現在外務省の庁舎、対する右側は、松平安芸守、広島藩浅野家の上屋敷、現在の国土交通省の庁舎です。坂のひとびとの向こうには、密集する町屋と築地本願寺の屋根、江戸湾の海が見渡されます。画の右側には、大きな門松、そのとなりには荷物を担いだ人がいます。この人は、払扇箱買い(はらいおおぎばこがい)、と言って正月過ぎに不要になった扇箱を買い集めて来年また、売る人なのだそうです。当時、人々は、年始参りに行くときに縁起物の末廣を扇箱に入れて持って行ったのだそうで、いわば今の扇子箱専用のリサイクル屋さんですね。その左が羽子板を持つ親子、坂の下からは武家が、行列を作って坂を上がってこようとしています。その左が、御幣を持った太神楽(だいかぐら)の一行。疫病や悪霊を払う力があると信じられている獅子舞を、正月に舞ってくれる人たち。その左で、右を向いている二人組は、萬歳の太夫と才蔵。お正月にこの2人が1組となって、門(かど)付けで、歳神に扮し自ら神の依代(よりしろ)となって、各家々に祝福を与え歩いていたといわれているものです。その左で肩にお重を担いでいる人が「こはだ鮨売り」です。今でも残る日本のおせちメニューにある、「コハダの粟漬け」の元になったお寿司を売って歩く人らしいです。

画の上段の際には、版元の魚栄の凧が揚がっているのは、広重の洒落でしょうか。広重の浮世絵には、よく、この魚栄を題材にした、凧や幟が登場します。

それではここで、GoogleEarthで、東南東を上にして、寄っていって見ましょう。画の左上が国交省、右側が外務省、六本木通りを挟んで、下が憲政記念公園です。よくテレビドラマ、「相棒」の撮影をやっている場所ですね。

次に地図を見てみましょう。霞ヶ関から、ほぼ東南東に見渡したのだと思われます。当時は隅田川から先は佃島以外、何もないはずですから、海だったはずです。これを、見た方向を上にして、3Dの地図で見てみると何となく概略が掴めます。

さて、現在では、ここはどうなっているか、実際に行ってみました。坂の加減は、画ほど急坂ではありませんが、左が国交省、右が外務省になり、ここから海の方面を見たと思われます。しかし、今は、正面が農水省、その右が環境省と厚労省が入る高層の総合庁舎5号館、左の茶色いビルが、帝国ホテルの新館タワーになります。海は全く見えていません。これに広重の描いた画を重ねてみるとこんな感じになります。現在の写真をもう少し、左右を縮めて、画に合わせてみました。

広重の視点から右を見ると、六本木方面で、首都高速霞ヶ関の出入口の先に、溜池交差点脇のインターシティ赤坂が飛び出て見えます。右を向くと右手に国交省の庁舎とその向こうに皇居の森がこんもりと見えます。その先の坂が三宅坂ですね。視点の真後ろが憲政記念公園になります。坂の上の視点から、右回りと左回りに見渡した画像になります。

003
山下町日比谷外さくら田=やましたちょうひびやそとさくらだ
Hibiya and Soto-Sakurada from Yamashita-cho.

 

003

003は、山下町日比谷外さくら田。現在の中央区銀座5丁目あたり、みゆき通りの泰明小学校のあたりから、日比谷公園方面を見た画らしいです。
今の首都高速の下、それに帝国ホテルと宝塚劇場の間の道、みゆき通りもお堀で、ちょうどお堀の丁字路のような状態だったようです。そのお堀越しに西北西を見た画です。
画の下段には、左側に大きく町人の門松が、その後ろに竹の画が描かれた羽子板。松竹でお正月のめでたさを演出しているのでしょうか?右側の妙にリアルな役者絵の描かれた羽子板も、大きく描かれていることで、手前の道で追羽根(おいばね)と呼ばれた羽根突きをしていることが想像されます。

画の中段に目をやると、見ている地点は山下町で、町人の街ですが、画の向こう側は、大名屋敷が林立しているサムライのお屋敷街です。お堀の鴨の向こうには、そのお屋敷にお正月の挨拶に行く人がたくさん描かれています。見えているお屋敷の土地は、江戸時代になってから、日比谷の入江を埋め立てて造成した土地で、日比谷と呼ばれていました。右の石垣の内側には、笠間藩牧野越中守の上屋敷があり、その向こう側に隠れて見えませんが日比谷御門、その先に桜田御門がありました。その外側、愛宕あたりまでを外桜田と呼んでいました。この両地域では江戸で一番武家屋敷の数が多く、そのほとんどがちょっと土地の狭い外様大名だったようです。そのため、画の中には、たくさんの火の見櫓が林立しています。正面の赤い門となまこ壁の長い塀は、肥前佐賀の松平肥前守の上屋敷です。門の両脇に立派な番所があるのは、藩主の格式が高いからだそうです。稲わらで鼓の胴をを形作った松飾りを、門の上に据えるのが有名なお屋敷だったようです。
屋敷の右上には、凧が一つ垂れ下がっているのは、大名屋敷の子供たちが「からめっこ」という凧合戦をやって、負けてしまった凧です。

画の上段最上部には、町人の奴凧が見切れています。普段、武士から抑圧されている町人の揚げている凧が、武家屋敷より遙かに高く上がっているという、一つの洒落なのだそうです。羽根突きの羽根が小さく真ん中に飛んでいるのも、広重らしい気遣いです。

現在の画の視点まで、行ってみました、が、JRのガードと首都高速が邪魔をして全く見えません。そこで、ガードの向こうに出てみることにしました。それがこの画像です。実際には、写真のパースペクティブを修正して、建物をまっすぐにしてあります。広重の画と違うのは、実際には、ここは既に堀の上ということになります。左が、元阿部播磨守の上屋敷、今の帝国ホテル、右が元牧野越中守の上屋敷、今の東京宝塚劇場と、日生劇場です。そして正面が肥前佐賀の松平肥前守の上屋敷、今の日比谷公園になります。この道路、みゆき通りの下は、お堀だったようです。画の左先、今の帝国ホテル新館入り口から、右を見てみると、右側に日比谷シャンテ、左に東京宝塚劇場、その奥に新しくできた日比谷ミッドタウン、その先に東宝ツインタワービルが見えます。視点をもっと前に進めてみると、日比谷公園、つまり、松平肥前守の上屋敷の正面日比谷公園の正門を見ることができます。右には、日比谷花壇、その後ろには、法務省西館、左に公正取引委員会のビルが、頭を出しています。

さて、ここで、江戸の古地図を強引に組み合わせて当時のこのあたりの地図を作ってみました。上が西南西になります。ここに、視点であろう地点に、赤いグラデーションをかけてみます。おそらくこの方向で、広重は画を描いたのだろうと思われます。
それに、これも強引に現在の街の略図を重ねてみました。これで現在の位置関係が大まかにご理解いただけると思います。

最後に、現在の写真に広重の画を、視点を合わせて強引に重ねてみました。

004
永代橋佃しま=えいたいばしつくだじま
Tsukudajima Island from the Eitai Bridge.

 

004

004は、永代橋佃しま。現在の永代橋の近所に浮かべた船から、南にある佃島方面をみたような画づくりになっています。
この永代橋は、元禄12年(1698年)、五代将軍綱吉50歳の誕生祝いに、箱崎町から深川佐賀町の間にかけられた橋です。その3年後、あの赤穂浪士が今の両国の近所にあった、吉良邸に討ち入りのあと、報告のためにこの橋を渡って、主君の浅野内匠頭の眠る泉岳寺に向かったと伝えられています。文化4年(1807年)には、深川八幡のお祭りに行こうとした見物人が、この橋を一度に渡ろうとしたことで橋が崩れ落ち、1500人以上の犠牲者が出たという記録があります。この絵の描かれたのは安政4年(1857年)ですから、モデルの橋は、何代目かの橋となります。

画の上段には左側に永代橋の橋脚、真ん中に白い十三夜の月、その下に星が散りばめられています。

中段には、左の橋脚が金物らしきもので、強化してあるのがわかります。その影に隠れて、白魚漁の船が篝火をたいています。漁具として、四つ手網が描かれていますが、実際にこのあたりで、白魚漁を許されていたのは、白魚役人と呼ばれる人たちで、そのやり方は、建網が主だったらしく、実際には違うということが指摘されています。
いずれにしても白魚漁は、11月から3月ぐらいまでの漁期で、この頃の江戸では、夜の篝火がゆらゆら揺れる様が、春を告げる風物詩となっていたようです。

当時の歌舞伎大人気演目、「三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」では、この橋のたもとの大川端で、夜鷹を川に突き落とし百両を奪った盗賊、お嬢吉三が吐く「月も朧(おぼろ)に 白魚の篝(かがり)も霞(かす)む 春の空」という、当時誰でもが知っている、厄払いの有名な台詞があります。画の奥には佃島が描かれ、その左におそらく佃島の漁師であろう船が、たくさん描かれています。その右側には、弁才船と呼ばれる大型船がたくさん停泊しています。実際には、橋の右岸側には、大川端と松平越前守のお屋敷しかありませんから、その先の江戸湊に停泊していた弁才船を、構図上ここに持ってきて、画としてバランスを取ったようです。

下段は、隅田川の川面に永代橋の月影を描いて、夜を強調しています。刷り師の意図や時期によって、このコントラストや篝火の水に映る様が、随分と違うバージョンが存在します。

次に古地図を見てみました。当時の街の様子です。西が上になっています。当時の佃島は、中洲とは言え、ほぼ海の中だということがわかります。これに視線である赤いグラデーションを加えてみます。さらにこの上から、だいたいの縮尺を合わせて、現在の地図を重ねてみました。今度は古地図に航空写真を重ねてみました。これでだいたいの位置関係がご理解いただけると思います。旧佃島以外の左下の陸地は、当時すべて海でした。

現在の画の視点であろう場所に行ってみました。橋の下ということで、撮ってみましたが、これでは方向が違います。次に強引に橋脚を入れて撮ってみましたが、これも違います。そこで過去に永代橋を撮った写真がありました。ちょうど視点であろう部分に赤い丸をつけてみました。赤い丸からちょうどこちら側の撮影地点を見上げたのが、広重の描いた画になります。後々他の回で出てきますが、写真の遠景には角のような山が見えています。筑波山です。当時江戸からはよく見えていた山のようで、様々な画の中に登場しています。永代橋にもっと寄った写真が次の写真です。今では夜になると、白魚漁ではなく、屋形船が行き来します。現在は永代橋の改修が終わり、このライティングとは違う演出の仕方になっています。

次にAppleMapのストリートビューで、視点の上空からみてみました。中央が元石川島播磨重工の造船所跡を再開発してできたリバーシティです。この高層ビル群の右側後ろが、旧佃村です。右の橋が、中央大橋、その後ろが佃大橋です。Googleのストリートビューでも見てみてみましたが、広角すぎて、全体像がぼやけてしまいます。そこで少し退いた地点から橋ごと撮った写真です。この右2/5が、一番近い景色だと思われます。それに広重の画を重ねてみました。一緒に今の画を昼から夜っぽく加工し、浮世絵の素材を配置してみました。

005
両ごく回向院元柳橋=りょうごくえこういんもとやなぎばし
Ryogoku Ekoin Temple and Moto-Yanagibashi Bridge.

 

005

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
005は、両ごく回向院元柳橋。この絵は、今も現存する両国の回向院上空から、櫓越しに富士山を見た画になっています。
明暦3年(1657年)正月に本郷丸山町の本妙寺から出火した火は、400を越える町と江戸城本丸を焼け尽くす明暦の大火となって記録されました。そのときにまだ両国橋は架かっておらず、行き場を失って焼け死んだ人や溺れた人は、10万人以上に上ると言われています。そこで幕府が、このような惨事防止のためにかけた橋が、両国橋で、そのたもとには延焼を防ぐ火除け地として両国広小路も作り、その対岸には、焼死や溺死で亡くなった数多くの無縁仏を供養するために、回向院を作りました。

この回向院では、無縁仏供養のための寄付を募るために、勧進相撲が毎年春と秋の2回開催されました。境内に土俵を築き、桟敷を設けて櫓を建てて、10日間開催されたと言われています。広重の画は、この櫓越しに見た富士山が描かれています。 一方の日本橋側の火除け地、両国広小路も有名な商家や料理屋などが建ち並び、当時の江戸で一番の盛り場となっていました。回向院でも、勧進相撲以外に、諸国の霊仏、霊宝を迎えて行う「出開帳(でかいちょう)」なども行われ、この地域全体が大変賑わったと言われています。

画の細部を見ていきましょう。上部1/3には、櫓と、その上に太鼓、梵天が見えています。勧進相撲は、晴れている日だけの開催だったので、この梵天が上がっているときは開催中と言うことだったようです。櫓太鼓は、早朝の客寄せと、終了時の2回、叩かれました。当時のこの界隈の人たちは、朝、響き渡る太鼓と、梵天を見て、今日は相撲を見に行こうなどと話していたのかも知れませんね。

画の中段には、雪を頂く富士山、薬研堀にかかる元柳橋が描かれています。橋のたもとに柳の木が一本あったことから、最初は柳橋と呼ばれていたらしいです。しかし、両国橋の北側にある神田川に橋が架かり、ここを柳橋と呼んだため、この薬研堀に架かる橋は、それから元柳橋と呼ばれたそうです。
画の右側には見えていませんが、繁華街の両国広小路と両国橋があります。
隅田川の向こう岸には塀を張り巡らせた、立派なお屋敷が続いています。古地図によると、松平越中守と本多壱岐守のお屋敷だったようでが、別資料によると松平丹波守の下屋敷となっています。そのお屋敷の後ろが、矢の倉、今の東日本橋2丁目、その先が日本橋横山町で、今では繊維問屋が建ち並ぶ町になっています。

画の下段、隅田川には、たくさんの船が描かれています。当時の隅田川は、様々な物資が行き交う江戸の大動脈でしたから、その様子が見て取れるようです。おそらく木材を運搬しているであろう、筏まで描いているところが広重の気持ちがよく分かります。
この櫓の立っている場所が回向院で、立派な瓦屋根が見えているところがその門前町になります。このあたりが如何に賑わって、繁盛していたかが分かります。

実際にこの場所に行ってみました。回向院の南側になるのですが、笑ってしまうぐらい全然イメージと違います。

この写真が回向院境内の南側です。

とりあえず回向院の正面に回ってみました。

これでは、どうしようもないので、隅田川の見える場所まで行ってみました。真ん中左の茶色い建物が区立日本橋中学校で、その右側に薬研堀があったようです。柳の木があった場所には白いマンションが建っています。

これを逆に中学校側から見た写真がこれです。右側の白いビルの真下ぐらいが回向院になります。

薬研堀の奥の方には、薬研堀不動院があります。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動の一つで、さすが東京らしく、ビルに囲まれちゃっているのがちょっと面白いです。

当時の古地図を貼り合わせて、位置関係を調べてみました。回向院の場所が変わっていないとすると、当時の両国橋は、今の両国橋より、南にあったのかも知れません。

これに視点と思われる、赤いグラデーションを入れてみます。

さらに強引に縮尺を合わせて、今の地図をかぶせてみました。

現状の写真では、あまりにも広重の描いた画と違いすぎるので、Googleの素材を駆使して、それを合成して、画像を作ってみました。さらにそれに雪を頂いた富士山を合成して、絵面を強引に合わせてみました。当時、大川とまで呼ばれた隅田川が、全く見えていないのが玉に瑕です。

それに広重の画のエッセンスを合成してみました。櫓が60階建てのビル以上の高さになってしまっているのは、ご愛敬です。

広重がこの画を描いたのは、安政4年と言われていますが、安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部にM7クラスの地震が発生しました。世に言う安政の大地震です。江戸城、日比谷、小石川、浅草、本所など埋め立て地を中心に甚大な被害が発生し、1万人以上が亡くなったとされています。この画だけではありませんが、広重の描いた名所江戸百景は、この平和そうな画の中に、みんながんばれという、復興の意味合いも込めていたのかも知れませんねえ。

 

006
馬喰町初音の馬場=ばくろうちょうはつねのばば
Hatsune no Baba Riding Grounds in Bakuro-cho

 

006

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
006の馬喰町初音の馬場は、JR総武線快速、馬喰町駅を上がった、すぐのあたりで描かれたといわれています。現在の江戸通り、つまり水戸街道の北西側に一本入った路地の端に、初音の馬場の南端があり、そこから日本橋方面を見た画のようです。「絵本江戸土産」という書物によると、馬喰町二丁目と三丁目の横丁に馬場があり、その縁に柳が数本、先に火の見櫓が見えて、馬術の稽古をしていたという記述があります。

この馬場は、徳川家康が関ヶ原の戦いの出陣にあたり、馬揃えをした場所と言われていて、江戸で最も古い馬場だったそうです。すぐ脇に、初音稲荷が鎮座していたため、それ以後初音の馬場と呼ばれました。馬場は、馬回しスタイルでセンターに一本土塁が築かれ、その周りを馬が走り回れるようになっていたようです。今で言う家畜商の高木源兵衛が、ここでその馬の管理をする博労頭をやっていたため、この界隈を馬喰町と呼ぶようになったようです。

この画は、馬場の南端で、その北側には、郡代屋敷があって、幕府の直轄地や、関八州(今の一都六県あたり)の民政を執り行っていました。関東郡代は、今で言う行政、裁判、税徴収、警察権も統括していました。今でも、東日本橋交番横には「郡代屋敷跡」の標識が建てられています。
幕府直轄地で問題が起こると、農民などの当事者たちは、ここまで来て問題解決を図らなければならず、この界隈にはそうした人たちが泊まる、公事宿(くじやど)と呼ばれる宿泊施設がたくさんありました。1泊2食付きで朝夕の決まった時間に食堂で食事をとり、風呂なしで、宿賃は公定248文(現代の6,200円相当)だったと言われています。馬喰町には、かなりの数の公事宿(くじやど)があり、それぞれ仲間組織を形成し、独占営業権を与えられていました。また、今の弁護士や、司法書士、代書屋などの商売を執り行う人もいたようです。

画の中の櫓は、半鐘だけが吊してある町方の火の見櫓です。これは当時、十町に一つずつ立っていた櫓で、町内の火災を発見した番人がすぐに半鐘をうち鳴らし、火消を招集、町人に火災の発生を知らせました。火災現場すぐ近くの半鐘は、火元であることを知らせるため、乱打で続けざまに鳴らし、鎮火の際は2点連打がされて、この2点連打を「おじゃん」とい言っていたそうです。転じて今までやって来た事が全て無駄になることを指す「おじゃんになる」というようになったという説もあるようです。

画の中には、馬場なのに、染め物が4反干してありますが、ここから西に行った紺屋町からのものではないかと言われています。今でもこの界隈は、繊維問屋の町として栄えています。さらに子犬が戯れていたり、子どもを背負った主婦らしき人が、世間話をしている光景も見られます。当時、馬の稽古は午前中だけだった、ということらしいですが、それ以上に、武士が戦から遠ざかり、平和で、和やかな景色を広重は描こうとしたのではないでしょうか。

古地図からその場所を探してみました。緑色の部分が馬場で、その上の白い部分が郡代屋敷です。そこに視点である赤いグラデーションをかぶせてみました。さらに現代の地図をそこにかぶせてみました。これで、だいたいの位置関係が理解できると思います。

実際の場所に行ってみました。写真の右、駐車場のあたりがちょうど馬場の南端に当たるようです。ビルに囲まれて何にも見えません。

一つ道を隔てた江戸通りに出てみると、見事に道路が拡張されています。浅草橋側と日本橋側を見た写真です。

視点に広重の画をかぶせて、さらに染め物だけ残してみました。今のこの画の場所は、ビルの壁しか見えない、ちょっと笑いを誘いそうな画になっています。

 

007
大てんま町木綿店=おおてんまちょうもめんだな
Momendana Cotton-goods Lane in Otenma-cho

 

007

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
007の大てんま町木綿店は、今の日本橋本町二丁目、昭和通りの小津和紙のビル横から、見た画のようです。日本橋をほぼ東西に貫く本町の道で、木綿問屋が多く店を構え、俗に木綿店(もめんだな)と呼ばれていました。当初この通りは、奥州街道、つまり、江戸の中心部から東北方面に向かうメインストリートでした。奥州街道は、本町、大伝馬町、通旅籠町を通り、浅草御門を出て、北上し橋場の渡しで、隅田川を渡っていました。その最初の宿駅が大伝馬町で、多くの伝馬が用意されていました。伝馬とは、各宿駅で用意されていた輸送用の馬のことで、現代のターミナルに、トラックがたくさん用意してあったというイメージがわかりやすいでしょう。

そこで今回は、まず古地図からご覧ください。
視点となっているところに赤いグラデーションを入れてみます。

この町は、北隣の小伝馬町、京橋側の南伝馬町と並んで、三伝馬町と呼ばれ、幕府公用の荷物輸送を義務とする伝馬役の町でした。町名の由来も、伝馬役の馬込勘解由(まごめかげゆ)の屋敷があったからだとされています。その馬込氏は、三河の出身で、その配下が、副業として、三河木綿の取り次ぎのようなことをやっていたようです。

さらに現代のAppleマップを重ねています。

実際の感覚としては、三井タワーマンダリンホテルを背に、昭和通側にきて、実際には無理ですが、高速もまっすぐ越えてしまって、小津和紙のビル横に立ってみたところです。

さらに空撮の写真も重ねました。

やがて、慶長2年(1597年)に、隅田川に千住大橋が架かり、奥州街道の最初の宿駅が千住になったことから、この町の方向性が大きく変わりました。寛永の頃(1624-44年)には、町内の年寄りや、伝馬行事を担当していた者の中から、木綿を扱うものが出始めま、その後栄枯盛衰をくり返しながら、この町は、運送業から、大きく脱皮していきました。大伝馬町には伊勢出身の木綿問屋も多く住み、木綿の中では最高の品質であった伊勢松坂産の木綿を扱っていました。やがて、享保年間(1716-35年)三河、伊勢、尾張などの木綿生産地の他に、呉服店などもその資金力にものをいわせて、出店が相次ぎ、この界隈は、江戸いちの木綿の町となっていきました。

一年おきに開催された江戸の天下祭り、山王祭と神田明神祭の両方に、先頭の山車でもある「諫鼓鳥(かんこどり)」を、この町から出していました。大伝馬町の富の豊かさを語るエピソードです。

さらにかつて繁栄を誇った木綿店は、今ではその中心をさらに奥州街道を2キロほど行った日本橋横山町あたりに繊維問屋街として残っています。

画を詳しく見ていきましょう。
木戸から木綿店を見た夜の景色で、各店の閉店間際の時間なのでしょうか。木戸が開いている時間帯なので、遅くとも夜の10時前ではないかと言われています。当時の木綿問屋の多くは、黒漆喰塗りの堂々たる構えをしていて、一つ屋根の下に、同じ造りの店が軒を連ねているというのは、大伝馬町独特のもの。建物の2階は、もしもの時に格子が内側から外せたり、屋根の上には防火用の天水槽をを生け簀のようなもので囲んで、さらに店と店との境には梲(うだつ)のような防火壁を置き、防火対策には特に気を遣っていたようです。ひさしの下の小さな小道は、「犬走り」と呼ばれ、当時は、このスペースも公道扱いになっていました。

暖簾を見ると、店は右から、田端屋、升屋、嶋屋と続き、実際には、もっともっと店が続いているような構図になっています。店の中には、反物が積まれ、今、まだ商いをしている様子が描かれています。一番大きな田端屋は、伊勢津の田中屋の江戸店(えどだな)で、丁稚、手代、番頭など地元から派遣された「男ばかりの店」だったと言われています。

左には、芸者衆が二人描かれています。一人は、懐手で、長襦袢の襟を立てているので、酔いが覚めてきているのか、それともこの時期まだ寒かったのか。さらに、芸妓は足袋をはかないので、よけいに寒かったのかも知れません。二人とも、ちょっと地味な衣装で、垂らし帯というスタイルは、この頃の流行なのだとか。

また、この画が描かれたのが、安政5年と言われていて、この名所江戸百景シリーズの中でもかなり最後の方の作品になります。当時は贅沢禁止の天保の改革後で、既に木綿問屋だけのお店もなくなってきている時期なので、実際の店構えとは、多少違っています。広重が、木綿問屋から依頼されて、客寄せのために描いた広告的な画ではないか、とする研究者もいるようです。

さて、実際いま、そこがどうなっているか、尋ねてみました。ちょうど工事をやっていたりと、ビルが林立する全く違うイメージの町になっていました。目の前の道路が奥州街道から、旧日光街道となり、今は大伝馬本町通という名前になっています。視点から、右、昭和通り、江戸橋交差点方面を見た景色がこれです。左の角がアルミ板が綺麗に貼られている、伊藤忠建材本社ビルです。視点から、左、昭和通り、岩本町方面を見た景色がこれです。右側が小津和紙本館ビルです。二筋先が江戸通り(水戸街道)で、その地下を今、JR総武本線が走っています。

広重の視点から左回りで撮った、動画です。まずは、小津和紙の本館ビルと昭和通り、その上には首都高速上野線で、両方とも相当な交通量です。日本橋側に渡る地下道とその左が伊藤忠建材本社ビルです。広重が描いた画のパースに合わせて、伊藤忠建材本社のビルの壁をメインに撮った写真です。それに広重の描いた画を重ねてみました。さらに木戸と芸者衆の二人を切り取り、今の写真をコラージュしてみました。広重がこんな画を見たら、びっくりするかも知れませんね。

008
する賀てふ=するがちょう
Suruga-cho

008

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
008のする賀てふ(するがちょう)は、現在の銀座線の三越前駅の地上、室町二丁目の交差点から日本銀行方面を眺めた画になっています。現在は右は三井住友信託銀行、三井住友銀行などが入っている三井本館、左は三越百貨店日本橋店のビルになっています。その二つのビルに挟まれた通りは、現在江戸桜通と呼ばれ、向こうからからこちらに向かう一方通行路になっています。画の下側の部分、左右に広くなっている通りが現在の中央通りです。

徳川家康が江戸に来て町を作るときに、この界隈の北東から南西に抜ける道からは、江戸城と富士山がほぼ見えるように設計していたようです。特にこの道は、正面に富士山が見えることと、家康が駿河から連れてきた家来を最初に住まわせたことから、駿河町と呼ばれていました。実際にこの画のような大きさでは、富士山は見えませんが、富士山は確実に望めたようです。

画を詳細に見てみましょう。左右のお店は両方とも、当時の越後屋(現在の三越)ではありましたが、向かって左側は、絹以外の太物(ふともの)と呼ばれる反物を扱っている店舗で、右側が絹専門店舗でした。画の中の左、紺色の大きな荷物を背負って歩いている人は、今でいう外商で、これから太物を背中にかついでお得意様に向かうようです。

さらにこの画は、駿河町の町全体がすべて越後屋で、大変賑わっているということを演出するために、一点集中の遠近法の構図の中に、様々なプロフィールの人を描いています。日本橋の魚河岸が近いので、天秤棒をかついだ魚の行商人をはじめ、江戸城に勤める奥女中風の一行と武士、ちょっと位の高い武士や、お忍びの武士、旅人、蕎麦の行商人、丁稚奉公の子どもなどなど。

これらの要素から推測すると、この画もやはり、越後屋のプロモーションのために描かれた画ではないかと思われます。この画が発行されたのが安政2年(1855年)の冬至の頃と言われています。10月には、安政の大地震があり、越後屋も大変な被害を余儀なくされたにもかかわらず、翌年始には、その売り上げを回復するまでに至っています。その復興には、人気シリーズの江戸百景で、この賑わいを描いた事が大きく貢献したのではと推測されます。今でいう、冬物バーゲンセールの広告になった、ということですね。

そこで、この越後屋、つまり今の三越を調べてみました。
創始者、三井高利(みついたかとし)は、松阪の豪商、三井家の四男として生まれました。14歳のときに、母から十両ほどの縞木綿を手渡され、江戸で長兄の営む呉服店に丁稚として就職します。その後番頭まで上り詰めるも、長兄にその類い希な商才を疎まれ、郷里の松阪に帰されてしまいます。そのとき、最初の元手十両は、166両にもなっていたといわれています。

やがて、長兄が亡くなり、母からの許しを受けた高利は、52歳、1673年に、再び江戸に出て、日本橋本町に店を構えます。そこで、それまで客も呉服店も苦しめていた掛け売りをやめて、現金定価販売に切り替えます。当時の江戸の商取引は、品物を先に受け取り、支払は後日に、というのが常識でした。この今ではあたりまえの現金定価販売が、江戸庶民に大ウケし、越後屋は江戸一番のお店に発展していきます。しかし、このシステムが同業者から相当な嫌がらせを受け、苦労しますが、たまたま十年後火事に遭ったことで、今の駿河町に改めてお店を出します。

この広重の画は、祖である三井高利が亡くなった約60年後の画となりますが、その後、画の左側の店舗は、日本初の百貨店の三越として発展していき、右側の店舗はやがて、両替商となり、幕府の御用為替方を引き受け、その後の明治政府を支え、この国の礎を築くほどの三井財閥として発展していきます。

さて、現在その場所がどうなっているか行ってみました。まずは、この画が描かれた数年後の明治初期の古地図で、位置を確認。視点となる場所に赤いグラデーションを入れています。これに大雑把に縮尺と位置を合わせた現代の地図です。同じように視点の赤いグラデーションをいれました。実際に行ってみると、三越百貨店日本橋本店と三井住友銀行として、今もその位置に残っています。しかし、これでは広重の描いた画とアングルが合わないので、Google Earth を使ってみてみました。方向的にも実際に富士山がこの方向に見えていることが分かります。もう少し寄って、広重の画のアングルに近づけます。左右のビルは、コレド室町です。

これに広重の画を重ねてみます。街並みを抜いて現在の写真をはめ込んでみます。富士山も実際にはこんなに大きくは見えないのですが、霞だけ残して、今年の初雪の頃の富士山をはめ込んでみました。それでもどうしても違和感が否めないので、低いアングルの画を変形させて、色を合わせてはめ込んでみました。広重の描いた名所江戸百景の中でも、描かれた素材がほぼその位置にそのまま残っている珍しいケースです。

009
筋違内八ツ小路=すじちがいうちやつこうじ
Inside Sujichigai Gate at Yatsukoji.

 

009

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
009の筋違内八ツ小路は、現在の靖国通りと中央通りの須田町交差点の北側の旧中山道上空から、神田明神と湯島聖堂を望むように、俯瞰して見た画になっています。
ここは、江戸城の外郭北の内側にあたり、神田見附の御門があった場所で、幕府はここに火事の延焼防止のために、火除け地としての広場を作りました。ここで、日本橋からの道と、本郷、下谷から神田に行く道が、交差していたため「筋違」と呼んでいました。実際には、奥羽街道、日光街道、中山道、甲州街道など、10以上の街道が集まっていたのですが、「八つ小路」と呼んでいました。この場合の「八つ」は、8本の道、という意味ではなく、たくさん、という意味合いで使われています。
そこでこの画のタイトルが、「筋違内八ツ小路(すじちがいうちやつこうじ)」となっているわけです。

では、画を詳しく見ていきましょう。
画の上部、右側には、色紙形に、亀甲模様が使われていますが、これは、この江戸100シリーズの初刷りの特徴なのだそうです。その下には江戸の総鎮守、神田明神が描かれています。江戸城から見るとちょうど北鬼門に当たる位置です。その左が昌平坂学問所の森になり、「昌平黌」(しょうへいこう)とも呼ばれた幕府直轄の教育機関です。今では、湯島聖堂になっています。

その下の赤い源氏雲の下は神田川なのですが、この頃、黒船をはじめとする相次ぐ外国船の来航や、外国列強の近代的武力装備に刺激された幕府は、講武所(こうぶしょ)と呼ばれる武芸訓練機関をこのあたりに作っていました。そのため、幕府からの指摘を避けた広重が、その存在をわざとぼかしたのではとされています。

中段、柳と松の植えられた緑の土手の向こうは神田川。その左、八つ小路の警備に当たっていた辻番所には、灯りがともっているのが分かります。当時の八つ小路は往来が激しく、夜でも番所が開いていたと言われています。その裏には木戸があり、右に行くと昌平橋を渡って、昌平坂学問所や神田明神に行くことができました。神田明神の先は中山道になり、今の本郷三丁目に通じています。

八つ小路には、広重らしく、武家や大工、丁稚、天秤棒の行商など実にたくさんの人々が描かれていますが、白いところも残して、この場所の広さを表しています。特に、この八つ小路の画面左の神田多町(かんだたちょう)には、17世紀初期(慶長年間)から青物商が集まっていたので、天秤棒は、野菜の行商なのかも知れません。

画面下段の右方向には、描かれてはいませんが、筋違御門があります。その左には、その御門をくぐって、御曲輪内の神田御門方面に向かう大名行列らしき一段が横切っています。非毛氈の駕籠やスタッフから、高貴な女性が江戸城に帰って行く様子ではないかと想像されます。右下には掛け茶屋が描かれています。火除け地のような広場には、人がたくさん集まるので、さぞ繁盛したことでしょう。

この場所が実際どこなのか、古地図から見てみましょう。左から右に青く横切っているのが、神田川です。左が水道橋、右下が両国橋、真ん中上の方に上野公園の不忍池が見えています。ここに視点である地点に赤いグラデーションを置いてみました。それにさらに現代の地図をかぶせてみました。

さて、実際にこの場所が今どうなっているのか、行ってみました。視点が低く、ビルに囲まれていますが、神田明神、湯島聖堂方面を見た景色がこれです。後ろ側神田駅方面を見た景色です。中央通りと合流してこの先は日本橋を経て、銀座に向かいます。視点右手は、左側が元交通博物館で、今は住友不動産神田第1ビルになっています。見えているガードは中央線です。視点左側は、靖国通りと合流して、神保町を経て、九段、靖国神社方面に向かいます。この先右側には有名な蕎麦屋、まつやさんがあります。この一角、神田淡路町は第2次世界大戦の東京大空襲の時にも、わずかに焼け残った地区で、今でも昔ながらの道や、建物、老舗の飲食店がたくさん残されています。あんこう鍋のいせ源、鶏料理のぼたん、火事で建て直した神田藪そば、中でもこのおしるこ「竹むら」さんは、とても風情のある建物を今でも使っています。

やがて明治になり、私鉄の甲武鉄道(今のJR中央線)が1912年(明治45年)にこの、画の右下、筋違御門のあたりに、万世橋駅を開業します。この八つ小路は、駅前広場として利用され、市電も集まってきて、東京指折りの繁華街へと発展しました。万世橋駅は東京駅と同様に辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの高層建築で、今でも線路下にその名残を留めています。2013年(平成25年)旧万世橋駅遺構を整備し、「mAAch ecute(マーチエキュート)神田万世橋」と言う施設に生まれ変わっています。

実際に写真では、視点が低いので、GoogleMapの写真に頼ってみました。右の白いの住友不動産神田第1ビルと、左の青いの住友不動産神田第2ビルとの間に、わずかに神田明神の緑が見えます。手前に見えている線路がJR中央線、一つ奥がJR総武線になります。

これに広重の画を重ねてみます。さらに、現代の写真を重ねてみました。なんとも面白みのない、ビルの画になっています。以上、筋違内八ツ小路(すじちがいうちやつこうじ)の現代の姿でした。

010
神田明神曙之景=かんだみょうじんあけぼののけい
Dawn at the Kanda Myojin Shrine.

 

010

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
010の神田明神曙之景は、神田明神の境内から神社関係者が昇る朝日を見ている画になっています。この神田明神のある場所は、本郷台地の縁にあたり、東に開けていたので、芝の愛宕山と並び、江戸市中を見渡す展望台となっていたようです。

まず古地図から、その場所を確認してみます。視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみました。左右に横切る水色の線は神田川です。これに現代の地図を重ねてみました。実際には正月の頃なので、初日の出を見るなら、視点の開けた方向はもう少し南を向いていたと思われます。

では実際に画の主要部を見てみましょう。神田明神の境内で、左の神主、右の巫女と仕丁が、下谷の町並み越しに昇りゆく朝日を見ているようです。この仕丁と呼ばれる神社の職員が持っている木桶から、これは、元旦の朝に行われる若水汲みの一場面ではないかと言われています。

また、実際には明治期に入るまで、神田明神は、もっとたくさんの木々に囲まれていたらしく、広重は木を多少間引き、思い描いた画のイメージ通り描いたのだろうと推測されます。

その今の神田明神を実際に訪ねてみました。これが神田明神に入る豪華絢爛な神門です。

ここから後ろを振り向くと、鳥居が見え、旧中山道を挟んで、その向こうの塀と緑が、湯島聖堂になります。鳥居の右には地下の室で作る甘酒で有名な、天野屋さんがあります。

これが今の、神田明神社殿です。お正月になれば、一般参拝客が押し寄せ大混雑になります。恵比寿様を祀る商売繁盛の神様でもあるため、4日の仕事始めからは、この混雑に加え、都内会社関係の参拝者も集まり、最終的に10日を過ぎるまで大賑わいとなります。

神田明神とは通称で、正式名は神田神社と言います。その昔、四国から海流に乗り、房総半島に定住した漁民部族が祀った海神が発祥とのことです。その子孫が江戸に移り、その海神を分祀したのが、この神社の始まりになったようです。その海神の元は、安房南部州崎(現在の千葉県館山市)の安房州崎明神で、その系列神社が豊島郡芝崎村(現在の大手町)に祀られていたとのことです。その後、西暦1300年頃、近所にあった平将門の墓が災厄、怨霊などと呼ばれていたときに、真教上人という僧が平将門をこの神社に合祀して、土地の産土神(うぶすながみ)にしたのだと言われています。

これは、大手町にある平将門の首塚です。神田明神も移転する前はこのあたりにあったと言われています。現在は、三井物産の改築工事に伴い2021年3月まで改装中で、中に入ることができなくなっています。

徳川家康は、江戸に入府したときに、江戸原住民の人気取りのために、この神社を江戸の総鎮守としました。その後、江戸の街の拡張とともに、駿河台を経て、今の場所、江戸城の東北の鬼門に当たる場所に移ってきました。さらに、江戸の天下祭として、山王祭と共に、江戸庶民のこころの支えとして発展していきます。
この神田明神の神様は、その後の江戸中期頃、農耕神伊勢皇大神宮系列の大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様=縁結びの神)、が加えられ、平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様=除災厄除の神)との2つの主祭神になりました。しかし、明治7年になり、政府の方針で平将門が、天皇家に刃向かった逆賊のレッテルを貼られたため、摂社に遷されると、代わりに少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様=商売繁昌の神)が入ってきました。今、神田明神は、この三神体勢になっています。
もっとも、江戸っ子は昔から、将門を逆賊だなどとちっとも思ってはいなかったようです。

実際にこの場所に行ってみました。右の建物が明神会館で、画の中の社殿の一部にあたる部分です。今ではビルが高すぎて、眺めがいいとは決して言えません。

この写真は、柵を越えて撮ったものです。やはり秋葉原方面のビルが林立しているだけの景色です。

次に男坂の上から、左回りにカメラを回してみました。明神会館、社殿、松下幸之助の寄贈した祭務所と神楽殿、クオリアマンション、と続きます。正面の大きなビルは秋葉原東口の富士ソフトのビルです。

さて、今度は広重の画に、実際の今の景色を重ね、画に合わせて朝らしく色調整し、はめ込んでみました。名所江戸百景の画には、改印と呼ばれる出版時の印が残されているのですが、この画は、安政四年(1857年)の9月になっています。9月は、神田祭の月です。江戸の天下祭として、山王祭と神田祭の時には、神輿と山車や踊りの人たちは、特別に江戸城内に入っていくことが許されていました。しかし、この年の7月には、町にお触れが出され、それらが一切禁止されてしまっていました。

禁止の理由は、前年の安政の大地震の被害、またそれ以前から続く江戸幕府の財政緊縮政策、黒船の来航などによる庶民への注意喚起などだったようです。これを考えると、広重は、以前のような華やかな江戸の町の復興をイメージして、この画を描いたのではないかと思っています。江戸庶民に愛された、神田明神の夜明けと元旦の若水汲みは、まさに広重が願う、町の生まれ変わりそのものです。

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