
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
111の「目黒太鼓橋夕日の岡」は、現在の目黒駅から急坂を下りた、目黒川にかかる橋を描いたものです。
そこがどこにあるのかを、先ず、広域地図でご確認ください。江戸城からは南南西に約8km、ちょうど2里の位置にある、小さな橋が今回のメイン舞台になります。
拡大した地図をご覧ください。目黒駅を横切る大通り、目黒通りをそのまま進むと権之助坂を緩やかに曲がりながら下り、目黒新橋で目黒川を渡り、その先の山手通りの左角には、酉の市で有名な大鳥神社があります。今回の舞台である太鼓橋は、この目黒新橋のもう一つ下流の橋になります。広重の画の視点には、赤いグラデーションを入れてみました。
これに当時の絵地図を被せてみます。しかし、太鼓橋地点以外の場所や縮尺が合わないので、参考程度にご覧ください。
次に位置関係が正確な国土地理院の地図をご覧ください。それに当時の地図をJHICO MAPさんの地図で被せてみます。ここでしばしの歴史散歩をお楽しみください。
現在の目黒通りの前身である、白金今里村から南西を目指してきた道は、途中で、三田用水を渡ります。ちょうどこの場所が現在の目黒駅です。今は、道なりに行くと緩やかな権之助坂を下るのですが、駅を過ぎて、すぐに少し左にクランクして、急坂の行人坂を下って行きます。この坂は、江戸時代に新しく権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路でした。これを青い点線で表しました。
このあたりは、17世紀前半ごろに出羽三山の一つ、湯殿山の行者が大日如来堂を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったので、行人坂と名付けられました。坂を下り始めるとすぐ、この大日如来堂がある大円寺が左に現れます。
大円寺は、「明和の大火」の火元でもあります。ここから24km先まで延焼、1万5000人が死亡し、日本橋と上野を壊滅させた江戸の三大火災です。武州熊谷無宿の僧によって大圓寺が放火され、引き起こされた大火事だったので、目黒行人坂火事とも呼ばれていました。この火事の犠牲者追悼のために、大円寺は石造の五百羅漢像を作り、それが今でも残っています。
また、この大円寺には、あの八百屋お七とその恋人である吉三郎の墓も並んでいます。
江戸本郷の八百屋の娘で、16歳になったお七は1683年の「天和の大火」で焼け出され、親とともにとあるお寺に避難するも、同い年の寺の小坊主、吉三郎と恋仲になります。やがて店が建て直され家族で戻りますが、お七の吉三郎への想いは募るばかりでした。そこでもう一度自宅が燃えれば、また吉三郎がいる寺で暮らすことができると考え、会いたい一心でお七は自宅に放火してしまいます。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)ですんだものの、お七は放火の罪で捕まり、市中引き回しの上、鈴ヶ森の刑場で火あぶりにされてしまいます。
この話が真実かはわかりませんが、これを井原西鶴が「好色五人女」として物語にし、浄瑠璃や歌舞伎、芝居などで大ヒットしてしまいます。その後、吉三郎は出家し、大円寺の下にあった明王院に身を寄せ、お七の霊を供養します。吉三郎は西運と名前を変え、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立て、往復10里の道を、雨の日も風の日も、念仏を唱えながら日参したといわれています。
行人坂を下りきった目黒雅叙園の入口には、西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じて水垢離をとった「お七の井戸」が、今も残っています。
行人坂をさらに先に行くと、目黒川にかかる太鼓橋がありました。
江戸名所図會を見ると、その大円寺、明王院、太鼓橋の位置関係がよく分かりますね。
太鼓橋を渡り、突き当たりを右に行くと大鳥神社、左に行くと目黒不動に行くことができました。この行人坂と太鼓橋は、江戸市民の参詣道路だったんですね。
江戸名所図會の太鼓橋には、橋の様子が詳細に描かれています。しっかりと石組みで築かれた立派な橋だったことがわかりますね。この画の左側、しるこ餅を売る茶屋「正月屋」の屋根だけが、広重の画にも描かれています。
この太鼓橋を造った人物には諸説ありますが、八百屋お七の恋人の吉三郎が出家した西運上人が、修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったといわれています。橋の東側にあった大円寺には吉三郎の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれているそうです。
日本における最初の石造りアーチ橋は、長崎にある眼鏡橋です。中国から来日して興福寺の2代目住職となった僧によって架けられたといわれています。西運上人が、長崎までわざわざ出向いて、眼鏡橋の架橋技術を習得してこの橋を作ったと言われていますが、これも真偽のほどはわかりません。ただし、構造を見るとよく似ていますよね。
さて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
左側のこんもりした山が、当時の明王院ですが、このあたり全体が「夕日の岡」と呼ばれ、夕陽に映える木立の紅葉が美しいと絶賛される有名な景勝地でした。広重は、暗い空から牡丹雪が静かに舞い降りる雪景として描いています。
奥まで続く青い流れは目黒川で、この先は今と違って蛇行して流れていて、ほぼ原野の中を品川宿まで流れていました。
雪を乗せた傘や菅笠の人たちの渡っている太鼓橋を左に行くと、急坂の行人坂を上ることになります。右側の屋根だけ見えている民家は、江戸名所図會に描かれた、しるこ餅を売る茶屋「正月屋」だと思われます。
実際にここに行ってきました。
おそらく広重の視点であろう場所から見た景色だと、こんな感じになります。正面の先が目黒雅叙園で、白いビルが雅叙園の庭に作ったアルコタワーです。広重が描いた太鼓橋は、1920年(大正9年)9月1日に豪雨で流され、新しく平らな橋になっています。
これは現在の太鼓橋から、目黒川の下流方面を見渡した景色です。
これは現在の太鼓橋から、目黒川の上流方面、目黒新橋の方向を見た写真です。この先中目黒駅の先までは、現在桜の名所として、春になると沢山の観光客が訪れています。
広重の画に、現在の姿をはめ込んでみました。
アングルは少し低いのですが、さて、かつての面影を残していますかねえ。今は太鼓橋という名前の、平らな橋になっています。
もともとの八百屋お七の話が実際にあった出来事かは、現在もわかっていません。元恋人といわれる西運がこの橋を作ったのかも、確証はありません。30年近くも弔いのために浅草に日参した西運が、本当に長崎まで行って橋造りを習得したのでしょうか。
しかし、太鼓橋は、広重の時代には実際にここにあった、有名な橋でした。
このしんしんと降り積もる雪と冬空が、何かを物語っているようですね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
112の「愛宕下藪小路」は、現在の愛宕下通りと烏森通りの交差するあたりにある、蕎麦屋「大坂屋砂場」の前あたりから、増上寺方面を見た景色です。
それがどのあたりなのか広域地図からご覧ください。
皇居の南、虎ノ門のビジネス街のあたりですね。赤い破線で囲ってみました。
拡大した地図をご覧ください。広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。縦に走る青い通りが愛宕下通りで、左右に走っている緑色の道が烏森通りです。広重は、この交差点から、増上寺方向を見て画を描きました。
これに当時の絵地図を被せてみました。多少ズレてはいますが、江戸時代の道が現在もある程度残っていることがわかりますね。この地図で、武家屋敷は白で、神社仏閣は赤で、町人の住んでいた部分は、グレーで描かれています。このあたりは、武家屋敷ばっかりだったこともわかりますね。
視点から見たすぐ右側が、近江水口藩、加藤家の屋敷で、その先には、13棟ほどの武家屋敷が並んでいました。視点から見た左側には伊勢菰野藩、土方家と陸奥一ノ関藩、田村家の屋敷があり、その先には、やはり数棟の武家屋敷が建ち並んでいました。
この左右に通る小路は、加藤家側を藪小路、土方家側が佐久間小路と呼ばれていました。
縦に走る道の西側には、薄い水色で細い川が描かれていますが、これが当時桜川と呼ばれた外堀から引かれた堀割でした。
視点から見た先、左側の田村家の屋敷の先に左に入る小路があります。この水色で表した小路は、田村小路と呼ばれ、新橋駅よりの出口右側にも田村家の本屋敷がありました。あの忠臣蔵で有名な浅野内匠頭が、騒動のその日午後7時ごろ、この田村家本屋敷の庭で切腹させられました。介錯に失敗し、首を二度切りしたため、庭中に血が飛び散ったと言われています。
現代の地図に戻すとわかりますが、加藤家のお屋敷は虎ノ門ヒルズビジネスタワー、その先の13棟の武家屋敷は虎ノ門ヒルズになりました。この左右の武家屋敷の塊は、環状2号線、通称新虎通り、またの名をマッカーサー通りとなりました。
青い点線で表した、環状2号線は元々、戦後アメリカ占領軍の依頼で、アメリカ大使館から竹芝桟橋までの道路を作るように言われていたことから、マッカーサー通りと呼ばれていました。しかし、実際には1923年の関東大震災後に東京市長後藤新平らによって、この都市計画道路が既に計画されていました。
その後、用地買収が難航し頓挫した状態でしたが、1989年の法改正によって道路上に建物を建てることが可能になったことから再開発事業が再開され、2014年3月に、ようやく地上部地下部が合わせて開通、虎ノ門ヒルズはこの環状二号線のトンネルの入口に被さるようにして、2014年6月に森ビルによって開業されました。
地図を江戸に戻してみます。視点から見た左側の土方家の場所は現在、興和の西新橋ビルが建っています。視点の先にある真福寺は、立派なビルの中に入っています。その先の円福寺は愛宕神社の別当でしたが、現在神社だけが残り、円福寺そのものは消滅しています。
現在との比較が面白いのでもう一枚、広重の視点を入れた絵地図をご覧ください。愛宕山の先の青松寺は一部が二棟の愛宕グリーンヒルズになりましたが、お寺は現在も存続しています。
この先は増上寺の方丈、つまり僧たちの住まいに突き当たり、その手前左が火事除けの廣小路なっていて、もう少し先には将軍家が増上寺参詣時に通る御成門があり、現在も残っています。突き当たりの方丈は今、東京プリンスホテルに姿を変えています。
さて実際に広重の画を詳しく見ていきます。
冬空の右から雪を乗せた重そうな竹藪が被さってきていますが、これは近江水口藩、加藤越中守の屋敷に植えられていた竹です。屋敷の東北の角に竹藪があったので、「藪加藤」と呼ばれていました。
一番奥の小高い山が愛宕山で、NHKの開業時に送信所があったところです。そのすぐ下には、赤い門が見えていますが、真福寺の山門です。空には、雀が三羽飛んでいます。屋根に雪を乗せた左側の大きな建物は、土方備中守の屋敷で、左手前にあったとされる入口が見切れています。その前の菅笠に雪を乗せた通行人集団の緑色の合羽にも、雪が乗っていますね。この先には、白い小さな犬まで描かれ、広重らしさを感じさせます。
右側には桜川が流れ、左にカーブしていますが、実際にはこれほどのカーブではありません。その先桜川に覆い被さる建物は、加藤家の南東角にあった、辻番所です。この辻番所を右に入ると加藤家の入口がありました。広重の視点は、手前の藪小路に架かる橋から見ていますので、この画には藪小路そのものは描かれていません。
この場所が今どうなっているのか、実際にこの目で見てきました。
これが広重の視点より、わずかに下がった位置から撮った現在の写真です。桜川がなくなり、道幅もかなり大きくなっています。右下に見えているのが烏森通りを渡る横断歩道、つまり当時の藪小路の入口です。
右側のひさしが何枚も見えているビルが、元加藤家の位置に建つ虎ノ門ヒルズビジネスタワーで、その先が虎ノ門ヒルズ、真ん中の向こう側に二本建っているビルが青松寺の両サイドにある愛宕グリーンヒルズです。
この写真が、藪小路を見た写真です。おそらく当時よりかなり道が広くなっているはずで、左が加藤家のお屋敷だった虎ノ門ヒルズビジネスタワー、右側の木造家屋が「大坂屋砂場」で、この時は未だ、道路拡張のため曳家で、工事中でした。
現在の景色を広重の画にはめ込んでみました。まあ、何とも言えない、凄まじい変わり様ですね。武家屋敷が建ち並ぶ景色は、どこにいってしまったのでしょうか?
このあたりの空撮もご覧ください。青い線が愛宕下通り、緑の線が藪小路、現在の烏森通りです。広重の視点である赤いグラデーションも入れてみました。虎ノ門ヒルズと虎ノ門ヒルズビジネスタワーもどんなビルなのかがよく分かりますね。
特にこの虎ノ門、神谷町界隈は虎ノ門ヒルズだけでなく、中小も含めた森ビルが林立している地域です。もともと、都市計画法と建築基準法で、良好なまちづくりがなされるはずだったのに、これらの法律は、改正に改正を重ねて今に至っています。
特に1977年に施行された日影規制で、高さのあるビルの建築がある程度抑制されていました。しかしその後、国土交通省の建築審議会による改正論議で、どんどん規制が撤廃変更され、用途地域も見直されていきました。最終的には、今のようにいたるところで、高層ビルがどんどん建設できるような法体制になっていきました。
その建築審議会には、当時高層ビルやマンションを建てがっていた、リクルートや森ビルがそのメンバーに入っていたという、笑えない事実もあったりしています。
これは、この時に曳家工事中だった蕎麦屋、大坂屋砂場です。このビル陰にひっそりと建つ象徴的な建物は、1923年(大正12年)に建てられたもので、戦災や震災も免れて現在、登録有形文化財にも指定されています。
高いビルでもかまいませんが、もう少し陽の当たる、人間の暮らしを考えた、ゆとりのあるまちづくりにできなかったものでしょうか。広重の画を見てみて、そんなことを思ってしまいます。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
113の「虎の門外あふい坂」は、現在の霞ヶ関ビル脇の外堀通りにあった、滝を坂下から見た画です。
と言っても、知っている人なら、あんなところに坂も滝もないよ、と言うはずなので、まずは、広域地図からご覧ください。今回の場所を赤い点線で示しています。赤坂見附駅と新橋駅のちょうど中間ぐらいですね。
次にもう少し拡大した地図をご覧ください。これに広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。虎ノ門駅近くにある金刀比羅神社から、ちょうど特許庁のビル方向を見た景色ですね。
これに、当時の地図を被せてみます。
広重がこの画を描いた頃は、このあたりから赤坂見附までは、大きなひょうたん型の溜池でした。現在の外堀通りがほぼすっぽり入ってしまうほど大きな池でした。
地図の表示キャプションを入れ替えます。
今の霞ヶ関ビルの横ぐらいには堰があって、溜池の水が、外堀にあふれ出る場所がちょうど小さな滝のようになっていました。これを当時の江戸庶民は、葵の滝とは呼ばず、水がどんどん落ちていたので、「どんどん」と呼んでいました。
その脇の急坂が葵坂で、地図では青い線で表しました。この線の左上角が尾張一宮藩主の加納家の中屋敷で、その真向かいに辻番所がありました。そこにタチアオイが植えられていたので、この坂が葵坂と名付けられました。
線の右側には讃岐丸亀藩京極佐渡守の上屋敷があり、屋敷の西側には金刀比羅神社が祀られていて、願掛けで人気となっていました。この「こんぴらさん」は、現在でも高いビルに囲まれながらも存在しています。
実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
星のまたたく冬の寒空に三日月が浮かび、雁がSの字型に並んで飛んでいます。右上の瀧の向こう側に見えているのは今の特許庁のあたりにあった、越後村上藩、内藤家の上屋敷です。左側の坂の突き当たりには、葵が植わっていた辻番所が見えていて、その左が尾張一宮藩主の加納家中屋敷です。これを左に折れると、土手に突き当たり、その場所は今、アメリカ大使館になっています。
葵坂の頂上には「印の榎」と呼ばれる、大きな古木がありました。これは、溜池と堰堤の造成を記念して植えられたもので、このあたりの名所のひとつでもありました。
堰からの水は、常に音を立てて流れ落ちていました。葵坂には、武家や町人も描かれ、手に手に赤い提灯を持っています。当時は街に灯りなどがありませんから、提灯は夜の必需品だったわけですね。坂の途中には、蕎麦の屋台を担ぐ人と、「太平しっぽく」と書かれた屋台が見えています。これは、長崎のしっぽく料理をまねて太平椀に盛られたうどんに具をあしらったものでした。当時は流行っていたらしいのですが、今はもう廃れてしまいましたね。
一番手前で、冬なのに裸と素足で提灯を持っている二人組は、提灯に「金毘羅大権現」と「日参」と書いてあることから、寒行に来た職人ですね。まだ年季奉公中の職人は、寒の入りから節分までの30日間、自分の技量が上達するように、毎日お参りに来ていました。仕事を終え、夕暮れには身を清めてからふんどし一丁になって、提灯を持ち、鈴を鳴らしながら、金刀比羅神社に、やって来ます
それを素知らぬ顔で、無視している二匹の犬がまたいい味を出していますね。
広重は、絵本江戸土産でも、ほぼ同じ構図で、この葵坂を描いています。
こちらは、手前に「こんぴらさん」の賑わいなども描かれています。坂上の榎が強調されていますね。
これも同じ構図で少し明るく、葵坂の手前に金刀比羅神社をを描いていますね。
これはいずれも二代目広重が少しアングルの異なる、葵坂を描いたものです。
葛飾北斎も葵の滝を主題に描いています。特に奥の辻番所がかなり克明に描かれていますね。溜池の水面と、滝の水が落ちる部分と、落ちたあとの流れる水面の描き分け方は、さすが北斎という感じがしますねえ。
実際にこの場所に行ってきました。かなり正確に広重の視点から見てみるとこんな写真になってしまいます。広重の頃の葵坂は現在、ほぼ商船三井の本社ビルの場所で、金刀比羅神社からみると駐車場の入口しか見えません。
そこでちょっと外して撮った写真がこれです。左が商船三井の本社ビル、右奥が特許庁、その右が東京倶楽部ビルになります。写真真ん中あたりのバス専用レーンの青い交通標識が見えていますが、当時はもっと高くまで坂があったのではないかと考えられます。
これは歩道橋から撮った写真ですが、堰の高さはこれ以上あったと思われます。
雰囲気を合わせるために、これに広重の画をはめ込んでみました。いかがでしょうか?
実際に現在の景色を広重の画にはめ込んでみました。
夜の景色もはめ込んでみました。しかしいずれも、坂も滝もないので、なんとも言い難い違和感がありますね。
赤坂の溜池は慶長11年(1606年)ごろ、和歌山藩の浅野幸長(よしなが)がつくりました。江戸城防備の外堀の一環とするとともに、飲料用の上水ダムとしてつくった人造の湖でした。広重がこの画を描いてから約15年ぐらいしてから、溜池の干潟化が進み、堰堤となっていた石垣が取り除かれ、葵坂と呼ばれていた高みも、切り崩されて、その土が溜池の埋め立てに使われていきました。その後は、道路になり、民家になり、ビルになり、時代が滝の音のように、どんどん街を変えていきました。
今では、溜池も、滝も、葵坂も想像だにできない、幻になってしまいましたね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
114の「びくにはし雪中」は、現在の外堀通り、銀座一丁目あたりから、数寄屋橋方向を見た画です。
比丘尼橋と言えば、恵比寿や大泉を思い浮かべる人は多いのですが、まずは、広域地図をご覧ください。皇居の南東すぐぐらいのところですね。大まかな場所を赤い点線で囲ってみました。
少し拡大した地図をご覧ください。これに、広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。
東京駅八重洲口をでて、右に行くと外堀通りを南下して、鍜冶橋交差点を越えた先ぐらいに高速道路が横切っています。その直前ぐらいで立ち止まって見た景色ですね。
これに当時の地図を二枚繋げて重ねてみます。
この地図は、堀が紺色、大名屋敷が白、町人の家がグレーで描かれています。左側は大名屋敷ばっかりで、この左奥が江戸城でした。そこでこのあたりを大名小路と呼んでいました。今の東京フォーラムから始まる内堀までのビル群ですね。
この大名小路の中に、松平姓の広い屋敷が多く見受けられます。これは幕府が信頼の置ける家臣を江戸城に近い場所に住まわせたからです。
タイトルになっている比丘尼橋は、外堀から別れた京橋川にかかる小さな橋でした。この比丘尼とは、尼の格好をした私娼のことで、京橋川の北側の北紺屋町と南側の西紺屋町には公認ではない売春婦の住まいがたくさんありました。
また、実際に地図を見てもわかるように広い道路の片側は外堀で、その先は広大な大名屋敷しかなかったわけですから、この場所がちょっと寂しいところだったことは否めませんね。
さらに地図に赤い丸を三つ置きました。右側の赤い丸は当時広重が住んでいた住まいの場所です。現在のアーティゾン美術館の南側で、比丘尼橋のすぐ近所だったんですね。
さらに左側の赤い丸の部分、現在の明治生命がある場所には、広重が生まれ育った定火消屋敷がありました。数寄屋橋の北側、現在の交番の裏あたりには、あの、大岡越前で有名な南町奉行所がありました。
さらに紺色で描かれたお堀が、大きく目立ちますが、その多くがいま、高速道路になりました。それを緑色の線で表しています。これは1964年の東京オリンピック開催に間に合わせるために、早く安くできる方法が、当時まだあったお堀を有効活用することだったからなんですね。
ここで、地図を現代の地図に戻してみますね。ちょっと痛々しいですねえ。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
雪が落ちてくる暗い空の向こう側に見えているのは、数寄屋橋御門にあった火の見櫓です。ちょうど現在の有楽町マリオンの入口あたりにあったようですね。
左側から被さる庇と「山くじら」と書かれた、看板を掲げた店は尾張屋で、ももんじ屋です。ももんじ屋とは、この時代の江戸近郊の農村で、農民や猟師が捕獲した猪や鹿などの肉を食べさせたり、売っていた店のことです。
ももんじ屋は現在でも、両国橋を渡った場所に残っていますね。いわゆるジビエ料理ですね。「山くじら」とはイノシシのことであり、仏教伝来以来、四つ足の動物は、忌み嫌ってあまり食べられることはありませんでした。しかし、江戸時代半ばぐらいから、薬食い(くすりぐい)と言って、病後の体力回復のためと言う口実の下に、食べられるようになり、広重の時代には一般的な庶民の味として定着していました。実際に尾張屋では、猪とねぎを鍋で煮て出していたようです。いわゆる猪鍋ですね。
橋を渡ろうとしている、荷物を担いだ男はおでん屋で、火鉢で温めた熱燗などもメニューにあったようです。その右側、「○やき十三里」と書かれた看板が見えているお店は、焼き芋屋ですね。「栗よりうまい」の洒落で、九里と四里を合わせて「十三里」という意味でした。
また、実際にさつま芋の大産地である川越から日本橋まで、新河岸川と隅田川経由でやってくるとちょうど52キロほどなので、十三里というのが川越や芋という意味の隠語だったのかもしれませんね。
実際にこの場所に行ってきました。
これが現在の比丘尼橋跡の北側に立ったあたりからの景色です。もちろん、橋はなく京橋川を潰して作った首都高速が、上空から大きく覆い被さってきています。右側の外堀も、高速道路となり、その下に様々なお店が入っています。道路そのもも大きく拡張され、いまは6車線の外堀通りになっています。
ここで、高速道路が大きく被さっている様子を、動画でご覧ください。
視点左側から右側に振った動画もご覧ください。左側にはももんじ屋はなく、視点を右に振っていくと堀を首都高速が被さり、かつての大名小路がビルとバスターミナルになっています。
これが首都高速をくぐった先まで行って撮った写真です。ほぼ正面にある紺色のガラス張りのビルが東急プラザで、数寄屋橋交差点の向こう側にあります。
右の一番手前の白いビルが交通会館で、その先のイトシアと丸井の入っているビルの先あたりに、かつての南町奉行所がありました。
これは、大正8年に刊行された本に載っていた同じ場所の写真です。その記事に依れば、この時点で、左側のももんじ屋の尾張屋も向かいのさつま芋屋も実在していたそうです。しかし、経営者は代わっていたようですね。
これは、有楽橋の信号から今はない、比丘尼橋方面を見た写真です。この外堀通りはかなり道路が広くなってしまったので、当時の比丘尼橋は正面首都高速の真下、黄色い三角のあたりにあったと思われます。
広重の画に今の景色をはめ込んでみました。上から被さる高速道路の圧迫感と違和感が、何とも言えませんね。
生成AIを使って、実際の景色を冬景色にした画像もはめ込んでみました。ちょっとだけ雰囲気は近づきましたかねえ?
さて、実はこの画は、シリーズの最終作のひとつ前に位置づけされた作品で、実際に広重が亡くなってから発行されたものです。そのため、二代目広重が描いたのではないかと唱える研究者がたくさんいます。
その真偽のほどはわかりませんが、全体の構図といい、おでん屋の描き方や、かわいい犬も登場させるあたり、広重らしさを十分に発揮したなかなか優れた作品ではないか、と私は思っています。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
115の「高田の馬場(たかたのばば)」は、現在の西早稲田の交差点近くにあった馬場から、富士山方向を眺めた景色です。
先ずこの高田の馬場(たかたのばば)と言うのがどこにあったのかを、広域地図でご覧ください。池袋駅と新宿駅のちょうど中間ぐらいの東側ですね。
その場所を赤い点線で囲んでみました。
少し拡大した地図をご覧ください。この高田の馬場(たかたのばば)があった位置を緑色で塗ってみました。こうして見ると高田馬場駅と「高田の馬場(たかたのばば)」は、随分と離れていることがわかりますね。
この地図に、広重が描いた画の中に富士山が描かれていることを方向に加味して、広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。
この「高田の馬場(たかたのばば)」は、1636年、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬の奉納などのために造営されました。この地が高田殿の遊覧地であったことから、高田の名をとって高田馬場(たかたのばば)としたとされています。高田殿とは、徳川家康の側室で、後に越後高田藩主になった家康の六男、松平忠輝を生んだ母のことです。
さてどうして、高田馬場駅と「高田の馬場(たかたのばば)」はこんなにも離れてしまったのでしょうか。
現在の国土地理院の地図に、未だ鉄道が通っていなかった明治14年の地図を被せてみました。
1910年、山手線に駅が開業することになり、地元からの要望駅名は所在地名である「上戸塚」「諏訪之森」でした。しかし、鉄道院はそれを採用せず、駅から1km程離れた史跡の高田馬場(たかたのばば)を駅名に採用して読み方を「たかだのばば」としました。
東京の小石川に生まれた作家の永井荷風は、近代史資料の傑作、『断腸亭日乗』の中で、こんなふうに書いていました。
秋葉ヶ原(あきばがはら)を「あきはばら」、高田馬場(たかたのばば)を「たかだのばば」と読ませるのは、鉄道省の役人に東京の地名に疎い田舎者が多いからだろう、と評していました。
なんだかつい最近も、同じような話を高輪あたりで、聞いたことがありますねえ。
この、駅名になった高田馬場(たかたのばば)の史跡とは、広重が描いた、馬術の訓練のための馬場ではありません。忠臣蔵の説話の中のひとつ、「高田馬場の決闘(たかたのばばのけっとう)」の舞台だったからです。
高田馬場(たかたのばば)の北側には、今も水稲荷神社が残っており、その参道に「高田馬場の決闘(たかたのばばのけっとう)」の主役である、堀部安兵衛を顕彰する記念碑が残されています。
高田馬場の決闘(たかたのばばのけっとう)とは、元禄7年に起きた、伊予国西条藩の藩士同士による決闘のことです。事前にを劣勢を知った藩士の一人が、死ぬ覚悟で同じ堀内道場の門弟の中山安兵衛のもとへ行き、事後の処理を願い出ます。しかし、最終的に安兵衛がこの藩士に助太刀することになりました。
結果、敵方3人を斬り殺した安兵衛は、剣豪として名をあげ、その評判を聞きつけた赤穂藩士の堀部金丸が、安兵衛を娘婿に迎えることになりました。その7年後、赤穂事件が起き、堀部安兵衛も、討ち入りに参加した浪士として切腹させられてしまいます。
この事件には、尾鰭がつけられ、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材になり、忠臣蔵として当時の江戸で大ヒットしました。
その後、天皇を担ぎ上げてクーデターを成功させた薩長が明治維新を推し進めます。1905年の日露戦争後、国家主義思想の高揚にともない、忠臣蔵の命を投げ出す忠誠心が見直され、政府がこれを利用し始めます。高田馬場の駅名決定時期は、ちょうどその風潮が盛り上がった時期でした。
広重の描いた高田馬場(たかたのばば)を詳しくみていきましょう。
画面左側を占めている松の木は、馬場の北側にあった、風よけの松の木です。真ん中奥に富士山が描かれていますが、雪の積もり方が曖昧ですねえ。この画は、本来冬の画として発行されましたが、田んぼの黄色い色も踏まえてみると秋の画だったものを、急遽冬の画にしたのかもしれませんねえ。
このすぐ近所に弓矢の守護神を祀った穴八幡があり、歴代の将軍達が国家安全を祈って流鏑馬の神事を奉納していました。この画は、ちょうどその最中を描いているようですね。大きな白い丸は流鏑馬の的で、皮が張ってありました。そのため、矢尻には布がまかれ、的が破れないような工夫がしてありました。その的に当たって落ちた矢が、的の下に描かれていますね。
八代将軍徳川吉宗も、当時流行っていた疱瘡の平癒祈願のため、流鏑馬を穴八幡に奉納した、という記録が残っています。
実際にこの場所に行ってきました。
馬場はなくなり、完全に住宅街になっています。写真の右側は、元馬場の北側を走る通りで、馬術訓練を見に来た見物客が多く集まり、地元の農家が茶屋を開いたので、茶屋町通りと呼ばれています。
西早稲田の交差点から馬場だった場所を見た景色です。左が馬場南側の通りで、今の早稲田通り、右側の路地が馬場北側の茶屋町通りになります。
これが馬場下町から見た穴八幡宮の入口です。江戸時代には、子どもの蟲封じの祈禱でも有名でした。高田馬場(たかたのばば)で行われていた奉納の流鏑馬は今、毎年十月の体育の日に南側の都立戸山公園で行われています。現在は、「一陽来復御守」が有名で、冬至の日は未明から参拝客が行列を作る、名所になっています。
広重の画に、実際の今の景色をはめ込んでみました。昔馬場だった場所には、びっしりと住宅が建ち並んでしまっているので、向こうまで見通せません。ここはちょうど高台で、富士山も望めたらしいのですがねえ。
娯楽の少なかった当時、流鏑馬見物や穴八幡の参詣、「高田馬場の決闘(たかたのばばのけっとう)」の聖地巡礼的な見物は、私たちの想像以上に、このあたりに活性化をもたらしていました。
当時、政府の思惑を反映して命名された高田馬場駅のために、1975年6月、駅周辺の住所までもが戸塚町、諏訪町から高田馬場に変更されてしまいました。そのため、高田馬場と言う言葉の意味合いが完全に変わってしまいました。
広重は、考えてもいなかったことでしょうけど、時代はこの画に様々な脇道をつけ足してくれていました。
脇道ついでに、高田殿は桜で有名な越後高田藩ですが、堀部安兵衛も生まれは桜で有名な越後新発田藩です。その新発田市にも高田という地名のつく場所があります。
討ち入りに参加した47人の浪士の中で、刀で実際に人を殺害したことのあるのは、堀部安兵衛だけだったようです。これはもっと小さな脇道でしたね。
落語の演目「高田馬場(たかたのばば)」は、浅草の浅草寺境内で、がまの油売りが口上ついでに、明日「高田馬場(たかたのばば)」で決闘があると言って去って行きます。当日、高田馬場には大勢の見物人が押し寄せ、付近の茶屋や出店も大繁盛するという話です。
実はこのがまの油売り、付近のお店から礼金をもらって「高田馬場(たかたのばば)」で決闘があることを言いふらしていた、というのがオチです。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
116の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」は、現在の都営荒川線の面影橋駅からほぼ北方向を見た画です。
広域地図からその場所をご確認ください。池袋と新宿の中間、高田馬場駅の東側あたりになります。赤い点線で囲みました。
次に少し拡大した地図をご覧ください。都電荒川線は、北から明治通りに沿って南下し、神田川を渡って新目白通りを東に曲がり、その先が面影橋駅です。広重は、ほぼこの面影橋駅あたりから神田川の川の先を見た景色を描いたようです。その視点を赤いグラデーションで表してみます。
これに、JHICO MAPの当時の地図を被せてみます。新目白通りは未だ無く、面影橋を南北に走る道路があり、北に行くと南蔵院と氷川神社があり、そこを過ぎると宿坂という急な坂になり、今の目白通りを横切ります。それを青い線で表しました。
目白通りは目白台地を通る尾根道で、当時は清戸道と呼ばれていました。西へ行くと、江古田、谷原を抜けて、清瀬まで達し、ほぼ、今の川越街道と青梅街道の中間ぐらいのところを通っていた古道ですね。
現代の地図をもっと拡大して、要素を落とし込んでみました。
先ず、南蔵院の敷地は今よりもかなり広く、そこを貫くように、水田用の堀が流れていました。そこにかかる小さな橋が姿見の橋です。実際にこの水を引き込んだ池がすぐ脇にあり、覗き込むと鏡のように姿が映るぐらいなので、姿見の橋と呼ばれていました。
姿見の橋を渡り、この青い線の宿坂をそのまま北に真っ直ぐ行くと、雑司ヶ谷の鬼子母神に突き当たります。安産と子育で有名な神様ですね。さらに進むと中山道に合流し、その先は川越街道を進むこともできました。今でも細い道ですが、昔の鎌倉街道の一つでした。
南蔵院の北側全体は、砂利場村と呼ばれる、砂利の採取地でした。このためなのか判りませんが、かなり急な坂道がたくさんありました。
南蔵院裏の宿坂をはじめ、稲荷坂、小布施坂があり、いまでも都内屈指の急坂として有名です。新しく都電荒川線と並行してできたのぞき坂は、東京に雪が降ると必ず取材スタッフがやって来るほどの急坂です。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
一番手前の神田川にかかる橋が俤橋です。その先黄色くなっている部分が田んぼで、神田川沿いの低地は主に水田に利用されていました。そのための堀がその先に見える小さな川です。
広重は、長谷川雪旦の描いた江戸名所図會を参考にこの画を描いたのですが、橋と堀と、氷川神社の位置が逆になっていますね。さらに、タイトルとなっている「俤の橋」と「姿見の橋」がどっちの橋なのかも判断がつかなかったようですね。
江戸名所図會の姿見橋をみてみると、左手前、神田川に架かる大きな橋が俤の橋、その先の右端、南蔵院の近所に架かる橋が「姿見の橋」のようです。なお、ここに出てくる「氷川」とは神田川上流の下落合にある氷川神社です。
広重の画を見ると、俤の橋から、道がかなりくねっていますが、実際にはとても緩く曲がっている道です。また、俤橋を渡る人と、奥の姿見の橋のあたりにいる人との大きさの差をみると、結構な距離だと思われがちですが、現実には、200メートルぐらいの距離です。
実際にここに行ってきました。
これが広重の視点より少し後ろから見た景色です。全く遠くまで見通せませんね。
これが面影橋正面から橋越しに見た景色です。少し道が左にカーブしているので、やはり先まで見通せませんね。
これが先に行くと左側に現れる氷川神社です。創建は、平安時代の860年ごろで、最初は「山吹の里氷川宮」と呼ばれていたそうです。
氷川神社の向かいにある南蔵院正面入口です。室町時代の開山で奥州藤原氏がこの地に持ってきたと言われる、薬師如来が本尊です。
面影橋を渡ったすぐ右のマンションの前には、山吹の里の碑が立っています。
江戸川橋駅近くの新宿区山吹町から面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとしたときに、山吹の枝を差し出された故事にちなんでいます。
太田道灌は後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」と言う、古い和歌にある、「実の(みの)」と「簔(みの)」を掛けたものだと教えられます。それを聞いた道灌が、自分の無学を恥じ、それ以来和歌の精進に励み、武家六歌仙といわれるまでになった、と言う伝説です。
しかし、この「山吹の里」の場所については、ここ以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。
実際に広重の画に現在の画をはめ込みましたが、ただの橋とビルの写真になってしまいました。広重は、どうして行ったことすらないこんな場所をを名所として選んだのでしょうかねえ。
現在、このあたりの神田川は、コンクリートで護岸されてしまっています。しかし、春になると両岸から、何本もの桜が覆い被さるようにして咲き揃います。その桜のトンネルは見事としか言いようがありません。
これはちょうど面影橋から下流を見た神田川の桜です。
「東京さくらトラム」と名前を変えた都営荒川線も、面影橋辺りを走ると、桜と相まって最高の画になります。山吹でも橋でも、お寺でも砂利場でもない、これは今の、面影橋が絡んだ最高の名所かもしれませんね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
117の「湯しま天神坂上眺望」は、湯島天神の東端から北北東方向を見た画です。
その場所がどこなのかを広範囲の地図からご覧ください。上野駅の南西約2キロぐらいの場所に、湯島天神はありました。その場所を赤い点線で囲んでいます。
次に、少し拡大した地図をご覧ください。それに広重の視点を赤いグラデーションで表しました。地図では判りづらいのですが、社殿東側あたりから、不忍池方向を見たことになります。
これに当時の地図を被せてみました。青く示した湯島天神北側の切り通しは、当時からあった道だということがわかりますね。
先に広重の描いた画を詳しく見ていきましょう。
雪が止んだばかりの晴れ上がった空の下には大きな池が見えています。これが不忍池で、今でも夏前になると、蓮の花がきれいに咲くことで有名です。天海僧正が上野寛永寺のグランドデザインを任された時に、琵琶湖を模して造ったもので、池の中に赤く見えているのが中島の弁天堂です。これも本来は竹生島を模して造られました。その奥に小さく二つの屋根が見えていますが、これが寛永寺です。方向的には、東照宮か山門ではないかと思われます。
池の左、一番奥に見えている小さな屋根は、藍染川の先にあった三河吉田藩、大河内伊豆守のお屋敷です。池の手前に見えているたくさんの屋根は、池之端仲町の町屋ですね。当時は、この町屋の前を不忍池を回るように忍川が流れていて、その土手のさきが、不忍池でした。
ここは、雪見の名所でもありますから、傘をすぼめながら正面を上がってくる頭巾をかぶった人は、湯島や広小路界隈の花柳界のきれいどころですね。正面の坂が、緩やかな女坂、右から上がってくる坂がかなり急な男坂で、ちょうど二つの坂が直角に出逢う場所が、この鳥居の前でした。男坂、女坂も実際にはこの画よりかなり狭い階段になっています。
広重は、同じ場所を絵本江戸土産でも描いています。これをよく見ると女坂と男坂の中間ぐらいに弁天堂が描かれています。方向的には、こちらの方が合っているようです。
広重が描いた、お正月の湯島天神では、やはり女坂の向こうに弁天堂が描かれています。
雪の日の情景を東側から見た画がこれです。左側には、料亭らしきものが描かれていますね。
晴れた日の夕焼け頃の男坂を描いた画です。ここにも左右に料亭らしきものが描かれています。
その中の一つの料亭の景色を描いたものがこの画です。湯島松琴亭ですが、その場所ははっきり判っていません。ただ、このあたりからは江戸が一望できるほどの景勝地だったことは、判りますね。
右側の画は、二代目広重が描いたものです。こちらの設定は夜で、本堂前から雪の降りしきる男坂方面を描いています。こうして見ると、当時雪が降ると、傘と頭巾と羽織、足下は高歯の下駄、棒手振(ぼてふり)などの職人は笠と簔というのがスタンダードなスタイルだったようですね。
実際にここに行ってきました。
女坂から北側を見ると画に描かれた不忍池は見えず、正面の白いマンションしか見えません。右側にの下に見えているのが男坂で、左端が鳥居の柱です。
もう少し前に進んでもこんな感じで、ビルに囲まれてしまっているのが判りますね。
これが、本堂前あたりから、男坂、女坂が出逢うあたりを見た写真です。
これが湯島天神正面の表鳥居です。
湯島天神は、正式名を湯島天満宮といい、458年に創建された神社に、南北朝時代の1355年に、菅原道真を勧請し、江戸時代には幕府の庇護を受け、江戸の天神様として、親しまれてきました。この鳥居は東京都の指定文化財になっています。
これが本堂です。学問の神様である菅原道真を祀っているので、秋になると、たくさんの受験生が訪れ、年が明ける頃には、境内は祈願の絵馬でいっぱいになってしまいます。
2月に入ると梅まつりが開かれ、よく手入れされた様々な梅が、境内に咲き乱れ、たくさんの参詣者が待ち望んだ春を味わいにやって来ます。湯島天神の梅は、江戸時代から花見の場所として知られていて、花見の代名詞にもなっていたようです。
これは男坂を上から見た写真と下から見た写真です。湯島天神は、本郷台地の東の端に建っています。つまり崖の上の神社として、江戸時代から眺めのいい場所としても有名でした。当時は北から、不忍池、寛永寺の大伽藍、その下には一大歓楽街でもある広小路の街並み、南を見ると、江戸湾から遠くに佃島まで見渡せたといいます。
実際に広重の画に現状の写真をはめ込んでみました。哀しいかな、ビルに埋もれた感が否めませんねえ。
この湯島天神の一番の魅力は、江戸が一望できる高台からの眺望でした。しかし今では、それが全く失われてしまって、周りはビルに囲まれてしまっています。祀られている菅原道真公も、よもやこんな事態になるとは、夢にも思わなかったでしょうねえ。
そこで、鬼瓦に梅鉢紋が入った本堂を背景に、青空を見上げた梅を入れ込んでみました。こちらの方が今の江戸名所になっていると思いますが、いかがでしょうか。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
今回の118の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は、現在の北本通りあたりから王子稲荷神社を見た画らしいですが、詳しい場所はちょっと不明みたいです。
先ず広域地図で、その位置をお確かめください。
江戸城から北へ8キロほど離れた現在の王子駅あたりにあった、有名な榎の大木を描いています。
次に江戸時代の王子界隈をご理解いただくために、当時の巣鴨を描いた絵地図の一部をご覧ください。地図としての正確さには欠けますが、石神井川を中心にこの付近の見所を示しています。当時この王子あたりは江戸からちょうど一泊泊まりで遊びに行く、ちょっと離れた観光地として、とても重宝な場所した。
春は飛鳥山の桜とその東側に広がる眺望、また、石神井川沿いでは、桜と紅葉、夏は滝見や水浴びも人気でした。また、周辺には客をもてなすための茶屋もたくさんありました。よく見るとこの地図には、茶屋の名前まで書き込こまれて紹介されているほど、王子にはたくさんの江戸市民が訪れていたようです。
王子が大好きな広重は、この回に至るまでこの界隈で、5枚の画を発表しています。
今度は拡大した地図をご覧ください。
王子の観光地としての魅力はこの王子稲荷と王子神社の参詣にもありました。
特に王子稲荷神社は、毎月午の日が縁日で、2月初午の日には「凧市」が催され、格別に賑わっていました。火事を大きくする原因の風を切って高く上がる凧が、火防(ひぶせ)のお守りとして境内に並べられ、火事の多かった江戸から、たくさんの江戸市民が訪れて、この凧を買い求めていました。
この地図に広重の視点であろう場所を仮に決め、ここだろうという場所を赤いグラデーションを薄めに入れてみました。
広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず、この画はこれまで広重が描いてきた江戸の風景では無く、このあたりに古くから伝わる言い伝えを画にしたものです。
稲荷神社は、稲を象徴する五穀豊穣を司る神様で、農家から絶大な信頼を得てきました。江戸時代はまさにこのお稲荷さんの大ブームで、稲荷神社は農業神から福徳開運の万能の神とみなされるようになり、勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになっていきました。
そのため、ちょっと大きな農家や武家屋敷などには、たいてい庭の隅に小さな稲荷神社が祀ってありました。狐は、稲荷神の使いとされ、全国どこの稲荷神社でも狛犬ではなく狐が、参道や祠の両側にありました。
この王子稲荷神社は、東国三十三ヶ国の膨大な稲荷神社の総元締めで、本殿は北を向いて立っていました。その北側の田んぼの中に装束稲荷と呼ばれる小さな祠があり、その脇には大きな榎が立っていました。太さ1m、高さは20メートルほどの大木でした。
毎年、大晦日になるとこの榎の下に、東国三十三ヶ国からおびただしいほどの狐が集まってきました。狐たちは、競ってこの榎を飛び越え、高く飛んだものから順に官位を決め、命婦(みょうぶ)と呼ばれる宮廷の女官のような装束に着替えて、続々と王子稲荷へ、新年の挨拶に向かいました。神の使いである狐は、この命婦(みょうぶ)を着ることを許されていて、朝廷にも自由に出入りできる特権を持っていました。
榎の下に集まった狐は、それぞれに口にくわえた骨から狐火を発していて、農民たちはこの火の数を見て、翌年の豊凶を占ったと言われています。画の左の狐たちは榎を飛び越える順番を決めているようです。右側の狐たちは着替えを終えて、王子稲荷に向かっている狐たちですね。よく見ると、積み藁があちこちに置いてあるので、ここが田んぼだということがわかりますね。一番奥の黒い森のように描かれているのが王子稲荷神社です。
この広重の画は、長谷川雪旦が描いた江戸名所図會を参考にして描いたと言われています。その元になった画がこれです。確かに下半分の描き方は似ていますねえ。
広重は、王子稲荷の全景も三枚連続の画で、描いています。
しかしこれも、長谷川雪旦の江戸名所図會に酷似しています。どちらの画もちょっと誇張しすぎではありますが、全体のまとめ方は、どちらも広重の方がよく見えてきますね。
ついでに広重の弟子である歌川広景が同じテーマで描いているのでご覧ください。ただし、こちらは夏の設定で、狐たちが大名行列を模している、というものですが、広重の画の構成力の凄さがわかってしまいますね。
最後に、広重が同じぐらいの場所から描いた春の画があるのですが、そこに榎は描かれていません。後ろの山も、こんなに高くはなかったはずです。広重は、実際には榎を見ていないのかもしれませんね。
実際にこの場所に行ってきました。
これが現在の装束稲荷神社です。しかし、榎はありません。この社の由来板によると、明治中期に榎は枯れてしまい、王子二丁目の停留所に移転したとあります。その後の道路拡張などにより、1964年には、この場所に社殿だけを新しく造営したとあります。
さらに調べて見ると大正8年に刊行された「今昔対照江戸百景」に榎の枯れた姿を見つけました。それがこれです。その記事によると、枯れた榎は、「榎町324番地」にあると書いてあったので、北区の区役所に問い合わせたところ、この界隈に榎町という街は存在したが、住所としては存在していないことがわかりました。
これが現在の王子二丁目のバス停です。都電かバスかもわからず、しかも道路幅も当時より倍以上になっているので、これがその榎があった場所だという確証はありません。
そこでもう一度地図をご覧ください。検証と想像も踏まえて、この赤いグラデーションがやはり広重の視点ではないかと思われます。
これはその視点から、北本通りの赤羽方面を見た写真です。
これはその視点の先に少し進んで、北本通りの車線の真ん中から王子方面を見た写真です。両サイドに王子二丁目のバス停が見えています。
広重の視点と決めた場所から正面を見た写真を、広重の画にはめ込んでみました。
当然ですが、ビルに隠れて王子稲荷神社は見えていません。しかしこれではあまりにも雰囲気が違いすぎますね。
そこで、Photoshopで雪空と夜の景色にして広重の狐をあしらってみました。狐に化かされたと思って、ご覧ください。
実際に広重がこの場所に行ったことがあるのか、榎の大木を見ているのかは別にして、この画は、シリーズの中での最高傑作と言われるほど、構成といい、雰囲気といいすばらしいものがありますね。
さて、いつもこのシリーズで使う広重の画は、基本的に初摺りを使用しています。今回の画は、初摺りと後刷りの画があまりに違いすぎるので、そちらもご覧ごらんください。特に狐火の表現にご注目ください。浮世絵が摺師によって全く違うものになるのがよく分かりますね。
また、画面ではわかりませんが、オリジナルでは大榎の枝の一部分が、雲母摺りになっていて、星明りの煌めきを表現しているそうです。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
今回の119の「赤坂桐畑雨中夕けい」は、シリーズ最後に二代目広重が、しっかりと二代目という落款を入れて発行された赤坂の画です。
最初に広域地図で、その場所をご確認ください。江戸城の南西側、現在の赤坂見附の駅あたりを描いた画です。
拡大した地図をご覧ください。
地下鉄の赤坂見附の駅を西側に上がって、田町通りを、一方通行に従い南に少し下ったあたりから、ほぼ北方向を見た画です。その視点を赤いグラデーションで入れてみました。
これに当時の絵地図を被せてみました。
この地図でグレーで塗られている部分は町人の住む町屋で、赤がお寺、白い色は大名屋敷でした。現在の外堀通りはほぼ、大きな溜池だったことがわかりますね。
この溜池は、元々周囲の台地から流れ出た水が溜まって池となっていいました。それを、江戸時代の初め頃に虎ノ門に堰を作り、池を拡張して飲料水の確保と、江戸城の外堀としても利用されていました。
最初の頃、溜池の北西の畔は田んぼとして利用されていて、その後埋め立てられて町屋ができたため、このあたりを、赤坂田町と呼んでいました。
赤坂田町の東側は、溜池の護岸のために桐がたくさん植えられていました。そのため、ここを桐畑と呼んでいました。その赤坂田町を青に、桐畑を緑色にしてみました。
視点方向には、水路が斜めに二本描かれていますが、玉川上水から引いた水を虎ノ門方面へ供給するための水路です。広重の頃の江戸末期、溜池は既に飲み水としては使われなくなっていました。
いまの住所で元赤坂となっている場所、鹿島建設のKタワー界隈は、当時は赤坂裏伝馬町でした。つまり、当時の物流の拠点で、馬の駅の役割をしていました。
現在の一ツ木通りは、実際に馬と人を継ぐ町だったので、「人を継ぐ」ので、一ツ木となりました。
視点右側、堀の向こう側は、出雲松江藩松平出羽守のお屋敷で、いまは、坂の上の方が、衆参両院の議長公邸になっていて、坂下のお堀側が東急ホテルになっています。
二代目広重の画を詳しく見ていきましょう。
全体に暗めの色使いの中で、さらに上から黒いグラデーションが下りてきていて、夕暮れに、黒雲から強い雨が落ちてきているということがわかりますねえ。
急坂を登っている傘をさした人影が数人描かれていますが、ここは、現在立体交差になっている青山通りのあの急坂ですね。今は、このあたりに地下鉄の永田町駅に入るための入口があったりしています。この右端の、黒く台形に描かれているところが赤坂御門ですね。現在もその石垣の一部が都道府県会館の向かい、プリンス通りの入口に残されています。
その後は弁慶堀が入り込んでいて、その先の黒い森が、徳川御三家、紀伊徳川家のお屋敷で、現在は東京ガーデンテラス紀尾井町が建っています。その奥のちょっと雨で煙っている森は、現在、参議院議員宿舎になっている麹町6丁目あたりの森です。
この霞んでいる森の左側が近江彦根藩、井伊家の中屋敷で、現在はホテルニューオオタニになっています。
グレーから緑に至るグラデーションのあたりが、赤坂御門に上る土塁と石垣で、その下に溜池の北端がありました。溜池の手前には、桐の木が7本描かれ、尖った実が裂けて黒く枯れているので、初冬の景色になっています。
通りを歩く簔傘の職人や、赤い合羽を着た供を連れた武家二人も、少し寒そうで、この時代のもの悲しさを感じますね。
さて、初代広重も安政三年(1856年)四月に赤坂の桐畑を52景で発表しています。その視点は、この場所から少し新橋よりに行った赤坂二丁目から、いまの溜池山王駅方面を見ています。
安政五年(1858年)九月、初代広重は62歳でこの世を去ります。広重の弟子だった重宣が、それから約1年後に、広重の養女だったお辰の婿となり、二代目広重を襲名します。安政六年(1859年)六月には、「二世広重」と落款を入れたこの画を発刊し、名所江戸百景を完結させました。
これには、出版元の下谷魚栄が、二代目を引き立てるためにわざわざ「二世広重」を入れて発刊した、と言われています。
このほかに、はっきり「二世」という落款は入っていませんが、広重が亡くなってから発刊されたため、この3作品も二代目広重が描いたのではないかと言われています。12景「上野山した」、41景「市谷八幡」、114景「びくにはし雪中」です。さて、みなさんはどう判断されますか?
実際に、二代目広重が描いたこの場所に行ってみました。と言っても、その視点である今の田町通りからではビルしか見えないので、外堀通りにでて、当時の溜池の畔あたりから、同じ方向を見ています。
一番右側が山王グランドビルで、旧松平家の溜池寄りの一番端に1966年に完成しました。地図で赤い丸を入れています。
その先の白く大きなビルがエクセル東急ホテル赤坂です。1969年9月に「赤坂東急ホテル」として開業しましたが、昨年8月に営業を終了し、現在、ビルは解体中です。ピンクと白の横じまの外観から「パジャマホテル」という愛称で親しまれていましたね。
この陰に赤坂御門に上る坂があるのですが、全く見えませんね。
東急ホテルの奥にあるビルが、東京ガーデンテラス紀尾井町です。もとの赤坂プリンスと言った方が親しみがあるかも知れませんね。江戸時代には、紀伊徳川家の中屋敷があった場所です。
これは少しだけ西に移動した写真です。
一番奥、赤坂見附の立体交差の先に立っているビルが麹町ガーデンタワーで、参議院議員宿舎のすぐ西側につい最近立ちました。二代目広重の画で、一番奥の木立があったあたりですね。
その左がホテルニューオータニの別館、ガーデンコートです。茶色い色のビルがオフィス棟、その左、白く丸い屋根だけが見えているのが、ホテル棟です。江戸時代には、彦根藩井伊家の中屋敷があった場所です。
その手前、赤い文字が見えているのが赤坂見附の駅ビル、ベルビー赤坂で、現在はビックカメラがメインテナントで入っています。
この写真を二代目広重の描いた画にはめ込んでみました。やはり現代の写真らしく、人間や景色より、大きなビルたちが、画面の中で幅を利かせていますねえ。
これに黒雲を漂わせ、雨を降らせてみました。どんどん変わってきてしまった江戸、せわしなく移ろっていく東京という感じになってしまいましたねえ。二代目広重の描いた、「もの悲しさ」が表現できているでしょうか?
さて、今回で、このシリーズは最終回となってしまいました。様々なことを調べていくうちに、広重の残した画から、当時の江戸、その暮らしや雰囲気などが、つぶさに感じられ、楽しいひとときでした。
一緒にあの時代の、閉塞感、新しい時代への不安と期待なども感じ取ることができました。そんな時代の下に、私たちの今の暮らしが繋がっているのかなあ、などと、終わりかける頃に、ようやく私も感じ取ることができました。ありがとうございました。