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101
浅草田甫酉の町詣
=あさくさたんぼとりのまちもうで
Asakusa Ricefield and
Torinomachi Festival.

 

101

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
101の「浅草田甫酉の町詣」は、新吉原遊郭の妓楼の一室から、おとり様と、その参詣客を見た景色です。

まず、Applemapで、新吉原がどこにあったのかをご確認ください。
江戸城から北東に約5キロほどいったあたりですね。当時、このあたりは江戸のはずれで、民家は少なく、ほぼ畑と田んぼだけでした。

江戸幕府開設間もない1617年、現在の日本橋人形町あたりに吉原と呼ばれる公認の遊廓を許可していましたが、明暦の大火(1657年)で焼失してしまいました。そこで幕府は、既に人形町界隈がかなり住宅化していたために、再建ではなく遊郭そのものを浅草寺の裏の田甫へ移転させました。
この新しい公認遊郭は、人形町の吉原と区別するために新吉原と呼ばれていました。地図では赤い破線で表しています。

ここで少し拡大した地図をご覧ください。新吉原は、総面積2万700坪の広さで長方形の形をしており、四方には黒板塀がめぐらされ外の田園から隔離されており、さらにその外側には「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅3.6メートルの堀で囲まれていました。堀は、不審者を取り締まるのと遊女の逃亡を防ぐために設けられました。青い線の部分ですね。
新吉原唯一の出入り口は北東側の大門(おおもん)だけでした。

この上に、当時の絵地図を被せてみます。
しかし、小さすぎるので、少し拡大してみると、新吉原と鷲神社の関係がわかりますね。

これが1846年(弘化3年)の新吉原の詳細地図で、大門が右側になっています。お店がひしめき合っているのがわかりますね。

次に安政四年秋発行の細見図と呼ばれる地図をご覧ください。地震による火災から復興して、整備された新吉原に、江戸市中に散らばっていた仮店舗から、店が新たに引っ越してきた時期の地図です。大門が下になっています。当時このようなガイドマップ的な地図がベストセラーになっていました。
広重の画は右上の、赤い破線で囲まれた、海老屋、三浦屋あたりの大店の部屋を想定して描かれたのではないかと思われます。

ここで広重や国貞の残した吉原の画を見ながら新吉原と、ここで働く遊女を解説していきます。
これが広重が描いた吉原の全体像で、この敷地の中で一万人の人々が生活しており、一日千両ものお金が動いていました。
また、幕府は冥加金としてその1割を町奉行所に納めさせていたので、新吉原は、大事にされ、またその取り締まりも、ものすごく厳しいものがありました。

江戸名物の観光スポット、あるいは文化の中心でもあった吉原で、華やかにふるまう遊女達は、実は「苦界十年」と言われる過酷な生活をしていました。その十年またはそれ以上の年季を終えるまでは、吉原の外に出ることすらできませんでした。

彼女達がなぜ遊女になったのかと言えば、そのほとんどが身売りという形で吉原にやってきていました。江戸時代でも身売りは禁止されていたので、表向きは年季奉公の前借金渡しの形でしたが、実態はほぼ人身売買でした。女衒と呼ばれるリクルーターが諸国を回り、親族からの申し入れだけでなく、貧しい農民の娘を探して親を口説き、娘には甘い言葉で遊女屋に連れて来ていたのです。

農村の娘は、親がわずか3~5両、現代の価値に直すと40万~100万円に満たない額で売られてしまいました。これらの借金は彼女達自身の借金となり、膨大な利子をつけられていたので、簡単には返せず、年季10年を務めあげなければなりませんでした。遊女達がもらえる休日は正月と盆(7月13日)の、年に二回だけ。しかしこの時でも、ほとんどが自由に大門を出ることは出来ませんでした。

1849年(嘉永2年)に、梅本屋の遊女16人が共謀した放火未遂事件が起きました。彼女たちは、騒ぎに紛れて名主役宅に駆け込んで経営者の非道を訴えました。その調書には、腐ったご飯しか食べさせてもらえないとか、瀕死状態になるほどの折檻を受けたといった凄惨な日常が記されていました。

新吉原には、だいたい3000人から5000人の遊女がいましたが、大夫(たゆう)とか呼出(よびだし)などといわれる高級遊女はほんのごくわずかでした。
また、ほとんどの遊女が、年季明けになる前に性病などの病気で亡くなったり、借金を返しきれず、一生吉原から出られないというのが現状でした。

当時の遊女の平均寿命は22-23歳ぐらいだと考えられています。
遊女が新吉原から出られるのは、死んだ時でした。遊女たちの遺体は真夜中にこっそり逆さ吊りにされて吉原から運び出されていきます。三ノ輪の浄閑寺、日本堤下の今戸あたりにあった西方寺など、何箇所かあった通称「投込寺(なげこみでら)」の境内に持ち込まれ、小銭を添えて放置されるのが通常だったようです。

浄閑寺の過去帳の記録によると、一ヶ月に新吉原から運び込まれる遊女たちの遺体数は平均40人ぐらい、西方寺で28人ぐらいでした。

華やかで、悲惨な彼女達の生活実態ですが、それを乗り越え年季が明けた遊女を、世間は暖かく向かい入れまていました。
こんなエピソードがあります。最も江戸っ子らしい江戸っ子と言われた作家・山東京伝は生涯に2度結婚しましたが、いずれも花魁クラスではない普通の遊女を見受けし、妻に迎えています。京伝はある時、後輩の「南総里見八犬伝」で有名な作家、滝沢馬琴に語っています。彼女たちはみんな、優しいし、頭がいいし、女房にするには最高だと。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
未だ青味の残る空を雁が飛んでいきます。地平線の先には雪をかぶった白い富士山、その下には暗く描かれた田甫、その中でなにやら行列ができています。よく見るとたくさんの人々が熊手をかついて歩いているのがわかります。その出所が右手に隠れている鷲神社(おおとりじんじゃ)です。

鷲神社(おおとりじんじゃ)は、毎年11月酉の日が例祭で、「酉のまち」と呼ばれ、「儲けを取り込む」熊手、「人の頭になれる」八ツ頭芋、「金持ちになれる」黄金餅(栗餅)などが売られ、商売繁盛を祈る商人や職人で賑わっていました。

この日は、新吉原でも紋日で特別な祝日とされ、普段は硬く閉じている一番奥の西河岸門が解放され、お歯黒どぶに急拵えの橋もかけられ、客と同伴であれば自由に出入りができました。

左端の黒い衝立には鳥襷と呼ばれる紋が描かれ、品格ある店として描かれています。腰板には、ふくら雀が描かれ、皮肉にも「食べ物に困らない様に」「豊かに暮らせる様に」という願いが込められています。

その下には、客と同伴で外に出て、おとり様で買ってもらったのでしょうか、熊手型の簪が数本並んでいます。実は当時吉原では客寄せの縁起物として「かんざし」が大流行し、さまざまなデザインが作られ、客とのやりとりに使われていました。そんな年中行事を渓斎英泉が、海老屋の愛染太夫で描いていました。

真ん中には、格子窓からじっと外を見る白い猫が描かれています。おそらく遊女の飼い猫でしょうが、これが私には、どうしても遊女そのものに見えてきます。
今、衝立の奥ではご主人が仕事に精を出しているのに、この猫はそんなことがまるで無かったかのように、じっと外を見ています。

さて、実際にこの場所に行ってきました。といっても、この場所は正確に割り出せているわけではありません。この写真は、元新吉原の北西の端、千束四丁目の分かれ道で、この先に行くと鷲神社があります。

現在の鷲神社(おおとりじんじゃ)がこれです。江戸時代までは長国寺の境内社である鷲大明神でしたが、明治維新の神仏分離に際し独立、社名を鷲神社と改称しました。
ご神体が鷲の背に乗っている阿弥陀様で、「鷲掴み」に通じることで、出世、武運、開運の神様として人気がありました。今では田甫の中ではなく、ビルに囲まれていますが。

広重の画に現在の状態をはめ込んでみました。
とりあえずこんな状態です。

これではあまりにもオリジナルと違いすぎるので、ApplemapとGoogleEarthと富士山の合成で作ってみました。

さて私は、広重がこの絵で遊女達全体を応援したかったのではないかと考えています。
この画が発行されたのは安政四年(1857年)の11月です。ちょうど2年前の安政の大地震で、壊滅した新吉原も6月から本格的な再建、移転が始まり、この頃からちょうど賑わい始めた頃です。地震では、500人以上の遊女達が逃げ遅れて亡くなりましたが、運良く助かった遊女達も再び新吉原に戻り、年季をこなすために頑張り始めていた時期でした。

画の中の衝立の鳥襷紋、ふくら雀の鳥は遊女達の「かごの鳥」状態を意味していて、熊手型の簪で福をかき集めて、やがては外に出ることを夢見て、じっと外を見る、遊女の代わりの白い猫。考えすぎかもしれませんが、この前年剃髪して法体となった広重の、せめてもの願いがこの画に出ているような気がしています。


102
簔輪金杉三河しま
=みのわ かなすぎ みかわしま
Minowa, Kanasugi
and Mikawashima.

102私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
102の「簔輪金杉三河しま」は、現在の三ノ輪、三河島あたりにいた、タンチョウとその景色を描いたものです。

広重がこの絵を描いた場所は、現在の三ノ輪駅と三河島駅に挟まれた地域の南側あたりだと言われていますが、研究者でも確実な場所はわかっていません。地図では、赤い破線で示しています。

私は、当時の様々な古地図を見比べていくと東日暮里三丁目あたりから、東方向を見た景色ではないかと、考えています。赤いグラデーションで示しておきます。

東京ヒストリーマップの天保の頃の地図をご覧ください。もともとこのあたりには、三河島村と金杉村があり、隅田川の水がよく溢れる氾濫源となっていました。湿地帯でエサが豊富ですから、鳥たちにはとても好都合で、季節になると渡り鳥たちもたくさん集まっていました。地図にも溜池のようになった水たまりがたくさん描かれているのがわかりますね。

さて実際に広重の画を詳しく見ていきます。
この画は、安政四年(1857年)五月に冬の画として発表されました。
上から一羽のタンチョウが覆い被さるように描かれ、その下には、遠くに村らしきものが描かれています。私は、これが日光街道沿いの民家ではないかと思っています。

左側には少し大きめの民家がありその脇には、そこに向かう天秤棒を担いだ男が描かれています。この男は、ここの鶴を管理する役目の人間で、エサを与えたりする世話役でした。

もともと、江戸幕府の歴代将軍達は、武術鍛錬のために好んで鷹狩りに出かけていました。特にこのあたりは、湿地が各地にあったため、鷹狩りには絶好の場所でした。将軍達は、浅草からから来て、小塚原、橋場、蓑輪、三河島、町屋、などを回っていたようです。

さらに、このあたりは、毎年10月になると鶴が渡ってきていました。鶴は当時、吉祥、長寿の霊鳥として珍重されていたため、ここにはそのための餌場が設けられ、その周囲には、竹矢来や藁を張り巡らし、人間や犬が入り込まないように、幕府が厳重に管理していました。この左側の男は、その管理を任された、「鳥見名主」か、野犬を見張る「犬番」だと思われます。

大事にされていた鶴ですが、毎年12月の一回だけ、「鶴御成」と呼ばれる、将軍が鶴を二羽捕まえる鷹狩りが催されていました。狩られたタンチョウは一羽ずつ白木の箱に入れられて、京都の天皇と皇太子に縁起物として飛脚便で送られていたのです。

さて、鶴と言えば、日本では、タンチョウを指すことが多いようです。古代中国の伝説では仙界に棲む鳥とされていましたが、江戸時代には鶴の肉は白鳥とともに高級食材として珍重されていたようです。北海道の松前藩では、「塩鶴」として、海外にも輸出していました。しかし、これはマナヅルかナベヅルのことだったようで、タンチョウの肉は、実際には硬くあまり美味しくなかったようです。

将軍の鷹で獲ったタンチョウは「御拳(おこぶし)の鶴」と呼ばれ、宮中へ進上されていたため、鶴は、上流社会の人々の扱う鳥とされていました。実際に豊臣秀吉が鶴を捕獲した者を磔の刑に処したという例があったことから、庶民も鶴を捕獲する事は極刑であると信じていました。

江戸幕府が倒れると、鶴の受難の時代に入ります。それまで禁じられてきた鶴の狩猟が、庶民の間でも広く行われるようになり、乱獲がものすごいスピードで進みました。そのため、日本では1924年に釧路湿原でタンチョウが再発見されるまでは絶滅したと考えられていました。

1935年に繁殖地も含めて国の天然記念物となり、1967年には、地域を定めず種として特別天然記念物に指定されました。北海道庁の調査では、2021年1月時点では飼育下を含めて1516羽が確認されました。タンチョウとしても、やれやれですね。

さて、実際にこの場所に行ってみました。といっても、私が勝手にこのあたりだろう、と目星をつけた東日暮里の交差点です。

これが三河島駅方面の写真です。

これが鴬谷方面の写真です。

現在の景色を広重の画に組み込んでみました。

まあ、これはこれでいいのですが、もう一つ、釧路のタンチョウの画をはめ込んでみました。

実は、浮世絵発行に携わるグループは、幕府から何かと制限を受けていました。少しでも問題があると、すぐに発行禁止となり、浮世絵は回収を余儀なくされ、江戸所払いを始め、様々な罰則が待っていたからです。
そのため広重達絵師は、品川方面を描く時には軍事施設である台場の数や見え方をごまかしたり、江戸城脇の武器庫や弾薬庫などの場所は霞雲で隠したりする、幕府への配慮が必要不可欠となっていました。

一方、捕獲すると極刑になる霊鳥、鶴を、将軍は毎年二羽、鷹狩りで捕らえて、宮中に送るということをやっていました。タンチョウから見たら、かわいがってもらっている代わりに、毎年、生け贄を二羽差し出していたことになります。

鶴は、英語ではCraneとなり、あの重いものを吊り上げる重機の「クレーン」の語源になった言葉です。また、堅い地面を砕くための道具であるツルハシも「鶴の嘴」が語源です。
広重はこの画で、どんな重いものを吊り上げて、どんな硬いものを打ち砕こうとしたのでしょうか。
この画の発行からちょうど10年後、江戸幕府は大政奉還を決断します。

103
千住の大橋
=せんじゅのおおはし
Ohashi Bridge at Senju.

103

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
103の「千住の大橋」は、千住大橋越しに荒川の上流方向を眺めたものです。

先ず、この千住大橋がどこにあるものなのか、地図でご確認ください。
江戸城天守から、北北東に約7キロほど行ったあたり、南千住駅の少し先に流れていた荒川に架かる橋でした。当時このあたりでは、隅田川は、荒川と呼ばれていました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。広重は、橋を渡る手前の下流から少し俯瞰で、北西方向を見たようです。それを赤いグラデーションで示してみました。また、橋から南側、縦に走る道路が途中で二股になっているにがわかりますね。

江戸時代、この画が描かれた年の古地図をご覧ください。青い道が日光御成街道、赤い道が奥州街道で、橋の手前で合流して千住大橋を渡っています。

さらに1840年頃の道を中心に表した「れきちず」をご覧ください。青い丸の日本橋を北上する現在の中央通りは、筋違御門を経て、上野から国道4号線になり、南千住まで行くのが日光御成街道です。
一方、今のコレド室町あたりから右に折れ、国道6号線となって隅田川の右岸を北上して、南千住に至るのが奥州街道です。

この2つの道は、合流して、千住宿を経て、今の北千住の先、今の荒川の手前で三つに分かれます。左が日光街道、右が水戸街道、まっすぐが下妻道です。

さらに拡大した「れきちず」をご覧ください。千住大橋の架かる荒川は、遡っていくと、新河岸川で川越に、さらに遡ると入間川に繋がっていて、さらにその上流は、秩父に達していました。
また、川口あたりからは、見沼通船として、今の大宮あたりを経て、元荒川、利根川にも繋がっていました。

これは新河岸川にあった河岸、つまり川の港を記した図です。川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、魚を運んだ川越夜船の中継地として、千住が江戸の繁栄を支えたことがわかりますね。
また、千住の少し先には綾瀬川も流れ込んでおり、千住河岸は、人とものの流れが交差する、とても重要な交通の要衝だったことがわかりますね。

さて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず最初に現れるのは荒川の行き着く先、秩父連山です。専門家の書籍では、日光連山だということになっていますが、方向的に明らかに秩父連山ですね。
画面の大半を占めているのが、荒川で、この先下流では、大川、隅田川と名前を変えます。

画面左が町屋村、右対岸が北千住で橋を渡ってすぐが橋戸町となり、ここには河岸が設けられ、舟がたくさん係留してありますね。各街道からやって来た荷物や上流からの物資が行き来していました。その名残が、今でも市場として稼働しています。

橋の手前の左側が南千住で小塚原町になります。秩父から運ばれてきた材木が係留しているのがわかります。橋には、乗掛馬で渡る人、駕籠で渡る人、荷物を背負って渡る人がいて、往来が盛んだった様子が描かれています。

この千住村は、古くから水上交通の要衝とされており、室町時代からその利権争いに巻き込まれていました。天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が江戸にやって来て、五街道が整備され、文禄3年(1594年)荒川に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展していきました。

広重は絵本江戸土産で、同じような構図の画を発表しています。
江戸幕府は最初、防備のために江戸城を中心とした関八州へ入る諸街道の渡には、架橋を許しませんでしたが、千住宿だけには荒川をわたる千住大橋がかけられました。
千住大橋は6回の改修が行われましたが、最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われました。

最初の架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次で、材木は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)を寄進しました。明治18年の洪水によって流されるまで橋が存続したのは、この高野槇のおかげだという言い伝えが残っています。実際、流されてしまった後も住民たちが槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなどしていました。その後の調査によってこの高野槇の橋杭(はしくい)が千住大橋の下に残っていることが確認され、言い伝えが本当であったことが証明されました。

豊臣秀吉の時代には始まっていたという千住青物市場は、明暦年間(徳川家綱の時代)にはすでに市場として営業していました。千住大橋の架橋に伴い、農産物や川魚の中継地点となり、享保年間(徳川吉宗の時代)には様々な物資が集合・出荷されており、幕末には、武蔵、上総、下総、常陸方面の農産物も集まっていました。

宿場としての千住は、橋が架かったおかげもあり、奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わっていました。広重の頃には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒をはじめ、家は約2,400軒、人口は約1万人に達する江戸四宿最大級の宿場町になっていました。
また、文政4年(1821年)の調べによると、江戸参勤の大名は、日光街道、奥州街道、水戸街道で、計64の大名が千住の宿を往来していました。

実際にこの場所に行ってみました。
これが現在の下り専用の千住大橋を南千住側から見た写真です。
本体は、昭和48年(1973年)2月に架け替えられ、右側には、上り専用の橋のはしが並行してかけられています。写真左には東京都水道局の工業用水道専用橋もあります。

これは橋から南千住側を見た景色です。この先には、素戔嗚神社があり、最初に千住大橋が架けられた時から、大綱引きの神事が始まり、今でも続けられています。

これは上り専用の橋から北を見た写真です。この橋は、すぐに南千住交差点に降りる2車線と、千住警察署の信号から上野方面に向かう2車線が、橋の途中で別れています。写真正面には、今も残る足立の青果市場があります。

これは上り専用の橋の歩道側から、南千住方面を見た写真です。左側の車線は南千住の信号を左折して、旧奥州街道を浅草に向かいます。右奥の高架車線は、そのまま旧日光街道、4号線になって、上野に向かいます。

千住大橋を渡った先には、千住青物市場が名前を変えて、足立市場となって、東京都の施設として現在も稼働しています。

足立市場の先には、千住大橋から弟子の曽良を連れて「おくの細道」に旅立った、松尾芭蕉の石像と句碑があります。

その「おくの細道」を絵巻にした与謝蕪村の冒頭部分もご覧ください。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という文から始まります。

広重の画と少し方向は違いますが、千住大橋を東側の下流上空から見た、変わり果てた江戸北側の写真もご覧ください。

広重の画にgoogleのストリートビューの俯瞰図をはめ込んでみました。

千住大橋は、松尾芭蕉の旅立ちの舞台となっただけでなく、最後の江戸幕府将軍、徳川慶喜が水戸へ旅立った橋でもありました。
広重がこの画を発表した12年後の、慶応4年4月11日の早朝、朝霧の深い千住大橋には、慶喜を慕う民衆や旗本たちが押し寄せていました。やがて僅かな供を連れた慶喜が現れた時に、その場に平伏した山岡鉄舟を見た慶喜は、「水戸に蟄居した後も勤皇の大儀は忘れない」と声を掛けたのでした。
その言葉を聞いた山岡鉄舟が「あなたはよく我慢してくださった」といい、山岡は慶喜に対してのそれまでの無礼の数々を詫びて、その場でむせび泣いたといいます。

朝廷を担ぎ出し、クーデターを起こした薩長は幕府をけしかけて朝敵に仕立て上げ、戦争をしたがっていました。幕府側の主戦論者達も挙って薩長との対決を望んでいました。しかし、慶喜は山岡鉄舟の進言を聞き入れ、朝廷に恭順し我慢を重ね、上野寛永寺を出て、水戸に蟄居することを決意しました。江戸が火の海になるのを回避するためです。

もし、山岡鉄舟のような人物が、今のロシアとイスラエルにいたら、時代は少しだけ平和になっていたかもしれませんね。

様々なドラマを生んだであろう千住大橋、最初の架橋から今年で434年になります。

104
小梅堤
=こうめづつみ
Koumezutsumi Embankment.

104

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
104の「小梅堤」は、今の東京スカイツリーの裏側ぐらいに流れていた、曳舟川の景色を描いたものです。

最初に広範囲の地図で、その場所をご確認ください。
江戸城から北東に約5キロほどいったあたり、今の東京スカイツリー駅のあたりになります。

もう少し拡大した地図です。スカイツリーの南を東西に流れていた北十間川に、北東から曳舟川が流れ込んでいました。青い線で表しています。広重はこのカーブするあたりの景色を描いていました。その視点を赤いグラデーションで表しています。

これをストリートビューで見るとこんな感じになります。広重の視点は黄色いグラデーションです。

これを視点方向から見たストリートビューがこれです。
今は埋め立てられて道路になってしまいましたが、曳舟川を青い線で表してみました。
この曳舟川は、幕府が本所開拓のために万治二年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、今の越谷市の元荒川から深川の各地に配水、供給されていました。

その後、亨保七年(1722年)に上水としての役割を終えましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り、水戸街道に繋がっていたため、今度は重要な交通路として利用されるようになりました。
ザッパコと呼ばれる舟に旅人を乗せたまま岸からひかせたため、曳舟川と呼ばれるようになり、この様子を広重が33景として描いています。

さてここで東京ヒストリーマップをご覧ください。ベースの国土地理院の地図に当時の地図を被せていきます。
視点の小梅村は、梅香原(うめがはら)と呼ばれる梅の多い地域で、東の小梅瓦町は、隅田川を挟んだ今戸町と同じく、瓦を焼く窯がたくさんあったことから、その町名がつけられました。

また、視点のあたりには、押上村、請地村、寺島村がありますが、地面が押し上がった村で押上、浮島が浮き地になって請地、寺のある島で寺島、とすべて地名が氾濫源だったこのあたりを象徴しています。実際、荒川は入間川、新河岸川を合流して、このあたりを幾筋にも分かれて流れ、葦の茂った湿地以外の土地に人々が住んでいたようです。地図には残った水色の池がたくさん描かれていますね。

広重は、少し方向の違う画を絵本江戸土産に残しています。その解説を読むとこのあたりは広重のお気に入りだったようですね。この小梅村の氏神様は、三囲神社で、この少し先に行くと火除けで有名な秋葉神社がありました。観光地としても浅草から気軽に足を伸ばせる場所だったようです。

そんな本所小梅界隈には、参拝客目当ての料亭や茶屋なども軒をつらねていました。そんな一軒を、当時のレストランガイドとして広重が描いています。
本館らしき大きな建物の前に、接待用のはなれが点々と並んでいて、屋根付きの小舟では、女性が釣り遊びをしています。

さて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
冬の朝焼けの空を雁が飛んでいって、その空の半分を茶色い木の葉をつけた木が描かれています。これはハンノキで、用水の護岸のために植えられたものです。また奥の田圃にも同じ木が植わっていますが、これは秋になって収穫された米などを干す稲架(はさ)の代わりに使われていました。

曳舟川は、左にカーブしていますが、実際にはほぼ直線です。最後に見えている橋の、次の橋を左に行くと秋葉神社がありました。画では、左端の緑の森に囲まれた小さな屋根がそれです。

曳舟川と並行して走る道は四ツ木街道で、旅人がたくさん描かれています。まっすぐに行くと水戸街道、その手前を右に折れると柴又の帝釈天に行くことができました。その旅人相手の茶店も左に描かれています。

手前すぐの橋を渡る、武家風の二人連れの先の岸には、のんびり釣り糸を垂れる村人が描かれています。その向かいの左岸には、たくさんの笹が植えられています。これもハンノキと同じく、曳舟川堤防を強化するために植えられたものです。

よく見ると右側の二本のハンノキが笑えるほど大きく誇張して描かれています。その根元に遊ぶ子どもと犬がかわいいですね。このあたりの、当時の生活感を描いているのが広重らしいですね。

実際にこの場所に行ってきました。
現在は、川は埋め立てられ、曳舟通りという道路になっています。

もう少し前に行くと、沿道のビルがのしかかった感じになります。道路の先に見える大きな高層ビルは、京成曳舟駅前の再開発地区です。

広重の画に現在の姿をはめ込んでみました。川が道路になり、道幅も広くなり、ビルも建ち並んでいるので、当時の面影すらありませんね。
この道路は、この先、新四ツ木橋で荒川を渡り、親水公園となってお花茶屋駅と亀有駅の脇を通り、大谷田からは葛西用水という水路が復活します。そのまま水路は続き、越谷レイクタウンの西を抜けて、今でも、元荒川に繋がります。

実は江戸の名所をくまなく紹介した、江戸名所図會には、この小梅堤は掲載されていません。今では、東京スカイツリーで世界中に知られている場所も、当時はそれほど有名な場所でもなかったのかもしれません。
今まで広重はこのシリーズで、たとえ見えなくても、大好きな筑波山を半ば強引に描いてきました。同じ方向を見た33景でも、筑波山が大きく描かれています。しかし、この先正面にしっかり見えているはずの、筑波山が今回は描かれていません。
どうやら広重は、この画を数合わせのために描いたのではないか、という疑惑が生まれます。

ほら、こんな風に描かれるはずだった筑波山、広重は書き忘れちゃったのかな?

105
御厩河岸
=おんまやがし
Onmayagashi Ferry.

105

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
105の「御厩河岸」は、現在の厩橋の少し下流、御厩河岸から発着する、隅田川の渡しの夜の風景を描いたものです。

この場所がどこにあったのか、まずはご確認ください。
江戸城から北東方面に4km弱、約一里ほどいったあたりです。赤い点線で囲んでみました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。江戸時代には、このあたりに橋はなく、現在の蔵前橋と厩橋の間に舟で人を対岸に運ぶ隅田川の渡しがありました。それを赤い破線で表しています。
これに当時の地図を被せてみます。

このあたりの隅田川右岸には、700メートルに渡り、蔵が並んでいました。「浅草御蔵」と呼ばれる、幕府に納められた年貢米を貯蔵する為の米蔵です。その北側の三好町には、幕府が飼っていた馬のための厩があり、そこから発着する渡しなので、「御厩河岸の渡し」と呼ばれていました。
広重の視点であろう場所を、赤いグラデーションで表しておきます。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
画の右側は浅草御蔵の土手から生えている樫の木で、柳の枝もその上から垂れ下がっています。全体に怪しげな夜の感じが漂っています。向こう岸は、本所石原町で、小さな堀割に架かる橋は、石原橋です。

隅田川は物流のメインルートですから、筏を運ぶ船頭や、荷物や人を運ぶ猪牙舟も描かれ、左の対岸からやって来た渡し船が岸に近づいてきています。舳先で立ったまま乗っている赤い帯をした二人の女性は夜鷹で、その左に腰掛けている男は、ギュウとか、ギュウ太郎とよばれる夜鷹の客引き兼警護役です。

この渡しは、元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残っています。料金は1人2文、現在の価値で約30円ぐらいで武士は無料でした。

広重は名所江戸百景で、この御厩河岸を61景でも描いています。下流から首尾の松越しに、御厩河岸の渡しを描いています。ちょうど「浅草御蔵」の中ほどから上流の吾妻橋方向を見た夜景ですね。

この首尾の松のあたりから本所側に、もう一つ、富士見の渡しという渡し船がありました。これを葛飾北斎が富嶽三十六景の中で描いています。対岸の本所から両国橋越しに富士山を見た景色ですね。さすが北斎、見事ですねえ。

ここで再び、地図をご覧ください。
この夜鷹は、どこからやって来たかというと、本所の吉田町です。この界隈は、夜鷹の住む町として有名で、ここから隅田川を渡り、神田、浅草あたりに出かけて商売をしていました。本所側に当時の絵地図を被せてみます。

広重が江戸百を発表して好評を得ていた頃、大親友の歌川豊国は「江戸名所百人美女」というシリーズで、人気を得ていました。豊国は、その中で、同じ性風俗の女性を描いています。左は幕府公認の遊郭・新吉原の遊女、右は「ギュウ」を伴った夜鷹です。夜鷹とは、江戸時代の街娼の一種で、夜になると出てきて野外や仮小屋で売春した遊女たちのことです。金を払わずに逃げる者や言いがかりや暴力をふるう客のために必ず、「ギュウ」という用心棒がついていました。

江戸時代の新吉原の揚げ代は、普通でも500~2,000文ぐらい、現在の価値に直すと2~5万円ぐらいでした。一方、右の夜鷹は、遊女の中でも最下層の地位にあり、首から上を真っ白に塗り、綿の着物に頭巾を被り、必ずその頭巾の端の片方を口にくわえ、一枚のござを持ち歩いて、野外で性的サービスをしていました。その料金相場は24文、現在の価値に直すと、500~1000円ぐらいになります。当時のお蕎麦1杯の値段に近いので、お客は専ら、低賃金で働く労働者や、武家や商家の下級奉公人でした。

実際にこの場所に行ってみました。
きれいに護岸された隅田川テラスの正面には首都高速6号線が走り、その後にあるライオンの本所研究所のあたりが本所側の発着点だったようです。

もう少し下流に行った、このあたりが御厩河岸の渡しの右岸発着点です。

上流を見ると、厩橋とその先に東京スカイツリーが見えます。

現在の写真を広重の画にはめ込んでみました。昼の写真を暗くして、雰囲気だけ合わせています。

今回の広重の画は、夜鷹がメインモチーフになっていて、当時の江戸では多い時で4,000人ほどいたといわれています。夜鷹には貧しい家の女性や、遊女上がりの女性、生活に困っている中年女性などが就いていました。年齢は幅広く中には70歳くらいの老婆もいたそうです。

最下級と呼ばれても、夜になると町のあちこちに出没していた彼女たちは、江戸の町の日常の風景となっていました。それは、今のコンビニと同じ頻度で現れているにも拘わらず、非公認ですから、幕府から「夜鷹狩り」という名目で、たびたび取り締まりも受けていたました。税金を取ることができない幕府が行った、いわゆる「いじめ」ですね。それに対して江戸市民は普通に「働く女性」として、彼女たちにも温かい視線を向けていたようです。

よく見ると、白塗りの夜鷹の顔が二人とも、とてもユーモラスな顔をしていますねえ。広重の、彼女たちに対するやさしい眼差しが伝わってきます。

106
深川木場
=ふかがわきば
Fukagawa Lumberyard.

106

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
106の「深川木場」は、どこを描いたものかは、正確にわかっていません。ただし、当時、深川の木場と呼ばれたあたりの、材木置き場の堀割を描いたようです。

この場所がどのあたりにあったのか、まずはご確認ください。
江戸城から東南東方面に6kmほどのあたりです。大雑把ですが、赤い点線で囲んでみました。

少し拡大した地図で地下鉄東西線の木場駅あたりを見てみます。現在、駅北側の木場公園あたりはその当時材木置き場の中心だったようです。

これに当時の地図を被せてみました。
縮尺をだいたい合わせてみると、「木置場」という文字がたくさん現れ、このあたりが材木置き場だったことがわかります。水色の破線で表してみました。

もう少し、正確に調べるため、国土地理院の現在の地図に、明治14年頃の地図を被せてみます。このにも当時まだ残っていた材木置き場が明らかになります。現在の木場駅北側のほぼ全域が、この時代でも材木置き場となっていたようですね。

これは徳川家康が江戸に入府する前後に描かれた「慶長江戸図」といわれる、スケッチのような絵地図です。方向性や正確性には欠けますが、最初に描かれた江戸を知る貴重な絵地図です。この入り江が慶長8年(1603年)には埋め立てられていることなどから、慶長7年(1602年)頃の江戸の町並みを記したものではないかと推定されています。
当時、太田道灌が建てた江戸城はボロボロで、江戸湾は、今の飯田橋のあたりまで入り込み、「日比谷の入江」と呼ばれ、江戸湾の至るところに汽水域の湿地が広がっていました。

徳川家康は天正18年(1590年)江戸に入り、まず始めたのが神田上水の開設と住宅地の開発です。具体的には、湿地の埋め立てと水の確保ですね。
徳川幕府は、各地の大名に江戸の市街地普請を命じ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立てなどが行なわれ、武士とその家族らが数多く居住するとともに、町人も呼び寄せられ、江戸は急速に拡大していきました。また、全国から土木工事用の職人や大工も集められていきました。
これは元禄二年(1690年)に描かれた江戸の地図です。徳川綱吉の時代ですね。
神田上水と玉川上水も完成し、本所深川の開発も途中まで進み、人口も爆発的に増えました。しかし、この頃の建物はほぼ木造でできていたため、火事が頻発、その復興のため材木商と大工が大繁盛していました。

この頃、特に有名だったのが紀伊国屋文左衛門ですね。江戸幕府側用人で普請大名の柳沢吉保や幹部らに賄賂を贈り、上野寛永寺根本中堂の造営で莫大な利益を得て幕府御用達の材木商人となりました。しかし、その文左衛門も、深川木場の火災で「紀伊国屋材木店」を焼失、材木屋は廃業してしまいました。

そんな材木商たちは、江戸時代初期には日本橋付近に集まっていて材木河岸を形成していました。1657年の「明暦の大火」の被害があまりにも大きかったことから、幕府は神社仏閣や大名屋敷などを郊外に移転させるなど、江戸の町の大改造を計画しました。そのひとつとして、材木置き場が火事を助長するとして、材木商も日本橋から隅田川を挟んだ対岸の深川に強制的に移転させられていきました。
この地図では、下の方にある富岡八幡宮の東側は未だ、開発途中で、水辺になっていますね。

これは安政四年(1857年)に描かれた江戸の地図です。ちょうど広重が他界した年ですね。よく見ると、既に木場の材木置き場が形成されています。江戸の町そのものも、江戸城を中心にほぼ完成しています。しかし、明暦の大火以後も江戸の町に火事は途絶えず、材木商と大工の隆盛は続き、木場付近では、立派な家が建ち並んでいたようです。広重が絵を描いた頃には、18軒ほどあった材木問屋のうち16軒が深川に集中していました。

材木商と並んで、金回りのいい大工ですが、1日で銀5匁4分(約17グラム)、現在の金額に換算すると17,500円ほどは貰えました。江戸時代の長屋の家賃は一ヶ月で大体平均で500文、現代のお金で平均7,500円くらいだったといわれていますから、結構裕福な暮らしができていたわけですね。
当時の米の価格など、何を基準に現代の価値と比較するかで、見解は違いますが、大工は現代の年収で1,200万円以上という見方もあり、男社会の「江戸の町」では、「結婚できる職業」の一つともされていたことは、確かなようです。
この画のように、たいていの大工は身体に彫り物を入れ、大きな髷を頭に載せ、「宵越しの金は持たない」粋な江戸男の代名詞となっていたようです。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
しんしんと降る雪景色の中、雀が二羽舞い降りてきています。雪空の真ん中には、「あてなしぼかし」という技法で摺られた黒雲も、冬っぽい演出を強調しています。左端には、少し長さを強調された材木が、まっすぐ立てかけられています。
また今出荷を待っている、棚木に立てかけられたまっすぐな材木が両方から斜めに飛び出して、全体の遠近感を出しています。

木場は貯木用の堀割が縦横に掘られており、その一番奥には、大きな橋が架かっています。その両岸には、火事の復興需要で巨万の富を得て建てたのであろう、材木商の大邸宅が建ち並んでいます。中央の青い堀の中には材木がたくさん浮かび、その上には、蓑笠姿の川並鳶と呼ばれる、材木を自由に操る専門技能者が二人描かれています。
かつて木場の川並鳶は、水難事故の多い職業のため、溺死した時に素性を見分けるために、背中に「深川彫」と呼ばれる入れ墨を好んで入れていました。

画の左下には、雪に遊ぶ子犬が2匹描かれ、真ん中の番傘の中では、誰かが川並鳶の作業を見ながら、通り過ぎていきます。この番傘に描かれた「魚」の文字は、出版元の「魚栄」を表しているのだそうですが、それは洒落だったのか、謝礼だったのか、その真意は今となってはわかりません。

ここで箸休めに、川瀬巴水が描いた、その後の木場の姿をご覧ください。
なんだか広重と同じような気持ちで木場を描いているような気がしませんか。

さて実際にこの場所に行ってみました、といっても実際の場所が判明していないので、一番それらしい場所を、カメラに収めてみました。
木場界隈の堀割は概ね親水公園などに作り変えられています。貯木場の一部は木場公園や、東京都現代美術館などに姿を変えました。

東から西を見た空撮をご覧ください。木場公園以外はどこが貯木場だったのか、判別がつかない状態になっています。

さらに木場上空から東京湾方面を見た空撮をご覧ください。家康の頃には、右端の佃島の下側三分の一以外、見ているこのあたりはほぼ海か湿地帯でした。それが今ではどうでしょう。木場そのものも、もっと海側に移転させられて、今は、新木場となっています。

広重の画に現在の姿をはめ込んでみました。
静かな雰囲気は、広重の画に通じるものがありますが、ちょっと寂しさすら感じられますね。
江戸が町づくりをはじめた慶長の初期(1596~1614年ころ)に、摂津国、現在の大阪からやって来た、深川八郎右衛門がこのあたり一帯の開拓を始めたのが、深川開発の最初でした。その後、広重が画を描いた頃には、日本橋から材木商が引っ越してきて、材木の町となっていました。

明治維新以降は、沖合いの埋め立てが進み、木場は内陸となり海がどんどん姿を消していきます。昭和20年(1945年)3月の東京大空襲ではこの地域は一面焼け野原となりました。しかし、そのため道路整備や堀割の整備など、碁盤の目のような都市計画も一気に進んでいきます。1969年には、沖合の埋立地に新しい貯木場、新木場が建設されたため、従来の貯木場は埋め立てられて木場公園に、縦横に走る堀割は、概ね親水公園や散歩道などになり、その脇にはマンションなどが林立していきました。

明治11年(1878年)には、このあたり一帯が深川区となったのですが、昭和22年(1947年)には、深川区は城東区とあわさって江東区となりました。そのため、現在住所で深川と名乗っている地域は門前仲町の北側のほんの一部となっています。

広重のいたこの時代、江戸湾には、見たこともないような黒船がアメリカからやって来て、世の中には、尊皇だ、攘夷だという尖った意見が盛んに飛び交い、先行きの見えない時代でした。この画をもう一度見てみると、一見平和そうでもの静かな景色の中に、今に続く時代の不穏な足音が、ひたひたと聞こえてくるような気がしています。

107
深川洌崎十万坪
=ふかがわすさきじゅうまんつぼ
Fukagawa Susaki and Jumantsubo.

107

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
107の「深川洌崎十万坪」は、どこから描いたものか、正確にわかっていません。広重の視点がおそらくその当時海だったであろう場所だからです。ただし、現在の四ッ目通りの葛西橋通り北側あたりを、タイトルにある「十万坪」と呼んでいました。
先ずその場所を地図でお確かめください。

江戸城から東南東方面に約7kmほどのあたりです。その十万坪と呼ばれた地域を、大雑把ですが、赤い点線で囲んでみました。

少し地図を拡大して、その十万坪と呼ばれた場所を特定してみます。この地図に当時の絵地図を被せてみます。この赤い破線で囲まれた場所が十万坪のようです。
江戸初期に、徳川家康の命により大坂からやって来た深川八郎右衛門が、このあたりを埋め立て、開発してきました。1657年の明暦の大火以後、大名屋敷、神社仏閣が深川に移ることになり、開発が本格化していきます。

亨保8年(1723年)からは、江戸市中で発生したゴミを埋め立て、この十万坪のあたりを新田にする予定でした。しかし、水捌けの関係でそれがうまくいかず、一時は鋳銭場として使われていたものの、その後一橋家が譲り受け一橋十万坪と呼ばれていました。
地図には、南側に大名屋敷の名前もありますが、広重の画にあるように実際には、葦の生い茂る干潟だったようです。
この破線を現在の地図に戻し、縮尺の違いなどを調整すると、「十万坪」というのは、この赤い地域だったのではないかと思われます。

さて実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず圧巻なのは、夜の雪空から覆い被さってくる鷲が、かなりの迫力で描かれていることです。広重のこのシリーズで、これだけリアルに描かれているのも、これだけですね。

その下には遠く雪化粧をした筑波山が、強調して描かれています。中央右側に水たまりのように描かれているあたりは、仙台堀川が横十間川とぶつかるあたりの池のようです。その左、材木が立っているように描かれているが木場とそこに住む人たちの屋根ですね。

水面が波立っていることから、このあたりはかなりの浅瀬であることがわかりますね。潮が引けば一面が干潟になるのでしょう。その水際には松が植えられ、その先にはかなり奥まで、細かく広範囲にわたり葦原が描かれています。

面白いのは、左の水辺に木桶が一つ描かれていることです。これは、大きさから見て早桶と呼ばれる、当時の棺桶ではないかと言われていますが、どうしてここに描かれているのかは謎です。

実際にこの場所に行ってきました。広重の視点というより、十万坪という場所の中心はこのあたりではないか、と思われる場所です。左がホテルイースト21、手前の橋が、横十間川が西に折れて一個目の橋です。
左のホテルは、当時、熊本の細川越中守が所有していた土地で、明治維新後、軍の施設を経て、鹿島建設に払い下げられて資材置き場になっていた場所が、ホテルと商業施設に生まれ変わりました。

これが同じ場所から東陽町駅方面、つまり海方面を見た景色です。現在すぐ左側が江東区役所になっています。

四ッ目通りの横十間川にかかる橋から西方向を見た写真です。右側がイースト21です。この奥が木場公園になります。

これが、このあたりのApplemapからのストリートビューです。一番奥に、現在の荒川が見えています。

広重の画に、現在の姿をはめ込んでみました。
しかし、ちょっとアングルが違うので加工した画をはめ込んでみました。

私は、この画は、広重の頭の中にある死生観を描いたのではないかと思っています。
実は、この画の左側には、有名な景勝地である洲崎弁天がありました。東に房総半島、西は芝浦まで江戸湾をぐるりと手に取るように眺められ、夏は潮干狩り、秋はお月見、元日には初日の出を見る人々でたいへん賑わっていました。もし、江戸名所というなら、本来なら、洲崎弁天を描くはずです。

東京湾の潮位差は、現在でも約1.8mほどあります。この広大な干潟を持つ海は、とても豊かな海で、魚たちはもちろん、鳥たちにとってもとてもいい環境でした。おそらく毎年、ロシアやモンゴル方面から、シギ、チドリなどの渡り鳥たちが大挙して、押し寄せていたはずです。今ならさしずめ、ラムサール条約の候補地間違いなしですね。

そんな場所を広重は、圧倒的な迫力で、末法思想を象徴する景色のように描いています。
筑波山は、江戸からも見える二つの峰から男体と女体の神として、古くから崇められてきました。そんな雪化粧をした夫婦和合の山が見える、潮の満ちた冬の海には、今、棺桶がひとつ流れてきています。この中にはおそらく広重自身の、膝を抱えた亡骸が納められているのではないでしょうか。よく見ると、そこには小魚が集まり、それを狙って水鳥たちも寄ってきています。生態系の頂点に立つ猛禽類の鷲が、それを狙って上から大きく覆い被さっています。まさに、人の一生をこの画一枚で表現しているようですね。

広重は自分も死んでしまえば、こうやって自然に還っていくと考えていたのでしょうか。
この画が発行されたほぼ1年後に、広重はコレラで本当に骸になってしまいます。
江戸幕府もこの約10年後、「死に体」になり、薩長によるクーデターが成功します。

108
芝うらの風景
=しばうらのふうけい
View of Shibaura Inlet.

108

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
108の「芝うらの風景」は、現在の浜離宮の東側、当時、海だったあたりから南側を見た景色です。

まず最初に、当時、この芝浦という地域はどこを指しているのかを地図でご確認ください。だいたい東京湾の港区側の海を指しています。武蔵野台地が海に落ちるこの地域は、かなりの広範囲にわたって芝が生えていたので、「芝」と呼ばれ、陸地側を「芝浜」、海側を「芝浦」と呼んでいました。

これに、明治14年の比較的正確な地図を被せてみます。この頃でもこのあたりは海だったことがよく分かりますね。
江戸時代、今の新橋は芝口と呼ばれていて、田町は本芝(もとしば)と呼ばれていました。天正18(1590年)年徳川家康が関東にやってくる以前から、江戸湾には、数多くの漁村がありました。古川河口の海は特に有名な漁場で、貝類、ウナギ、芝海老、カレイ、黒鯛などが獲れていて、雑魚場と呼ばれる魚市場もありました。将軍家に鮮魚などを献上して特別権益を得ていた「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちがうら)」のひとつでもありました。
有名な、古典落語の演目の一つ「芝浜」もこのあたりが舞台となっています。
うだつの上がらない漁師が、芝の魚市場に行く途中の波打ち際で大金の入った財布を拾う話ですね。

もう少し地図を拡大して、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみます。
それに広重がこの絵を描いた年に発行された絵地図か被せてみます。当時、今の浜離宮は浜御殿、今の芝離宮は紀伊殿のお屋敷だったことがわかりますね。

これにもう少し、縮尺の正確な明治14年の地図を被せてみます。この頃には、紀伊殿のお屋敷は芝離宮になっているのがわかりますね。

広重の画を詳しく見ていきましょう。先ず空に飛んでいる白い頭の鳥は、冬羽のユリカモメですね。伊勢物語で在原業平が「都鳥」と呼んだ鳥といわれています。
遠くに見える山は八ツ山で、その左が品川宿、その右が高輪、さらに右が芝浦の漁村につながり、右奥は古川の河口に続いています。

ここでもう一度明治14年の地図をご覧ください。これに浜離宮を青く塗り、広重の視点も赤いグラデーションで入れてみました。
芝浦は大きく弧を描くように砂浜が続き、月の名所でもありました。さらにここでとれる魚はとても美味しく、「芝肴」という名前で呼ばれていました。江戸っ子に大人気で、時代が進むにつれ、江戸の前でとれた肴ということで、「江戸前」と呼んでさらに珍重されていきました。

左遠景には、帆を立てた舟と一緒に数個の台のようなものが見えていますが、これは台場です。江戸幕府が黒船に驚いて、慌てて江戸湾に防衛策として作った砲台です。
右側の松が植えられた石垣の島のようなものは、今も残る浜離宮恩賜庭園だといわれてきました。しかし調べて見ると当時の浜御殿は、石垣がまっすぐです。

ここで、東京ヒストリーマップさんのキャプチャをご覧ください。これに広重の視点を入れてみました。
これをみると画の右側にある石垣は浜離宮だけではなく大名屋敷の連続だったことがわかります。
一番右が浜御殿、その左が和歌山藩紀伊家のお屋敷、その左が陸奥二本松藩丹羽家のお屋敷、一番左が会津藩松平家の蔵屋敷だということがわかります。
これを広重がうまい具合にデフォルメして、連続的に見せていたようです。
現在は、右から浜離宮恩賜庭園、芝離宮、東京ガス本社、古川を挟んで東芝本社とシーバンスになっています。

広重の画の右側の石垣と松のあたりは、寛永の終わり(1644年)頃までは、葦の生い茂る湿地で、将軍家のお狩り場となっていました。神田上水、現在の神田川を掘削する際にでた土でこのあたりを埋め立て、四代将軍綱吉の弟綱重がここに下屋敷を建てました。やがてその子どもの家宣が六代将軍になって、江戸城に移り住んでから、ここを浜御殿と呼ぶようになりました。

左側には大きな杭が二本描かれていますが、これは、ここからは将軍家の土地だということを示す結界のようなもので、「御留杭(おとめぐい)」と呼ばれていました。この杭は浜御殿あたりに全部で4本ありました。しかし漁師や船頭にとっては、この杭で潮の干満差を観測できるようになっていたため、このあたりを航行する舟の「澪標(みおつくし)」の役割を担っていたようです。

広重は、絵本江戸土産でもこのあたりを描いていますが、そこでもこの御留杭が、芝浦の象徴として描かれています。

広重は、絵本江戸土産でもう一枚、海から増上寺と神明宮を見た画も描いています。このあたりの海が様々な舟の航行で、相当賑わっていたことが覗えますね。

これは広重が芝浦の海から江戸城方面を描いた画です。芝の町には結構な数の漁村が存在していたことがわかりますね。

これは、古川河口から高輪方面を見た画です。潮が引くと、かなり沖合まで砂浜になっていたことがわかりますね。

これは愛宕山から芝浦、隅田川河口方面を見た画です。手前の虎ノ門近くには火の見櫓がたくさんあるので、武家屋敷も多かったことがわかります。

実際にこの場所に行ってみました。現在は、旧築地市場の南側に新しく環状二号線が開通し、築地大橋という橋も架かっています。この写真はそのあたりから撮ったものです。
右側の石垣の庭園が浜離宮恩賜庭園で、かつての幕府の浜御殿だった場所が今は都立の公園になっています。
正面は、かつて海だった場所ですが、現在は竹芝桟橋とその周辺の再開発によって、ホテル、ビジネスビル、劇場などが建ち並んでいます。
浜離宮の後には、縮小された芝離宮があるのですが、樹木の影で見えません。

視点を右に振ると、浜離宮の全景が見えます。面積は25haで都内に残る大名庭園の中でも最大級で、横には浅草までの水上バスに乗船できる桟橋もあり、東京観光の名所になっています。
右後ろ側は、汐留の再開発地区で、高層のビルが林立しています。

視点を左に振ると、手前の隅田川の堰堤の先は勝鬨、豊海地区となり、右奥側にレインボーブリッジも見えています。写真左側は広重の頃は海だったところで、隅田川河口にあった佃島の南側をどんどん埋め立て、ここまで陸地にしました。

これは広重の視点を南側から見た写真です。正面の空き地が旧築地市場の再開発地区で、左が浜離宮恩賜庭園、右側が隅田川です。

これは、浜離宮恩賜庭園を北側から見た航空写真です。きれいな孤を描く砂浜と豊かな漁場だった海がビルで埋め尽くされているのがわかります。
ここで、当時海だったであろう場所を海水で埋めてみました。人間の開発欲の凄さがわかりますね。

広重の画に現在の写真を埋め込んでみました。品川まで望めた景色は、たくさんのビルに阻まれています。水面と浜離宮以外は、当時の面影は全くありませんね。

広重のこの画は、安政3年(1856年)2月、「名所江戸百景」シリーズで最初に発売された5枚のうちの1枚です。
1853年に浦賀沖に現れた黒船に驚いた幕府は、慌てて江戸湾に砲台となる台場を築きますが、安政2年(1855年)11月、江戸を襲った大地震で、画の中に描かれた真ん中の台場が大きく崩壊してしまいます。しかし、広重は、あたかも台場がすべて無事であるような描き方をしています。
大きく描かれた澪標は、浜御殿が幕府江戸城の出城で、ここから先は入るなということを強く示しています。

一番奥の石垣に囲まれた蔵屋敷の持ち主だった、会津藩松平容保は、慶応4年(1868年)正月に徳川慶喜らと共に鳥羽伏見の戦いを起こしたことで、朝敵扱いとなります。その後会津城に戻って徹底抗戦するも、明治元年(1868年)9月に、薩長連合軍に降伏してしまいます。

そんな時代の風が強く吹き荒れる中、向かい風に乗って、都鳥がさも嬉しそうに舞い飛んでいます。渡りであるユリカモメは、頭の色が黒くなる頃には次の新しい国に旅立っていきます。
この小さな画にはそんな時代の語り部が、たくさん描かれているようですね。

109
南品川鮫洌海岸
=みなみしながわさめずかいがん
Minami-Shinagawa
and Samezu Coast.

109

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
109の「南品川鮫洌海岸」は、現在の京急立会川駅東側あたりの海岸から鮫洲駅方向を俯瞰で見た景色ではないかと言われていますが、正確な場所はわかっていません。

先ず、鮫洲海岸というのがどこにあったのかを地図でお確かめください。
広範囲の地図で見てみると、海岸とは名ばかりで、埋め立て地に浸食されています。だいたい品川駅の南側、大雑把に赤い点線で囲んでみました。

拡大した地図で見てみると、京急の青物横丁駅北側あたりから、立会川あたり北側あたりのようです。ここでも赤い破線で囲んでみました。しかし、海岸と言うより、埋め立て地がほとんどで、立会川駅の東側にかろうじて、勝島運河があり、水辺が残されています。さらに現在、鮫洲駅と鮫洲運転免許試験場はありますが、この界隈に鮫洲や鮫洲海岸という住所は存在していません。

当時、このあたりは江戸の外だったため、絵地図などは残っていません。そこで少し広範囲の国土地理院の地図に、鮫洲海岸とおぼしき場所あたりに、赤い点線を入れて同尺の明治14年の地図を被せてみますのでご覧ください。
以前、鮫洲海岸と呼ばれているあたりは埋め立てられ第一京浜道路と並行して、海岸通りが南北に走っています。その東側には、二本の高速道路と京浜運河、八潮団地や新幹線車両基地を経て、大井埠頭が大きく広がっています。

明治14年の地図では、きれいさっぱり埋め立て地はなくなり、海岸線沿いに旧東海道が通っているのがわかります。海岸線に沿って少し薄くなっているのは潮の満ち干によって干潟になる部分です。このあたりに沢山の海苔ひびが設えてありました。

広重は、絵本江戸土産でも、同じような構図で鮫洲を描いています。
もともと海苔と言えば浅草が有名ですが、1457頃には、「浅草の海苔」が確立されていたようです。しかし、江戸中期までは、流れてきた海苔をそのまま広げて乾かした「展延法(てんえんほう)」と呼ぶ方法で作られたものが食べられていました。書物によると海苔ひびが使われ出したのは、元禄(1666年)の頃からで、海中に立てた篊で海苔が生育し、その海苔を採取することが行われていました。

その後、採取した海苔を紙すきの方法で板海苔にする方法が確立され、「浅草の海苔」が全国的に有名になっていきました。しかし、貞享(じょうきょう)4年(1685年)に、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉は生類憐れみの令を発布し、関連して元禄5年(1692年)には浅草近辺の漁業が禁止されてしまいます。
これに困った浅草の漁師達は故郷を捨てて、船が係留できる川のある江戸の南、大森あたりに移住しました。そこで、有名だった浅草のりは、大森、品川、鮫洲海岸あたりに生産地を移しますが、「浅草のり」という名前のまま全国的に広まっていきました。現在では、海苔の生産量は、有明海に面した佐賀県、福岡県、熊本県がベスト5に入っています。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず雁が飛ぶ空の彼方に見えているのが、筑波山で、その左に小さく描かれているのが日光連山です。霞雲の下に江戸湾が現れ、最初に見えてくる岬の左側に位置する集落が、品川です。江戸湾には大きな帆船が沢山描かれています。
品川宿の少し下側に位置する集落が鮫洲海岸の由来になった、海晏寺です。

建長3年(1251年)品川海上に打ち上がった大鯨の腹の中から、聖観音の木像が出てきました。これを時の鎌倉幕府に届け出ると、北条時頼が伽藍を作って安置するように命じたため、海晏寺ができたとされています。そんな由来からこのあたりを鮫洲と呼んでいました。

海の中に枝のように描かれているのが海苔ひびです。漁師達は秋の彼岸前後に、粗朶と呼ばれる枝振りのいい木の枝を海中に立てて回ります。秋の土用過ぎになると、この枝に海苔がつき始め、大きく育っていきます。漁師達は朝早く起きて、このひびの周りを回って海苔を摘み取って帰り、細かく刻み、漉いて簀の子の上で乾かします。この一連の板海苔造りがこのあたりの冬の風物詩となっていました。

実際にこの場所に行ってきました。
これが勝島運河の南側から鮫洲駅方向を見た景色です。海晏寺は、この写真のかなり先の左側になります。

これは首都高速1号横羽線の脇の運河縁から見た写真です。

これは、旧東海道側の運河縁から、もう少し鮫洲駅よりに近寄った写真です。

現在の写真を広重の画にはめ込んでみました。
方向的にはこの先に筑波山が見えているはずなのですが、如何せん視点の高さが足りませんねえ。

そこで、ApplemapからのストリートビューとGoogle Earthを組み合わせて、広重の視点を再現してみました。いかがでしょうか。あまりの変わりように、目をむくばかりですね。
元禄の頃に浅草から移ってきた漁師達は、舟が係留できる川と汽水域と干潟のできる海を求めて、この鮫洲にやって来ました。今では、海岸線は遠くに押しやられ、わずかに残された運河で、海らしい面影を残しているだけになっています。

最近は、東京湾もかつての汚れた海から随分と綺麗になってきていますね。その効果なのか、勝島運河に係留されている舟の舫いロープに今、冬になると海苔らしきものが付着しているのを見ることができます。
人間の破壊的開発も、自然にとっては、大きな歯車の中のひとつの歯のカケラなのかもしれませんねえ。

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千束の池袈裟懸松
=せんぞくのいけけさかけまつ
Robe-Hanging Pine
at Senzoku Pound.

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私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
110の「千束の池袈裟懸松」は、現在の東急池上線、洗足池駅の北に広がる池を南側から描いた画です。この池の畔で、日蓮上人が足を洗うために、袈裟を脱いで懸けたとされる見事な松が景勝地となっていました。

先ずこの場所がどこにあるのか、大きな地図からご覧ください。現在の羽田空港を西北西に辿ると、小さな池があります。その池が、今回の舞台となります。

このあたりを拡大した地図をご覧ください。池の南側には洗足池駅があり、駅と洗足池に挟まっている道路が中原街道で、洗足池あたりをすり鉢の底にして前後に大きな坂を形成しています。
広重の視点は、現在この池の東側にある交番あたりから、北西方向を見た画になっています。

この中原街道は、かなり以前から使われていた道路で、虎ノ門から丸子で多摩川を渡り、平塚の中原までほぼまっすぐ通っている道です。徳川家康が江戸にやって来た時も、この道を通ったとされています。東海道が整備されてからも、東海道の脇街道として、盛んに利用されていました。

当時このあたりは江戸の外で絵地図がないので、「れきちず」をご覧ください。中原道が左下から右上の江戸方面に伸びているのがわかります。日蓮は、馬で富士山の北を回り、箱根をから中原街道を進んで、洗足池に達しました。この南東には、入滅した場所とされる池上本門寺もあります。

広重は、絵本江戸土産でも同じ構図で同じ場所を描いています。この洗足池は、武蔵野台地の湧き水が窪地に貯まったもので、灌漑用水として長く使われてきました。大きさは、今の池よりかなり大きかったと推測されています。

日蓮は、承久4年(1222年)安房鴨川あたりの生まれとされています。各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・高野山などに遊学し、文応元年(1260年)に、「立正安国論」を時の最高権力者、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出します。
この、立正安国論は、当時広まっていた末法思想から、この世の終わりを招いた他の宗派を非難し、妙法蓮華経を用いて国家、国民を安泰の方向の導け、というものでした。

しかし、翌年日蓮は幕府によって拘束され、伊豆の伊東に流されてしまいます。その後も幕府に持論の進言を繰り返すも、受け入れられない日々を過ごした日蓮は、これ以上の活動は無意味と考え、文永11年(1274年)鎌倉を出て、甲斐国身延にはいります。

弘安4年(1281年)5月、蒙古軍が日本に向かますが、7月には大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出し退却してしまいます。この元寇は、日蓮による、末法思想や「外国からの侵略の予言」の正しさを証明するいい機会だったのですが、結果的には、邪宗として非難していた真言僧の祈祷で勝利してしまいます。

一方、建治3年(1277年)の暮れから胃腸系の病を発病していた日蓮は、元寇の失敗以後、自分の死期がが迫っていることを自覚するまで悪化してしまいました。弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒い身延の地で年を越えることは不可能と見た門下が協議し、冬を迎える前に常陸の温泉での療養を行うことになりました。

日蓮は、9月8日に馬で身延を出発し、10日後には、武蔵国荏原郡にある池上宗仲の館に到着しましたが、衰弱が進んでそれ以上の旅はできなくなってしまいました。
こんな状態で、日蓮は、洗足池に立ち寄り、袈裟を脱いで松にかけて、足を清めたというのがどうも疑問に思えてきますね。

日蓮が池上邸に滞在していることを知って鎌倉や富士、下総などから集まった、門下に最後の「立正安国論」の講義を行い、10月13日、日蓮は多くの門下に見守られて池上宗仲の館で入滅します。

入滅後、池上宗仲は館の背後にある山に日蓮を供養するための長栄山本門寺を建立します。その後は日蓮の弟子の日朗がこの本門寺を継承し、今の池上本門寺に続いています。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
一番下にグレーで見えているのが中原街道、当時の中原道です。様々なスタイルの旅人達と駕籠、馬なども描かれ、傍らには茶店、中でくつろぐ二人の旅人と店主まで描かれています。

池の上空には、白鷺が三羽飛び、その右側の杭で囲まれた、枝振りのいい松が袈裟掛けの松です。よくみるとここでも三人の観光客が描かれています。松の左に見える石柱は、天保年間に建てられた由来が書かれた銘板です。

池の左向こうにある鳥居を前にした建物は、千束八幡神社で、大分の宇佐八幡から分霊、勧請した、戦いの神様です。源の頼朝が安房の戦いに敗れ、鎌倉に帰る前に、この地に陣を張ったことで、旗揚げ八幡とも呼ばれています。
その右奥に見える緑の山は、大岡山の高まりか、もっと先の世田谷城を誇張して描いたのではないかと思われます。その奥の山は、方向的に秩父連山ですね。

実際にここに行ってきました。
これが洗足池駅から中原街道越しに池を見た景色です。池の畔は、駅の自転車置き場も兼ねているようですね。

池の際までいって、少し右側を見た景色です。このこんもりした木々のなかに袈裟掛けの松が隠れています。その奥には、この池に住んでいた大蛇を抑えたと伝わる七面大明神のお堂があります。

視線を少し左に振ると、民家が見えますが、その奥が千束八幡宮です。広重の画の左側にあった神社ですね。

これは洗足池を東から見た空撮です。左右に走る緑の線は、多摩川で、左の高層ビル群が小杉あたりになります。中原街道は、そのずっと先まで伸びています。右奥の丹沢の先には富士山が顔を出していますね。この富士山の右奥が、七面山、身延山になります。
これに広重の視点を黄色いグラデーションで入れてみました。

広重の画に現在の姿をはめ込んでみました。アングルの高い、Google Earthの画像を使っています。秩父連山がずっと連なって見えていることから、実際には、この窪んだ土地の池の畔からは、山は見えていなかったとおもわれますね。

千束という地名は、もともとこの池が水源であるため、稲千束の税をこの近辺の住民が免れたからだといわれています。それが、日蓮上人の言い伝えが有名になったため、池の名前まで、洗う足の洗足になっていったようです。そのぐらい、日蓮上人は、世の中に影響を及ぼした人だったんですね。

毎年、日蓮入滅の10月13日前後に池上本門寺で行われる「お会式」では、各地から沢山の信者が集まり、万灯や纏を振りながら、鐘や団扇太鼓をリズミカルに打ち鳴らし、行列を作って町を練り歩きました。この万灯供養は、今でも、総勢3000人が深夜に至るまで町を行列し、おおよそ30万人以上の見物客が集まり、本門寺の一大季節行事となっています。

ここで、しっとりとした川瀬巴水の本門寺と洗足池もご覧ください。
ちょっと気づいたのですが、もしかしたら、広重の画に出てくる奥の山は、秩父連山ではなく、七面山か、身延山を描いたつもりだったのかもしれませんねえ。

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