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041
市ヶ谷八幡=いちがやはちまん
Ichigaya Hachiman Shrine.

 

041

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
041の市ヶ谷八幡は、今のJR市ヶ谷駅辺りから、外堀通り方面を見た景色になっています。

まず、この視点がどこにあるのか、Applemapで調べてみました。広重の画の視点となる辺りに、赤いグラデーションを入れました。JR市ヶ谷駅前、あるいは堀に架かる橋を渡り始めた辺りから見た景色だと思われます。

これに古地図、「安政改正御江戸大絵図」をかぶせてみました。当時、堀の南側、市ヶ谷駅辺りには、市谷御門という枡形の門が設けられ、その一部がまだ現在でも残されていて、駅前の公園横で見ることができます。視点方向にはトウエンジという文字が見えますが、これは市谷八幡の別当、東圓寺で、いわゆる八幡神社の管理寺ですね。

この地図で、ひときわ大きく尾張殿と書かれた場所は、尾張徳川家の上屋敷で、明治からは軍用地として使われ、現在では市谷本村町となり防衛省と自衛隊、その関係施設がこの一帯を使用しています。堀の右側は、番町で小さな武家屋敷が林立しています。

これにもう少しはっきりした天保の古地図を、外堀に沿って三つ強引に合わせて重ねてみました。武家は白、空き地は緑、寺社はピンク、町人の住まいは、グレーで示され、より小さな長屋状態だったので、名前すら書かれていません。よく見ていくと、当時の武家社会の暮らしぶりが垣間見えてきます。番町で名前の書いてある旗本は、ほぼ幕府の実務を担当していました。しかし、役職には数に制限があったので、旗本といえども役職を得るだけでも、さぞ大変だったのではないかと想像できます。

さて、実際の広重の画を詳しく見ていきましょう。
雁行の鳥が夕刻をイメージしているのか、画全体は少し暗めです。左端には徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の火の見櫓が見えていて、それ以外は霞雲でぼかしてあります。このあたり、忖度して出版に影響するものは隠す、広重独特のやり方ですね。

真ん中に描かれた満開の櫻の横は、茶の木稲荷です。眼病を煩った者が年の初めにお茶を飲むのをやめ、その日数を決めて祈願すると、効果があるということで、多くの参詣客を集めました。この稲荷の鳥居脇には鐘楼があり、江戸に八ヶ所ある公認の時の鐘で、毎時刻、江戸市民に正確な時間を知らせていました。

右側の大きな建物が、市谷八幡宮で、1476年に太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建しました。創建当時は、外堀の内側にありましたが、1630年頃外堀改修とともに、番町が武家地となり今の場所に移されました。鶴岡八幡に対して、亀岡八幡とまで呼ばれたのに、一時は衰退、徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院の庇護を受けてから発展、江戸ハ所八幡に数えられるまでになりました。

画の一番下の右側が市谷御門に架かる橋で、その左が外堀、その岸辺には水茶屋が軒を連ね、掛け茶屋も描かれています。さらには、芝居小屋や楊弓場あったといわれており、このあたり一帯は江戸有数の歓楽街となっていました。

この画の発行時期が、初代広重がコレラで亡くなってからなので、二代目の作ではないかと言われています。

二代目広重は、絵本江戸土産で、市谷八幡表門前という画を発表しています。画の構造はほぼ一緒で、市谷の総鎮守で、霊験あらたかな茶の木稲荷とともに、常に人が行き来していて賑わっている、と解説しています。

斉藤月笒の描いた江戸名所図會では、もう少し詳しく書かれています。八幡宮拝殿の横には、神楽殿、茶屋、芝居小屋、大日如来像などもあり、かなり広かったようです。現在ではこのあたりは、予備校の校舎やマンションになっています。

実際この場所に行ってみました。がっかりするぐらい何も見えません。実際には写真中央の青い予備校看板の後ぐらいに八幡宮の本殿があります。

これは、視点から飯田橋方向を見た写真です。右側の建物が法政大学です。

これは八幡宮に登る石段の写真です。左側赤い提灯が沢山並んでいるところが、眼病に効くとされた茶の木稲荷です。

これが、今の八幡宮拝殿です。Appleのストリートビューからです。

防衛省側から飯田橋方向にカメラを回してみました。その当時、有数の歓楽街だった場所は、今や交通量の多い外堀通りになっています。

最後にこれをご覧ください。大正8年に刊行された「今昔対照江戸百景」に掲載された写真です。当時はまだ八幡宮が、広重の画のように見えていたんですねえ。

ほぼほぼ広重の視点から見た現在の写真を、絵にはめ込んでみました。実際の景色とは言え当時とはあまりにも違いすぎて落胆してしまいます。
このシリーズでは、対象物そのものが無くなってしまったというのはありますが、現存しているのに開発の陰で全く見えない、というのも悲しすぎますね。


042
玉川堤の花
=たまがわづつみのはな
Cherry Blossoms on
the Tamagawa-zutsumi River Embankment.

042私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
042の玉川堤の花は、今の丸ノ内線新宿御苑駅の南側、新宿一丁目南の信号辺りから、西側を見た画です。広重はどこから見てこの画を描いたのか、専門家からは、さまざまな意見が出ていますが、どうも決定打がありませんでした。そこで、私なりに古地図を調べて本当の視点がわかりました。その位置を決めたのは、画に描かれている橋と、武家屋敷がポイントでした。

まず現代の地図に当時の古地図を重ねていきますので、ご覧ください。
最初に現在のApplemapをご覧いただいて、そこに視点であろう場所にいつもの赤いグラデーションを入れてました。

これに嘉永三年(1853年)の四谷界隈の地図と、文久二年(1862年)の千駄ヶ谷の地図を、両方とも歪ませながら現在の地図と合うように強引に重ねました。ここで注目することは、橋が架かっていること、上水の北側が町屋になっていること、南側が武家屋敷になっていることです。

さらに、一枚に繋がった安政五年(1858)をかぶせてみました。画が描かれた年から二年後、ちょうど初代広重が亡くなった年のものです。武家屋敷の住人の名前は変わっていますが、街の構造は一緒です。

念のため、かなり正確な明治初期の地図もかぶせてみました。玉川上水の曲がり方が、ちょうど画のように視点から右に曲がっているのがわかりますね。

四谷三栄町にある、新宿歴史博物館に、当時の内藤新宿の模型があるというので見に行きました。手前が内藤駿河守のお屋敷と四谷大木戸、一番奥が今、伊勢丹のある、追分の交差点です。玉川上水とその堤の桜も再現されています。右側の大通りが新宿通り、つまり、当時の甲州街道です。

ここにも広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。実際ここにある橋は、もう少し手前にあったようです。玉川上水右側の町屋はありますが、左側の武家屋敷は再現されていませんね。

さて、これを踏まえて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
手前に橋があり、玉川上水がゆっくりと右奥から流れています。左側には大きな桜並木が続き、そこに多くの見物客がお花見に来ています。左奥には冠木門を配した武家屋敷、右側の旅籠の二階からは、飯盛り女達が花見をしています。

この画の中には、いくつかの絡み合ったエピソードが詰まっています。まず、斉藤月笒が江戸名所図會で描いた、この画の視点から300メートルほど手前の四谷大木戸をご覧ください。堅固な石垣に囲まれた大木戸は、甲州街道から江戸に出入りする人と物資を管理するものです。つまり、広重の画の舞台になった場所は江戸の外ということになります。

この画は、同じく斉藤月笒が内藤新宿の賑わいを描いたものです。江戸五街道の中でも、甲州街道には江戸城陥落の際の退路としての役割がありました。その守りの役割もあったのか、信濃国高遠藩の内藤駿河守は、幕府から広大な土地を与えられ、この地に家臣とともに屋敷を構えていました。広重の画の左側の武家屋敷は、内藤家の家臣の屋敷だと思われます。

甲州街道は、最初の宿が高井戸で、日本橋から約16キロほど離れていたため、1699年、青梅街道との分岐点でもあるこの角筈村に新しく内藤新宿が設けられ、次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所としても発展していきます。しかし、ライバルの吉原が願い出ていた「遊女商売取り締まり」に引っかかり、1718年には幕府によって宿場ごと廃止されてしまいました。

しかし、1772年には内藤新宿が50数年ぶりに再開。
この時代、宿場に遊女を置くことは認められていませんでしたが、客に給仕をするという名目で実質的な遊女として、飯盛女・茶屋女が置かれていました。それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制も緩和され、宿内に最高150人まで許されることになりました。この、事実上の遊女解禁に内藤新宿は、品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いきました。広重の画の右側に描かれた、たくさんの旅籠と飯盛り女達にはこんな背景がありました。

広重の画の真ん中にあった玉川上水は、1653年に遙か42km離れた羽村から四谷大木戸脇の水番所まで引かれた、江戸市中へ飲料水を供給を目的とした水路です。四谷からは、半蔵門を通って江戸城へ、もう一つは紀伊国坂から赤坂方面へ、それ以外は、南下して、春の小川で有名な渋谷川となり、古川と名前を変え、麻布十番経由で江戸湾に注いでいました。

この玉川上水は、水を浄化する名目で、小金井辺りでは桜がたくさん植えられ、上野、王子、御殿山などと並び称される名所になっていました。しかし幕末の頃には、小金井では老木が目立つようになり、新たに名所を作ろうと立ち上がったのが、内藤新宿でした。
原信田実著、謎解き広重「江戸百」によると、この画が発行された年、内藤新宿で玉川上水縁に桜を植えるプロジェクトが進行中で、代官と勘定奉行からも許可を取りつけ、大小76本の桜が植えられました。しかし、肝心の玉川上水を管理する奉行には未届けで、たまたま遠乗りで視察に来た老中阿部伊勢守正弘の逆鱗に触れ、撤去されてしまいます。
ですので、新宿歴史博物館にある当時の内藤新宿の模型にも、実際の桜並木はないことになってしまいます。

ではどうして、見てもいない景色を広重は描いたのでしょうか?広重がこの画を発行した前年、安政の大地震が起こり、江戸は壊滅的な被害を受けます。それから約半年、広重は、変わりゆく江戸を元気づけたかったのではないか、と私は思っています。新しい桜の名所が内藤新宿の裏通りに出来たから、みんながんばろう、みたいなプロモーションを江戸市民に向けて始めたのではないかと思っています。事実、新宿歴史博物館の壁には、広重が描いた「玉川堤の花」の三枚続きの画が壁に掲げてありました。版元の濃州屋は、地元四谷のお店です。

さて、実際にこの場所に行ってみました。目の前の道路になっているところが、玉川上水が流れていた場所です。

Googleの写真に視点の赤いグラデーションを入れてみました。内藤家の下屋敷は新宿御苑に、旅籠はビルに変わっています。

広重の視点から、四谷大木戸方面を見た写真です。右側の茂みには、今でも細々とした玉川上水が残されています。

これが駅側から見た新宿御苑正面入口、元内藤駿河守のお屋敷です。

広重の画に、今の実際の写真をはめ込んでみました。
今から170年ほど前にこの地で展開された桜の名所づくりは、根回しミスから派生した権力者の鶴の一声で、頓挫してしまいました。さて、このコロナ禍の今の日本で、権力者の鶴の一声は、本当にいい方向に作用しているのでしょうか。
なお、そのときに撤去された桜は、小金井の桜の植え替えに使われたという記録が残っています。

043
日本橋江戸ばし
=にほんばしえどばし
Towboats Along
the Yotsugi-dori Canal.

 

043

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
043の「日本橋江戸ばし」は、日本橋の北詰辺りから、橋の欄干越しに江戸橋の南側を見た画です。

まず最初に現代のAppleMapをご覧ください。左上から、右下に掛けて流れる川が日本橋川です。日本橋を境に北側が日本橋室町一丁目、つまり三越側ですね。南側が日本橋一丁目、コレド日本橋側になります。

これに天保の頃の日本橋と築地の切り絵図を、強引に合わせて重ねてみました。このあたりは当時と道路位置はあまり変わっていません。堀割が埋めてある程度です。グレーの部分で町名が描いてある場所は、江戸庶民の町屋が立ち並んでいる場所です。

さらに違う絵図を重ねてみました。江戸橋の南詰は、少し広い火除け地になっていて、蔵が建ち並んでいるのがわかります。

念のためにこの画が発表された年に改訂された一枚に繋がった地図を、拡大して重ねてみました。今の江戸橋は、もう少し東側の堀に架かっていたことがわかります。その堀に沿って、首都高速が走っていることもわかります。

最後に、現代の地図に戻してみました。

広重の画を詳しく見て行きましょう。空に三羽ほどの鳥が飛んでいて、左側に擬宝珠と欄干が描かれていて、橋そのもので画の半分以上を占めています。この擬宝珠のある橋は格式の高い橋で、町屋の中では、このほかに京橋と新橋だけだったそうです。

遠景には夜明け前の赤いグラデーション、よく見ると今、まさに顔を見せはじめた朝日が描かれています。その下、白い蔵の建ち並ぶ手前の橋が江戸橋です。この蔵は、地図で見た小舟町4丁目の蔵で、一丁目から四丁目まで周りを堀で囲まれ、奥州への船積み問屋がありました。

その右側黒っぽく画描かれているのは本材木町で、よく見ると材木らしき物が林立しています。このあたり広重もかなり細かく描いています。

江戸橋の右側、つまり南側は、地図で見たように火除け地になっていました。ここは、1657年の明暦の大火の後に、ここにあった四日市町を移転して作られた、いわゆる広小路です。楊弓場、水茶屋、講釈場、髪結いどころなどが立ち並び、有名な盛り場となっていました。

その川側には蔵と舟がたくさん描かれています。一つは、塩乾物を扱う四日市河岸、
もう一つは、画では見切れていますが、千葉の木更津を往復して、旅人や物資を運ぶ木更津河岸です。このあたりは今でいう、ショッピングセンター状態だったわけですね。

画の下の方には、盤台に入った鰹が象徴的に描かれています。これは魚を天秤棒でかついで市中に売り歩く、棒手振りと呼ばれる行商人の一部分だけを描いています。
日本橋の北側には、江戸の台所、魚河岸があり、夜を徹して運ばれてきた魚を夜明け前から集まった棒手振り達が江戸の町に運んでいきます。

当時の江戸っ子達は、初物には金額に糸目をつけないことが、粋だといわれていました。特に、相模湾で捕れた鰹がこの時期最高とされ、広重は、この鰹でそんなドラマを演出したのだと思われます。

広重は、この江戸百シリーズ最初の一枚にも日本橋を描いています。今回の「日本橋江戸ばし」とはちがい、視点が日本橋越しに富士山を見ています。冬の朝の風景と初夏の朝の風景、じっくり見比べてください。

二代目広重が、初代とほぼ同じ構図で描いたものがあります。お正月の出初め式を描いたものでしょうね、鉢巻が宙に舞っています。同じ日本橋の欄干と四日市河岸がより詳しく描かれていますね。手鉤を持った火消し衆が見切れるように描かれています。

初代広重は、三枚続きで、パノラマ形式の日本橋の画も描いています。左側が木更津河岸で、今の日本橋交番で、その先が布団の西川です。右端は、三越ですが見切れていますね。街並みの割に人が小さく描かれていて、ものすごく賑わっている感じが演出されています。

広重の先輩にあたる、歌川国安も日本橋の魚河岸の賑わいを三枚続きでコミカルに描いています。魚市場では、鰹以外にもさまざまな魚介類が取引されているのがわかりますね。日本橋には今にも落ちそうなほど人がたくさん描かれていて、その誇張が面白いですね。

広重は、雪景色のしっとりとした日本橋も描いています。雪の朝、江戸城も富士山も静まりかえった朝を迎えている空気を表現しています。画の左側、赤い着物の人が行き来する木更津河岸も、ちょうどお店が開いたばかりというところでしょうか。

広重は、白雨で人の少ない日本橋も描いています。突然の雨で、橋の上の人々が右往左往している様子が見て取れます。雨に濡れて、色が変わった橋の欄干や街並み、江戸城が、匂い立つように描かれていますね。

あの葛飾北斎も、富嶽三十六景で日本橋を描いています。奥に一石橋と江戸城、そして富士山が描かれていて、より遠近感が誇張されています。手前の日本橋はほとんど人だけしか描かれておらず、広重と全く味わいが違いますね。

実際にこの場所に行ってみました。が、上に首都高速が被さっていて何も見えません。

少し左側によって欄干の一部も視野に入れてみましたが、同じですねえ。

ちょっと引いたAppleストリートビューは、こんな感じですが、向こう側は何も見えません。

それでも、この写真を広重の画にはめ込んでみました。
どうしてこんなになってしまったのか、それは前回の東京オリンピックに遡ります。1964年に開催された東京オリンピックに間に合わせるために、安価ですぐに出来る、ということで、当時残っていた堀を中心に首都高速を作ったからです。
現在、首都高速を地下化する工事が始まっているようですが、開通は2035年、完全撤去は2040年の予定だそうです。それまでは、こんな当時の面影すらない、空も見えない景色が続くことになります。広重や、日本橋を描いたたくさんの絵師達も、まさか今、こんなことになっているとは夢にも思わないでしょう。

044
日本橋通一丁目略圖
=にほんばしとおりいっちょうめりゃくず
Vew of Nihonbashi
Tori 1-chome Street.

 

044

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
044の「日本橋通一丁目略圖」は、全員傘や菅笠をかぶっており、とても暑そうな夏の昼下がり、今の日本橋交差点からコレド日本橋を見た画です。

まず、この「日本橋通一丁目」というのは何なのか、というのを現在のApplemapからご覧ください。当初江戸城が出来た頃は江戸城の正面は、北、つまり奥州街道を向いていました。地図の中のオレンジ色のラインです。

しかし1603年、徳川家康が征夷大将軍を任ぜられた年からは、この年に出来た日本橋を中心にメインストリートが形成されていきました。やがて、江戸五街道の中山道、東海道が日本橋でつながり、江戸を南北に縦貫する道ができあがりました。
この南北に繋がる、メインストリートのうちの今の、神田須田町辺りから浜松町の先の金杉橋辺りまでを「通町」と呼ぶようになりました。地図の青いラインです。

江戸中期以降になるとそれは、日本橋から京橋までを呼ぶようになり、通一丁目から、四丁目まで、さまざまな老舗が軒を連ねていました。地図の赤いラインです。

地図の日本橋界隈を拡大してみました。青いラインが初期の「通町」、赤いラインが江戸中期以降から呼ばれた「通町」で、上から一丁目から四丁目までありました。特に通一丁目は、当時の地価日本一の場所で、商人がここに店を出すのがステイタスでした。

これに広重の視点である赤いグラデーションを入れてみました。さらにこの画が発行された当時の絵地図を上からかぶせてみました。ちょっとズレていますが。

当時、江戸城から見た「通一丁目」辺りを拡大した当時の絵地図をご覧ください。左側の日本橋から、右下の銀座方面の道が「通町」で、それに広重の画をかぶせてみました。この場所に、当時、このようなお店があったということになります。

さらに地図を現代のApplemapに差し替えてみました。これで何となく、当時この場所にあった街並みを想像できるのではないでしょうか。

では、広重の画を詳しく見ていきましょう。まず目に入るのは、右側の白木屋です。京都の材木商から始まり、1662年に通二丁目に小間物屋を開き、1665年には、この場所に引っ越してきて呉服太物商として隆盛を極め、やがて越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店になりました。

白木屋は明治以降、百貨店の先駆けとなり、震災や火災、戦争などを経て、1956年東急百貨店の傘下に入り、白木屋の名前は消滅してしまいます。今この場所には、日本橋一丁目三井ビルディング、通称コレド日本橋が建っています。

画の右端には、露店で売られているマクワウリをほおばっている菅笠の男が描かれています。マクワウリは、美濃国真桑村(いまの本巣市)が産地だったことに由来しています。幕府が江戸でも栽培できるように農民を呼び寄せ、現在の西新宿成子村あたりで盛んに栽培されていました。当時は、砂糖が高価だったため、甘い果物は水菓子として江戸庶民の大人気でした。

白木屋の後はそば屋の東喬庵ですね。白木屋の店先には、いまその東喬庵から、赤いお重に盛られたそばを肩にかついで出てきた、法被姿の奉公人も描かれています。この東喬庵は、明治になって「東京庵」と名前を変え、白木屋が店舗を拡大したときにも、裏路地の木原新道にあったという記録があります。

絵ではその木原新道から二人の男が通一丁目の大通りに出てくるところが描かれています。そのさらに先は、近江八幡出身の伴伝兵衛の店、この伴伝兵衛の店から先の日本橋際の西川甚五郎の店までいずれも近江八幡出身の畳表問屋が軒を連ねていたといわれています。広重の画では描かれていませんが、この西川甚五郎の店が今日の布団の西川です。当時、甚五郎が考案したとされる蚊帳の大ヒットで商売が軌道に乗り、日本橋を本拠として数代に渡って蚊帳問屋、弓問屋として商売を広げていったと伝わっています。

東喬庵の向かいには、いい着物を着た、大店の商家の娘らしき4人組の女性が、傘を差して歩いています。その手前には、長柄の二蓋笠(にがいがさ)と呼ばれる、二段重ねの傘をさして歩いているグループがいます。これは、かっぽれの一団で、住吉大社の住吉踊りが変化した見せ物で、当時の江戸では大道芸として認識されていました。白木綿の衣に丸ぐげ帯(帯留め)、墨染めの腰衣という姿の数人が、二蓋笠を取り巻いて踊り、その間に掛け合い噺めいたことを言って、ウケを狙って踊りました。

このかっぽれは、明治になってだんだん変化していき、後に染め浴衣に平ぐげ帯という姿の、坊主頭で踊るようになり、幇間などが得意とするお座敷芸、寄席芸として発展していきました。ただし、広重の描いた当時のかっぽれは大道芸ですから、通行人の足を止めるほどのインパクトと面白みがあったということになります。

最も手前に描かれている黄色い菅笠の洒落た女性は、女太夫という門付け芸人です。初期の頃は各戸を訪ね歩き、三味線・胡弓の弾き語りをして物乞いをしたり、正月には鳥追い笠をかぶって鳥追いとなって、鳥追い唄を歌って家々をまわりました。
女太夫の着物は綿が決まりで、襟にだけ縮緬をあしらったり、染めや色合わせに凝ったりして工夫し、それがかえって色香があって粋に見られていました。天保の改革以降は、門付以外にも呼ばれて歌うこともあり、次第に演芸をする女芸人一般を女太夫と呼ぶようにもなり、容貌に優れた者は、浮世絵にも描かれ、色恋沙汰が歌舞伎の題材になったりもしました。歌川豊国は、「江戸名所百人美女」というシリーズで江戸の女芸人も描いています。とても艶っぽい感じで描いています。

この画の中には、木綿を着た人物達がたくさん描かれています。広重のこの画が、白木屋のプロモーションのために描かれたのではないか、といわれる所以ですね。

実際にこの場所に行ってみました。写真右がコレド日本橋、左側が布団の西川、その間の小路が木原新道です。

もう少し、広重の画に合わせて、寄ってみた写真がこれです。真下が東京メトロ日本橋駅になります。コレド日本橋のcoredoは、「コア江戸」ということで江戸の中心という意味だそうです。

その中心の日本橋を見た写真がこれです。こちら側が東海道の始まりで、橋の先は少し西にカーブして、中山道の始まりとなります。左の丸みのあるビルが三越新館、その右側、青いビルがコレド室町です。

現代の写真を広重の画にはめ込んでみました。
広重の画がいかにも日本ぽい雰囲気だっただけに、その気配は微塵もありません。このコレド日本橋ができた当初、メインテナントがメリルリンチでした。1998年に破綻した、山一證券の営業網を引き継ぐ形で設立された、メリルリンチ日本法人です。今では、それもバンク・オブ・アメリカに買収され世界最大の金融機関の一つになっています。江戸の中心がアメリカになってしまいました。そう、もう、この国は、私たちが気づかないうちにアメリカになってしまったのかも知れませんね。

045
八ツ見のはし
=やつみのはし
Yatsumi Bridge.

 

045

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
045の「八ツ見のはし」は、日本銀行のはす向かい、一石橋から江戸城方面を見た画です。

まず最初に、現在の状況をApplemapでご確認ください。広重の視点は、現在の外堀通り、呉服橋の交差点から常盤橋の交差点にかかる一石橋の上からほぼ西側を見たものです。この視点を赤いグラデーションで表してみます。

これに当時の地図を上からかぶせてみました。この画の表題の「八ツ見のはし」とは、一石橋の別名で、この場所から一石橋を含めて八つの橋が見えたことに由来しています。地図上のオレンジ色の丸が一石橋で、視点前方に銭瓶橋、道三橋、右手に常盤橋、左手には呉服橋と鍜冶橋、視点後ろ側には、日本橋と江戸橋です。

現在は、銭瓶橋、道三橋は堀そのものが埋められて、撤去されています。常盤橋は、新旧2つの常盤橋になって、つい先日修復工事を終えました。呉服橋と鍜冶橋は、外堀が埋められて道路となり、橋も取り壊され、交差点名として残っています。日本橋と江戸橋は、場所を少し移動させられ、現在も残っています。一石橋は、旧親柱だけを記念に残して、新しく立派な橋になり、6車線の外堀通りになっています。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
上半分には、大きな柳の幹と、青々と垂れ下がる葉が描かれています。空には二羽の燕が気持ちよく飛んでいて、遠くに夏を迎える富士山が描かれています。富士山と一緒に描かれているのは、丹沢でしょうか。その手前には江戸城が黒っぽい木立と一緒に描かれています。

江戸城で少し高く見えている建物は物見櫓です。正面から奥に伸びる堀は、道三堀と呼ばれていて、その先に見えているのが、和田倉門の櫓ではないかと思われます。
その櫓手前の小さな橋が、道三橋、左手が館林藩秋元但馬守の上屋敷、手前の橋が銭瓶橋になります。

ここで今の高低差がわかる現在の国土地理院の地図をご覧ください。黄色くなっているところが高台で、緑から青に変わっていくところが土地の低い場所になります。江戸城が、武蔵野台地の突端に位置していることがわかりますね。

かなり大雑把ですが、徳川家康が江戸にやってきた頃は、こんな状態で低い部分に水が入り込んでいました。今の新橋辺りから、飯田橋にかけては、日比谷入江と呼ばれる浅瀬の海や湿地で、日本橋から銀座にかけては、砂が堆積して少し高台の半島状態なっていて、江戸前島と呼ばれていました。

1590年、徳川家康が江戸に入り、家臣の住居を確保した後、太田道灌が作った旧江戸城の修復工事が始まりました。築城工事の残土で日比谷入江の埋立てが始まると共に、資材の運搬などに使うために、海に抜ける「平川(日本橋川)」に繋げて初めて人工の堀が掘られ、その土で両岸が陸地になりました。ここに将軍の侍医、今大路道三が住んでいたので、この堀を道三堀と呼ぶようになりました。

徳川家康が、江戸を開府した1603年からは、全国の大名に普請を命じ、江戸の街の大改造が始まり、道三堀は、日比谷入江が埋め立てられたあとも、江戸城への物資運搬路として活用されました。さらに江戸が発展していくとともに、道三堀界隈の町屋は移転させられ、幕府にとって重要な大名達が住む町に変わっていきました。

広重がここを描いた頃には、画の左、堀の南側には、熊本藩細川越中守、館林藩秋元但馬守の屋敷や北町奉行所、画の右、北側は大手門前と呼ばれ、福井藩松平越前守をはじめ、譜代大名屋敷が立ち並び、勘定奉行所などもありました。

外堀と繋がる手前の道三堀に架かる橋が、銭瓶橋です。この名前の由来は、道三堀開削の際に銭の入った瓶が出て来たからだ、といわれています。

広重の画には、他に四つ手網を操って、漁をする舟が二隻、大きな舟から荷物を小分けにして運ぶ、茶船と呼ばれる小舟が一隻、描かれています。この場所が、外堀と日本橋川と道三堀のちょうど交差点に当たるところで、舟の行き来が盛んだったことを示しています。

画の一番下の欄干が見えている橋が一石橋で、外堀が東へ流れ出る日本橋川にかかった、最初の橋です。この橋の北には、金座の後藤庄之助が、南には、幕府御用達の呉服商後藤縫之助が住んでいたことから、後藤、つまり計量単位の五斗と五斗を足すと一石になったことから、江戸っ子達は、洒落でこの橋を一石橋と呼んでいました。

さて、実際にこの場所に行ってみました。これが今の広重の視点と同じ場所から撮った写真です。銭瓶橋も道三堀はなくなっていますが、それにしても笑えるぐらい凄いことになっていました。

もう少し後ろに下がって撮った写真がこれです。広重の画の中で、四つ手網を操っている舟がいた辺りには、つい先日、常盤橋タワーが竣工したばかりで、上にかかる高速道路も相まって、全く向こう側が見通せない状況になっています。

一石橋を北側から見た写真です。左側が外堀通りで、景色の先が今の呉服橋交差点です。

これは外堀通りですが、実際には現在の一石橋の中程の場所です。写真正面奥が東京駅八重洲口です。

そしてカメラを広重の視点から、左回りにぐるっと回してみました。

首都高速と外堀通りの騒音とともに現れたのは、一石橋から首都高速に乗り込む、呉服橋ランプです。

東洋経済社を経てその先が日本銀行で、この交差点が常盤橋です。

石でできたアーチ型の橋が19世紀にできた常盤橋です。この20メートルほど先に旧常盤橋があり、つい先日修復整備を終えました。

一石橋の袂から、常盤橋タワーを見上げてみました。これでも充分高いのに、この後に2027年には、390メートルの日本一高いトーチタワーが登場する予定です。

さて実際に広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。視点が低いとのと、常盤橋タワーと高速道路で、何も見えません。

そこで、Applemapのストリートビューとスカイツリーからの景色と、夏山の富士山を合成して、らしい景色を作り上げてみました。写真には、常盤橋タワーも390メートルのトーチタワーもまだありませんが、数年後にはこの写真にすら、巨大松明のような大きなビルが立ちはだかっているはずです。
それにしてもほんの400年ほど前には、ここに海が入り込んでいたなどということは全く信じられない景色になっていますね。しかもそれを人間の手で、作りかえたわけですから凄いことです。自然から見たら、人間ほど恐ろしいイキモノは他に見当たらないだろうなあ、などと私は思ってしまいます。

 

046
鎧の渡し小網町
=よろいのわたしこあみちょう
Yoroi Ferry in Koami-cho.

 

046

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
046の「鎧の渡し小網町」は、今の東京証券取引所の脇にあった、「鎧の渡し」の発着所から小網町方面を望んだ景色です。

まず、Applemapで場所を確認してみます。「鎧の渡し」は1872年、日本橋兜町から日本橋小網町へ架かる鎧橋という橋になりました。その西詰には、丹後舞鶴藩牧野家上屋敷がありましたが、今はその跡地に東京証券取引所が建っています。日本橋川の上には、首都高速環状線が走っています。広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。

この地図をさらに拡大してみました。これにやはり広重の視点である赤いグラデーションを入れ、さらにそこにこの画が描かれた当時の古地図をかぶせてみました。

広重の画の左側に列をなして立ち並んでいた白い土蔵は、この地図の青い部分です。この裏は、群馬の酒井雅楽守とその親戚筋である福井の松平越中守のお屋敷になっていました。緑の三角の左側に小さく「イナリ」と書いてある場所は、現在少し北東に移動して、小網神社になっています。

広重は「絵本江戸土産」で、江戸橋からこの蔵の建っていた場所を描いています。当時小網町二丁目と三丁目の川縁は鎧河岸と呼ばれ、米と菜種油を中心とした物資の集積地として大変賑わっていました。それを保管するための土蔵が建ち並んでいた様子を、広重はこの画の解説で、「まるで万里の長城のようだ」と表現しています。

広重は「絵本江戸土産」で、下流から見た「鎧の渡し」も描いています。そこには木更津船と呼ばれる大きな舟が右手前に描かれ、実際の「鎧の渡し」は左側に対照的に小さく描かれています。この画の解説には、行徳や木更津から来た舟が昼夜を問わず出入りして、たくさんの荷物が集まってきていると書かれています。この頃の鎧河岸が、いかに賑わっていたがわかりますね。

前回見た高低差のわかる地図をご覧ください。徳川家康が江戸に入府する前は、この広重が描いたとされる辺りはほぼ海で、神田山から伸びる江戸前島の東の海岸でした。

その昔、朝廷の命を受け奥州征伐に向かった源義家が、ここから下総国に向かって海を渡ろうとしたときに、暴風雨が吹き荒れていました。そこで、過去の日本武の例に倣って、龍神を鎮めるため鎧1領を海に投げ入れたところ、たちどころに風と波が静かになり、無事海を渡ることができました。その後、この辺りは「鎧が淵」と呼ばれるようになり、この渡しができたときに「鎧の渡し」と呼ぶようになったそうです。

また、奥州征伐を終え凱旋してきた源義家が、戦勝のお礼に兜を埋めた場所が「兜塚」で、それが松平和泉守のお屋敷内にあり、その事からこの辺りを「兜町」と呼ぶようになりました。これが、現在の世界経済の一翼を担う、東京証券取引所の俗称にもなっています。

さらに、10世紀初め頃この辺りを広く治めていた平将門がこの場所で、首から甲をはずしたところ、甲だけを落としてしまい、そこに塚を作り、「甲山」と呼んで、祀ったことから、兜町と呼ばれるようになった、ともいわれています。

では、実際の広重の画を詳しく見ていきましょう。
夏空には、4羽の燕が群れ遊ぶように飛び回っていて、その下には左から流れるようにして、鎧河岸の船積問屋の白い土蔵がびっしりと建ち並んでいます。その蔵を突き刺すように、木更津船と呼ばれる大型船の舳先だけが飛び出ています。

その舳先の下から、「鎧の渡し」に乗ったさまざまな人々が、混雑した日本橋川を今、まさに茅場町側に渡ろうとしています。その先には、酒樽や菰をかぶせた、黄色い荷を積んだ、茶船と呼ばれる小型船が数隻います。この舟は、大型船から荷物を小分けにして積み出す役目をしています。

「鎧の渡し」が進む方向には、猪牙舟と呼ばれる高速船が、先に下流に向かって通り過ぎようとしています。みんな、忙しそうに立ち回っている、その有り様を岸から静かに見つめる商家の娘らしい女性が一人、黒い日傘を差して後ろ姿で描かれています。

実際に現在のこの場所に行ってみました。これがその写真です。
ここも上に首都高速が被さってきていて、あまり楽しい景色ではありません。

少し岸側に寄って、首都高速の圧迫感も取り去って、もう少し画になるように写したものがこれです。

あまり代わり映えしませんが、少し後ろに下がった写真がこれです。向こう側の橋は、新大橋通りにかかる茅場橋です。おそらく広重の画の視点には、この地点が一番近いのではないかと思われます。

小網町側から鎧橋越しに東京証券取引所方面を見た写真です。広重の視点は、ちょうど今、JPXの前で人が歩いている辺りなのではないかと推測しています。

さて、広重の画に現在の写真をはめ込んでみました。視点は若干違うのですが、女性の後ろ姿を入れると、まあまあの写真なのではないかと思います。しかし、江戸の頃の喧噪は聞こえてきません。今の日本橋川は、荷物を積んだ大型船どころか、小さな遊漁船も通行不能だろうなあ、ということがわかりますね。

船積問屋の時代には、川が物資輸送を担っていましたが、現在では、川の上を走る首都高速や、川と直角に交わる新大橋通りなどの、「道路」がその代わりを担っています。そういえば、新大橋通りは築地市場に直結していたので、名前が変わる前は「市場通り」と呼ばれていましたねえ。
築地市場は、その船積問屋時代の水上輸送と鉄道輸送も考えて作られた近代的施設でした。しかしそれも、今では陸上トラック輸送だけの豊洲に移ってしまいました。石油が時代を変えてしまったんですね。

047
昌平橋聖堂神田川
=しょうへいばしせいどうかんだがわ
Seido and Kandagawa River
from Shoheibashi Bridge.

 

047

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
047の「昌平橋聖堂神田川」は、今の神田淡路町の昌平橋から北西方向、湯島聖堂とその前の昌平坂を描いた画です。

Applemapで、その場所を確認してみます。
湯島聖堂は、今のJR御茶ノ水駅の北側にあります。昌平橋は、その前の坂を秋葉原方向に下りていった先にあります。広重の視点を赤いグラデーションで示してみます。

次に地図をもう少し拡大してみました。湯島聖堂と昌平橋はこの位置にあります。ここにも広重の視点である赤いグラデーションを入れてみます。地図では、御茶ノ水駅辺りがちょうど山の頂上になります。

これにだいたいの縮尺を合わせて、安政当時の古地図をかぶせてみました。一緒に左に広重の画をはめ込んでみましたので、だいたいの雰囲気がイメージできるのではないでしょうか?

ここで、前回も使った、高低差のわかる国土地理院の地図をご覧ください。
黄色い部分が土地の高いところで、青くなっていくに従って、低い土地になります。徳川家康が江戸に入府する前は、水色の部分は、水が入り込み、湿地や海でした。新橋から、飯田橋辺りまでは、日比谷入江が入り込み、神田辺りから南側は砂洲となって、江戸前島と呼ばれていました。

そこでこの赤い丸で囲った部分は、神田川が不自然に神田山の台地をを貫いていることがわかりますね。そうです、ここは山を切り崩して、人工的に作った水路です。広重の画の中に登場する、いささか大げさな左の駿河台と正面の湯島聖堂の坂は、この山、本郷台地の名残だったのですね。

1615年に大坂の陣で大坂城の豊臣家が滅亡する頃、徳川幕府二代将軍・徳川秀忠は、日本橋川の洪水から江戸の町を守るために、本格的な治水工事に着手します。今の東京ドームのあるあたりから、南の日比谷入江に流れ込んでいた神田川を、西にまっすぐな水路を作り直接隅田川に流すことにしました。しかし、行く手には、本郷台地の山が立ちはだかっていたわけですから、約30年ほどかかってしまいます。

この難工事を請け負ったのが、仙台藩祖・伊達政宗でした。1660年からは、仙台藩第4代藩主・伊達綱村が、拡幅工事を請け負い、やっと今のような形になりました。そのため、治水工事だけではなく、北の脅威から江戸城を守るための工事だったのではないかと、歴史家達は見ています。

工事が完了後、この本郷台地を切り取った谷は、江戸庶民からは銘渓と呼ばれ、観光地にもなりました。水路は神田川ではなく「仙台堀」と呼ばれ、佐久間河岸始め、さまざまな河岸もでき、水運の担い手となりました。さらに崖の中腹からは、本郷台地の地層から良い水が湧き出したため、この辺りがお茶の水とも呼ばれました。

広重の描いた画を詳しく見ていきましょう。
左の急峻な山は、駿河台で、徳川家康が駿府から呼んだ武士達がたくさん住んでいたことから、こう呼ばれました。
正面の森と段差のある練塀(ねりべい)が並んだ場所が湯島聖堂です。

練塀(ねりべい)とは、瓦と練土を交互に積みあげ、上を瓦で葺いた土塀のことです。瓦と土の織りなす縞模様が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。湯島聖堂はこの練塀で四方を囲まれています。

これが今の湯島聖堂正面です。聖堂とは中国の孔子とその弟子達の廟という意味で、1690年に上野忍ヶ丘にあったものを五代将軍綱吉が移転させました。先聖殿が聖堂となり、弘文館は、幕府直轄の昌平黌(昌平坂学問所)となり、今では「日本の学校教育発祥の地」と呼ばれています。

聖堂前の坂には通行人が数人、神田川には菰をかぶった舟が数隻浮かんでいます。神田川が開通してから、舟による輸送網も整備されたというのがわかりますね。
右下に見えている欄干が昌平橋、正面の坂が昌平坂ですが、聖堂が移築される前までは、それぞれ相生坂、相生橋と呼ばれていました。聖堂がやって来てから、孔子の生まれ故郷である昌平郷から、いつしか呼び替えられたようです。

実際にその場所に行ってみました。
神田川は現在、コンクリートで護岸され、左がJR中央線、右の高架がJR総武線で、ずっと先には東京メトロ丸ノ内線の線路が見えています。湯島聖堂は、その木立がわずかに見える程度ですね。

聖橋の上から秋葉原方向、広重の視点方向を見てみました。ずっと先に見える橋が昌平橋です。ここから左を向いていくと練塀に囲まれた湯島聖堂です。

さて、広重の画に現在の風景をはめ込んでみました。原画で広重が、かなりデフォルメを効かせて大げさに高低差を描いていた、というのもありますが、見る限りにおいては山を切り開いたという感じはしませんね。伊達藩が大工事の末に通水させた神田川は今、コンクリートに囲まれ、巨大な下水道状態になっていて、その上を3方向からの電車が交差し、未来的な状態になっています。
伊達藩の偉業に対して、せめて神田川の名前は「仙台堀」に戻してあげたいものですねえ。

 

048
水道橋 駿河臺
=すいどうばしするがだい
Suidobashi bridge and Surugadai hill.

 

048

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
048の「水道橋 駿河臺」は、現在の御茶ノ水駅と水道橋駅の中間ぐらい、順天堂大学の西、元町公園向かいの神田川縁からほぼ西南西方向を見た画です。

Applemapで、まずその場所をご確認ください。広重の視点と思われる場所に赤いグラデーションを入れてみました。当時は、この神田川を境にして、北側を小石川、南側を駿河台や小川町と呼んでいました。

この神田川は、江戸時代に日本橋川流域の洪水防止のために、本郷台地に切り通しを作り、直接隅田川に水を流すようにした、人工の川です。

神田川は、正式には、神田上水のことで、江戸に飲料水を運ぶため、井の頭池から端を発し、善福寺川、妙正寺川、花園川などを合流して、現在の江戸川橋辺り、関口の洗堰から、取水していました。地図では緑色の水路ですね。ですから、正確には、今の神田川は、取水後の余水の流路でした。

神田上水本流は、関口の洗堰から、目白台、小日向台の縁に沿って、小石川の水戸屋敷を横切り、懸樋で神田川を跨ぎ、駿河台のトンネルを通り、江戸城内と神田、日本橋の町屋へ給水されていました。そのためその懸樋の上流にできた神田川の橋を、水道橋と呼びました。それは、今の水道橋より10mほどお茶の水寄りだったそうです。

広重は少し下流から、水道橋の懸樋も入れた画も描いています。左の画です。この画を見ると懸樋は結構大きく、かなり立派なものだったことがわかりますね。遠くに水道橋も見えています。左の松の植わった山が駿河台です。

右の画は、二代目広重がお茶の水界隈を、初代広重のように誇張せず描いた画です。当時、富士山以外は、実際にこんなふうに見えていたのではないかと思われます。江戸市民の何気ない仕草が、より現実的に見せてくれていますね。

それでは実際の広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず目に入るのは、真ん中の大きな鯉のぼりです。そこでこの画は、ちょうど端午の節句の頃だということがわかりますね。

男の子の成長を祝い、健康を祈るこの「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東だけの風習となっていたようです。それも最初は、幟に描かれた画だったものが、紙ででき吹き流しになり、江戸中期頃から今のような布製の吹き流しになっていきました。ただし、現代のようにカラフルな鯉のぼりセットではなく、黒い真鯉だけだったようです。

五月幟と言えば全国的には、平面的な幟にまず家紋を描き、名前や武者画、兜、鎧、鯉の滝登り、鍾馗様、などを描いて掲げていたようです。また吹き流しは、武士だけに許されたものでした。兜鎧や鍾馗様などはやがて、五月人形に発展していきました。なお、鍾馗様は、唐の玄宗皇帝の病を祓ったとされる神で、魔除けの力があると信じられていました。

画をよく見てみると、吹き流しや家紋が二つ、父方母方両方を染め抜いた幟がたくさん出てくるので、この画の街はほぼ武家の街だということがわかりますね。水道橋の上では、大名行列が通過中で、右下の坂道には、初節句の進物なのか、飾り用の「上がり兜」を捧げ持つ人もいますね。

画の一番奥には雪を頂く富士山が描かれ、その左横、ちょうど鯉のぼりの背びれに当たる辺りには、江戸城の田安門が見えています。今の靖国神社の脇、武道館に渡る九段下から上がる坂道にある門ですね。

実際にこの場所に行ってみました。場所がわかりやすいように拡大した地図をご覧ください。広重の視点は、赤いグラデーションで示しています。

さらにそこに当時の古地図をかぶせてみました。グラデーションの先には、松平駿河守、松平讃岐守など、旗本の武家屋敷が林立しているのがわかりますね。町屋は、今の九段下辺りにまとまってあるだけですね。

まずは、この広重の視点にいってみました。神田川右岸は、JR中央総武線の線路になっています。右端にわずかに今の水道橋が覗いています。
神田上水の懸樋があった場所にはモニュメントが置かれています。

視点から水道橋方面に下る道路を見た写真です。右側が都立工芸高校です。

視点からお茶の水方面に登る道路を見た写真です。順天堂大学と東京医科歯科大学が見えています。

視点から神田川対岸を見た写真です。正面が東京デザイナー学院と、アテネフランセです。

視点から坂を下りて後楽園を見た写真です。今は、ゆうえんちと東京ドームになっていますが、その後の小石川後楽園も含めて、当時はここ一帯全部が水戸殿のお屋敷でした。小石川後楽園には、神田上水の水を利用した滝が作られています。

対岸の皀莢(さいかち)坂から坂上を見てみました。ちょうどこの坂の名前の由来になった、皀莢(さいかち)の莢果が枯れ落ちていたところでした。もちろん最近になって植えたものでしょうけど。

対岸の皀莢(さいかち)坂にも神田上水の懸樋の案内板がありました。

広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。視点が少し低いので、全く雰囲気が違いますね。

そこでAppleのストリートビューとスカイツリーからの写真を組み合わせて、らしい画を作ってみました。右下の白い屋根が水道橋駅です。

絵師広重は、もともと武家の出身で、火消し同心の家に生まれました。そのためか、広重の画の中にはたびたび火の見櫓が登場します。今回も画の中心に小さく二つ確認できます。
この画の発行は、安政の大地震からちょうど1年半後です。この町の被害は大したことはなかったものの、地震は江戸の街中に大きな不安を植え付けました。ゆったりと空を泳ぐこの鯉と吹き流しをご覧ください。武家の街も、がんばって新しい夏を告げる端午の節句で迎えている。広重はそんなことをこの画を通じて伝えたかったのかなあ、などと私は思っています。

さて、最後にはめ込んだ写真を再度ご覧ください。確かに発展する東京の画ではありますが、本当にがんばっている、未来に明るい東京の街なのでしょうか。あまた通り過ぎていった災害から、本当に復興したと言える、日本の象徴的な街なのでしょうか。私はちょっとギモンですねえ。

 

049
王子不動之瀧
=おうじふどうのたき
Fudonotaki Falls in Oji.

 

049

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
049の「王子不動之瀧」は、現在の北区滝野川二丁目にある、正受院の裏にあった滝を描いたものです。

まず、地図で、その場所をご確認ください。JR王子駅の下を石神井川が流れています。現在その場所は、音無親水公園として整備され、川の流れも少し変えられています。その石神井川右岸の整備された遊歩道を上流に歩くこと約10分、茂みに囲まれた正受院に到着します。広重が描いた、不動之滝はこの正受院の裏手にある、石神井川に落ちる小さな瀧でした。

実際には、現在北区役所滝野川分庁舎となっている、旧滝野川中学校と正受院の間から流れ落ちていたようです。

これは天保の頃の王子界隈の絵地図です。だいたい北が上になっています。当時の地図で、江戸の郊外で、こんなに詳しく記述されている場所は王子だけです。当時王子は、江戸からかなり離れているテーマパークのような存在でした。

お花見、紅葉狩りを楽しめる、眺望の良い飛鳥山は、現在のJR王子駅のすぐ南側でした。毎月午の日の縁日には、凧を求める江戸市民で大賑わいの王子稲荷神社。「王子」という地名の由来でもある、王子権現。そして、何よりその周辺に立ち並ぶ、海老屋、扇屋をはじめとするたくさんの料理茶屋。それらは、一体となって王子の街を形成していました。

ここに流れている川は、石神井川で、音無川とも呼ばれ、中山道の板橋宿を通過した辺りから、蛇行する渓谷となっていました。そこに流れ込む瀧が七本あったことから王子七滝と呼ばれ、ここも王子の名所となっていました。そのため、音無川右岸を滝野川村と呼んでいました。この地図にやけに詳しく解説が書いてあるのは、観光地図の役目もしていたからなのですね。

広重は、その瀧の一つ、不動之滝を観光地として描いているのが、今回の画です。当時は海水浴が普及していないため、滝野川の滝浴みは、涼をとる手段として、江戸庶民の人気でした。

広重は名所江戸百景の中で、不動之滝を含めてこの界隈を6枚もの画に描いているので、まとめてご覧ください。王子が、江戸庶民の憧れの地だったことが、よく分かります。江戸の中心部から、日帰りで帰ることもできましたが、たいていは一泊泊まりで、美味しいものを食べて帰る、と言うのが通常だったようです。

中でも王子稲荷だけは、落語「王子の狐」にも描かれているように、特に人気だったようで、名所江戸百景以外でも広重は何度も王子稲荷を描いていました。

では実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず印象的なのが、太く大きな瀧の流れが真ん中に描かれ、その上部には注連縄がかかっています。書物によるとここは、「三方を崖に囲まれ洞窟のようになっていて、岩は苔に滑らかに覆われ、その周りは鬱蒼とした樹木に囲まれ、滝壺のあたりまで行くと真夏の暑い日でも寒さを感じるほどで、瀧が高いところから落ちて水先が玉のように弾け、辺りは霧雨のようだ。」とあります。広重の画は、瀧の規模以外はこの書物の雰囲気を伝えているようです。
広重がこれだけしっかりと太い瀧を描いているのは、不動の滝というネーミングから、この瀧を不動明王の剣をイメージして描いたからという説もあります。

画の下の方には、裸になって滝あみをする人、広い河原で滝あみを終えて、床几に座ってお茶で一服する人、その設えとお茶を運ぶおばあさん、滝あみを眺める傘を持った芸者二人が描かれています。この傘は、日傘ではなく、霧となった水しぶきを遮るためのものですね。

広重は、絵本江戸土産でも不動の滝とその向かいの景色を描いています。右ページには、かなり太い瀧の下で滝あみをする男女と、坂を下りてくる芸者風の女性が描かれています。左ページにはその向かい側の茶屋と、石神井川で泳ぐ人が二人描かれています。

実際にこの場所を探しに行きました。これが正受院の入口部分です。大谷石でできた、一見竜宮城を思わせる鐘楼門が迎えてくれます。

少し進むと門の奥にすぐ本堂がある、こぢんまりしたお寺さんだというのがわかります。この正受院は、室町時代に奈良の学仙坊という僧侶が、夢のお告げで東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで草創しました。この年の秋、増水した石神井川から不動像をすくいあげ、滝の傍に安置したことから、この滝が不動の滝と呼ばれ、正受院そのものも滝不動という別名で呼ばれていました。
文化・文政期に著された書物によれば、この滝に打たれると諸病が治ると評判になり、夏には大勢の江戸市民が集まって大変な賑わいをみせていたそうです。

この滝も、1958年の狩野川台風をきっかけに行なわれた石神井川の直線化と護岸工事のために姿を消し、その後の隣の滝野川中学校の改築に伴い、その痕跡さえも姿を消しました。そのときに移された不動明王の像たちがここに祀られています。

ここが実際に、過去に瀧が落ち始める場所にあたるところだろうと思われる場所です。フェンスと茂みで、過去に思いを馳せることもできません。

これは大正8年に刊行された、「今昔対照江戸百景」に載っている不動の滝の当時の姿です。右端に小さく不動明王像が確認できます。しかし、この書物にも当時、「水一滴落ちていない、乾燥した瀧だ」と書かれています。
さらにそれ以前の江戸の書物よると、「不動の滝は泉流の滝ともいわれ、高さは一丈(約3.3m)余り、目黒不動の独鈷の滝よりは細いが、滝口が高いので水勢が強い」とあります。比べられた「独鈷の滝」は、ひとが両手でひしゃくの形を作って受けられるほどの瀧だったようなので、不動の滝は、それよりも小さかったということになります。今でいえば、全開で出した水道の水程度だったのかも知れません。

対岸に回り込んで撮った写真がこれです。すっかり姿が変わっていて、見る影もありません。

傍らに広重の画をはめ込んでみました。川幅や瀧の規模を、広重が如何に誇張してこの画を描いたかがおわかりになると思います。少し笑えてしまうのですが、広重の画から推し量ると、瀧の高さは、20m以上、幅は3m、川幅も30mほどになってしまいます。

実際に広重の画に現在の写真をはめ込んでみると、どこかシュールな光景になってしまいました。

これでは、あまりに悲しいので、境内にあった不動明王にご登場願いました。
江戸百景で広重は、かなり誇張して描いている場面がいくつか出てきます。しかし現地を訪ねてみるとこの不動の滝は、あまりに現実離れした景色になっていることがわかりました。広重は、この王子界隈をとても気に入っており、何枚も描いています。安政の大地震による閉塞感から江戸の人々を救いたい、そんなことを考えながら描き進めていたこの江戸百シリーズ、今回は広重の思いが、ちょっとだけ筆を走らせ過ぎちゃったようですね。
これじゃあ、不動明王に怒られちゃいますよねえ。

 

050
角筈熊埜十二社 俗称十二そう
=つのはずくまのじゅうにしゃ
ぞくしょうじゅうにそう
The Twelve Shrines of Tsunohazu Kumano,
commonly known as the Juni-So.

 

050

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
050の「角筈熊埜十二社 俗称十二そう」は、現在の西新宿にある、熊野神社上空からその西側にあった弁天池を見下ろした画です。

まず、最初にこの画がどこで描かれたのか、地図をご覧ください。
現在の西新宿、熊野神社の上空からだいたい南方向を見た景色ではないかと思われます。

それでは広重の画を詳しく見ていきましょう。
画の上部には、黒っぽい山が描かれています。大山ではないかという説もあるようですが、おそらく、現在の山手通り初台の交差点のNTTのビル辺りが当時こんもりした森だったので、そこではないかと思われます。

その下に松が数本描かれていて、その右側には十二社の由来を刻んだ石碑が描かれています。これは現在、熊野神社境内に移転しています。緑の草原の下には大きな池があり、桟敷のようなものも設えてあります。見切れてはいますが、この左側、社殿の横には小さな瀧もあったようです。

画の下の方には池の水を止める土塁が描かれ、その上に桟敷、左側には熊野神社の社殿が描かれています。

熊野神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間に創建されたものです。鈴木九郎は現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成しました。当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子(にゃくいちおうじ)を祀ったところ、商売が成功したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされています。そこでこのあたりが、「十二社」と書いて、「じゅうにそう」と呼ばれることになりました。

江戸時代に入ると、社殿の西側に川をせき止めて弁天池を作り、社殿の北東には小さな瀧を作り、紅葉や桜、夏の避暑地として、にぎわい始めました。
広重は「東都名所之内」で、横位置で同じ場所を描いています。
この頃には付近は江戸近郊の景勝地として、周囲に茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていきました。最盛期には茶屋や料亭が約100軒も並んでいたといわれています。文人の記録によると、実際にこの辺りは第二次世界大戦後まで賑わっていたようです。

画の中の弁天池がどこにあったのか調べるために、古い地図から、探してみました。最初はまず、明治初期の地図から、「池」という記述を発見しました。その脇に鳥居があるので、これが熊野神社ですね。広重の視点を表す赤いグラデーションを入れてみました。

次に時代は一気に進み、1947年頃の航空写真に写っている、池を発見しました。この写真は国土地理院がWebで公開しているものです。

さらに1963年には、池の大きさが半分ぐらいになっています。

1975年には、完全にその姿を消しています。

せっかくですので、現代の写真もかぶせてみました。池の痕跡すら残っていませんが。

現在の地図に戻してみました。

ここで古地図も探してみました。これは天保の頃の古地図です。位置関係はちょっと歪んでいますが、左端のお社が熊野神社で、北側の道が青梅街道、南側の道が甲州街道、その下の水路が玉川上水です。この両街道に挟まれた場所を角筈村と呼び、東に行って、今の伊勢丹の辺り、つまり追分で、両街道が交わります。

もう少し位置関係の正確な、古地図を用意しました。これに、今現在との位置関係ががわかるように、ランドマークもプロットしてみました。

これを見ると、弁天池は、玉川上水と神田上水を繋ぐ水路から水を引き、せき止めて作った農業用水のための、池だということがわかりますね。

実際にこの場所に行ってみました。

この辺りが視点であろうと思われる場所です。この上空15mほどから見た景色を、広重は描いたのではないかと思われます。

もう少し、前の見える場所まで前進してみました。今ある歩道橋の上から弁天池を望んだと仮定すると、こんな写真になります。

これが今の熊野神社です。広重が描いた頃と社殿の向きは一緒のようです。

弁天池側から入るエントランスからカメラを回してみました。

画の中にある十二社の由来を刻んだ碑が熊野神社境内にありました。

この写真は、弁天池の一番奥側の辺りです。大きく窪んでいるのがわかりますね。

ここは、弁天池の水を留める土塁があったあたりから、池方向を見た写真です。現在は真ん中に道路ができています。

ここに、ビルの隙間にひっそりと立つ、銀杏の老木を見つけました。ビルに追い立てられて、大幅に枝打ちはされているはいるものの、元気な葉っぱをつけていました。おそらくこの木は、かなり昔からここにあり、弁天池とその周辺の推移をつぶさに見守ってきたのだろうと思われます。そう思うとちょっと切なくなりますね。

広重の画に、今の写真をはめ込んでみました。当時の面影などは、微塵もありません。

これはこれで今の姿を写しているのですが、もう少し視点が高く熊野神社も入れた、Applemapのストリートビューをはめ込んでみました。

つい、昭和期ぐらいまで大変賑わっていた一大観光地が、ここです。弁天池ができ、畔に茶店ができ、料理屋が立ち並ぶ街に発展し、80年ほど前には遊郭までもできていたこの辺りのランドマーク的な存在が、今は跡形もなく、その痕跡を探すことすら困難になっています。あの銀杏の老木にインタビューしてみたいものですね、「昔の話を聞かせてくださいませんか」と。

 

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