
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
081の「高輪うしまち」は、今の地下鉄泉岳寺駅を地上に上がったぐらいのところから、大八車越しに海の方向を見た景色です。広重の頃には、この東海道の東側は、何もなくすぐ海でした。
先ず、この画がどこを描いたものなのか、Applemapでご確認ください。
地下鉄泉岳寺駅の北側ぐらいに高輪大木戸の土塁が残っているのですが、広重は、この大木戸の少し南側から海を見た景色を描いたようです。広重の視点であろう場所を赤いグラデーションで表しました。
これに当時の絵地図をかぶせてみました。東海道の東側は、民家もなくすぐに波打ち際だったことがわかりますね。
この上にさらに明治初期の地図をかぶせてみます。この地図では既に海岸線の先に鉄道用の土塁が築かれているのが判ります。
この地図を縮小して、今度は広範囲まで表してみます。東側の海に菱形の島のようなものが現れます。これは、黒船の出現を機に、江戸幕府が慌てて造った海上防衛用の砲台、いわゆる台場です。右側の第六砲台と第三砲台は、現在でもお台場に現存しています。
田町から品川あたりまではゆっくりとした弧を描く海岸線で、高輪と呼ばれ、月の名所としても名を馳せていました。
さてここで、このあたりを広重が、北から見た俯瞰で描いた高輪全図をご覧ください。
ちょっと海岸線のアーチは誇張されていますが、だいたいの雰囲気は判ります。広重の視点も赤いグラデーションで入れてみました。
広重の描いた「うしまち」とは、高輪大木戸を南に出た右側、正式名称、芝車町のことです。この画の左下、大木戸の石垣のあたりにも、牛車や大八車が小さく描かれています。
寛永11年(1634年)の増上寺安国殿建立と、その2年後の市ヶ谷見附の石垣普請のため、重量ものの運搬ができる牛車が大量に必要となりました。そこで幕府は、京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を江戸に呼び寄せて、その運搬にあたらせました。工事が終わってもこの町での定住を認め、褒美として牛車を使っての荷物運搬の独占権も付与、牛車の専門職人集団はますます発展していきました。正式名称「車町」、通称「うしまち」呼ばれたこの地域には、最盛期に1000頭ほどの牛がいたようです。
時代が進み、疫病蔓延のため一時牛の頭数が減ってしまった時に、車町の車大工、八左衛門が牛の代わりに人間8人で車を引く「大八車」を開発しました。しかしこの発明により、牛の出番はますますはなくなり、牛車そのものの需要がどんどん落ち込んでいきました。
画の中程右側には、忠臣蔵で有名になった泉岳寺が描かれています。もう少し先が筑後久留米藩、有馬家の下屋敷も描かれています。この場所は今、品川プリンスホテルになっています。
ずっと先には、品川宿が描かれていますが、今の品川駅ではなく、その先の御殿山を越えたあたりから品川宿が始まります。
有馬家下屋敷の奥には、幕府の台場建設事務所が置かれ、その先の八ツ山と御殿山を崩して台場がどんどん造られていました。その崖の光景をひと味違った名所として広重が描いたのが、名所江戸百景の28景、「品川御殿やま」です。
実際に広重が描いた画を詳しく見ていきましょう。
先ず空にかかっているのは、色は無くなっていますが虹です。おそらく雨上がりの午後という設定なのでしょう。
虹以上に大きく空にせり出しているのは、うしまちの発明品、大八車です。この大八車の車輪のデザインは、今でも各地で使われているお祭り用の山車の車輪と一緒なのが、興味深いですね。
海にはたくさんの船が浮かび、一緒に台場が描かれています。車輪に隠れて何となく数がわからないようになっているのは、軍事施設なので幕府からお咎めを受けないようにするためでしょう。
水平線の左には、房総半島が少しだけ見えていて、波打ち際には、護岸用の杭も数本見えています。浜辺には二匹の犬が描かれ、そのうちの一匹が咥えているのは、東海道の旅人が捨てた草鞋です。一緒に捨ててある西瓜の皮に、夏の生活感がリアルに出ていますね。
広重は、この高輪界隈が大好きだったようで、かなりの作品を残しています。その一部をお楽しみください。
先ずこの画は、高輪の大木戸越しに海を見た画です。大八車も描かれ、名所である月もしっかりと描かれています。この大木戸は、宝永7年(1710年)に、御府内と御府外を区別する木戸として東海道に造られ、高札場の役割も果たしていました。
この「秋の景」は、きれいどころが料亭から海と月を見るという設定です。東海道の往来や、波打ち際にできた葦簀張りの店の賑わいなど、当時を垣間見ることができますね。
この「高輪の夕景」は、大木戸の手前から海の大型船が大きく描かれ、大八車と牛車、馬と駕籠で旅をする人々、宿屋の女将が客引きをする姿など、そのときの一瞬を描いているようで、楽しいですね。
この大木戸は、初めは木戸があり明六ツ、暮六ツに開閉していましたが、後に木戸は撤去され、左右の石垣だけが残されました。伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点もこの高輪大木戸でした。
「高輪之名月」は、大木戸の土塁と高札、アーチ状の海岸線と名月観賞用の葦簀張りの店がざっくりと描かれています。名月につきものの雁も大きくリアルに描かれているのも、面白いですねえ。
後に広重の名前を全国に知らしめた「月に雁」は、1949年に切手の絵柄にも採用されています。右側の雁が三羽のタイプですね。
右側は、初代広重が大木戸の土塁と大名行列を描いているのですが、左の二代目は、ダイナミックな模様の牛と、海には日本の船だけではなく海外の旗を翻した船を描いています。よく見ると手前の船の人間も、山高帽をかぶっていたりと、随分時代が進んだ感じがしますね。
広重は、絵本江戸土産でも高輪の光景として採りあげ、その景色が絶景であることを強調しています。広重はよほどこの景色がすきだったのでしょうねえ。
最後にライバルである北斎も高輪を描いているのでご覧ください。新しい銅版画風のタッチで洋風表現を試みた作品です。大木戸の土塁、アーチ型の海、東海道、そして富士山がダイナミックに描かれています。
実際この場所に行ってみました。
昔海だった場所は現在、新駅高輪ゲートウエイ周辺の再開発工事中で、工事現場だけしか見えません。
目の前に塀があるので、今も残る高輪大木戸の土塁に上って、その上から撮ってみました。
昔海だったところから品川方面を見た動画です。
第一京浜を中心に三田駅方面から品川方面まで見た動画です。
当時、芝車町だった場所に立って、田町から海方向を見渡した動画です。
当時、芝車町だった場所に立って、品川から海方向を見渡した動画です。どちらもわけのわからない工事現場にしか見えませんね。
泉岳寺の交差点に立つと、多少向こう側がスッキリ見えてきます。ですが、海はここからずっと先です。
広重の画に、その工事現場をはめ込んでみました。
この再開発は、当時高輪と呼ばれていた地域の海側、ほぼ全域が対象になっています。月の名所どころか、今は工事現場の名所になっています。コロナで疲弊したこの国に、まだこんな巨大な再開発が、必要なんでしょうかねえ。街なんか作らずに、公園にでもしてくれたらいいのにねえ。
せっかくですので、当時、疫病蔓延後の牛車と職人を追いやった発明品、大八車をそのまま残してみました。いかがでしょうか?
次回は、品川宿の「月の岬」です。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
082の「月の岬」は、今の北品川一丁目あたりから海を見た景色ではないかと言われています。広重の頃には、このあたりからすぐ東は何もなくすぐ海でした。
一般的に月の岬と言えば、三田台地の高輪あたりのことを指していました。三田三丁目から聖坂を上がり、伊皿子の交差点に行くあたり、今の三田台公園のあたりです。海岸沿いの東海道が整備されるまでは、江戸から西に行く道は、ここから五反田を抜け、中原街道経由で茅ヶ崎に抜けるのが主流でしたでした。徳川家康が江戸に入府したのも、この道を逆に辿っただと言われています。
しかし、今回の広重の画は、どうやら、品川あたりを描いたようです。
広重が描いた絵本江戸土産の中で、「月の岬」として八ツ山あたりから今の品川駅方面を見た景色を紹介しています。
しかし、八ツ山あたりには、広重が描いたような立派な料亭はありません。そこで、少し南に下った今の北品川一丁目あたりに「土蔵相模」という有名な料亭がありました。広重はこの料亭を舞台にして、この画を描いたのではないかと言われています。
それでは、この「土蔵相模」がどこにあって、どの方向を見たのか、地図でご確認ください。今回は、東京ヒストリーマップさんの画面をキャプチャーにとって、使わせてもらっています。というのも海の地形の変遷がよく分かるからです。まずは国土地理院の地図をご覧頂き、それに江戸末期の地図をかぶせていきます。
土蔵相模は、現在の京急北品川駅から海の方へ下り、旧東海道を右に入った左側あたりにありました。当時海に面した部屋からは眼下に砂浜と、目黒川から繋がる海がすぐに広がっていたと考えられます。
この地図を見ると判りますが、北品川には、目黒川がもたらした砂浜が、南品川には、多摩川がもたらした広大な砂浜が広がっていました。有名な落語「品川心中」は、品川宿の遊女とこの広大な砂浜が舞台となっていたわけですね。この遠浅の砂浜で、泳げない金蔵が桟橋から遊女のお染に突き落とされても、生きていられたので、あんな面白い話に展開していったわけです。
さて実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず窓の外には、はるか沖まで大型船が停泊している海が広がっています。空にはぽっかりと月が浮かび、その横を雁行よろしく「くの字」に雁が飛んでいきます。
部屋の中には、明かり取りの雪洞とその下には杯洗、杯、お盆、扇子、食べかけの、赤い魚のお刺身らしきものまで並んでいます。そのお盆の横には、芸妓の裾と今まで遊んでいたであろう、三味線の棹が覗いています。
左には、行灯の陰でできた遊女の姿が障子戸に映っています。簪が5本髪に挿してあることから、相当高級な遊女であることが覗えます。この遊女の向いている方向には、誰がいるのでしょうか。想像をかき立てられる面白い絵柄になっています。
このシリーズでこのような思わせぶりな絵柄は珍しく、他には39景「吾妻橋金龍山遠望」と101景「浅草田圃酉の町詣」だけとなっていますが、風景そっちのけで描かれているのは、この82景だけですね。
広重がこの画に「月の岬」、とタイトルをつけていることから、この画は毎年七月に行われる廿六夜待ちの宴会が行われていた、直後の風景だと思われます。
その二十六夜待ちのことを広重は、詳しい解説付きで、絵本江戸土産でも描いています。
江戸時代、陰暦の一月と七月の二六日の夜に、月の出るのを待って拝むことを二十六夜待ちと呼んでいました。月光の中に彌陀(みだ)・観音(かんのん)・勢至(せいし)の三尊の姿が現われるといわれ、特に7月は月の名所と言われた、高輪から品川あたりにかけて大賑わいとなりました。
その光景を、広重は、様々な絵に残しています。
大勢の人々が高輪から品川にかけた街道沿いに押し寄せ、月の出を待つ間に酒や料理、歌舞音曲、落語、幻灯機、辻講釈などを楽しみ、その賑いぶりは、すごいものがあったようです。
実際にこの場所に行ってみました。土蔵相模があった場所には、現在コンビニを備えたマンションが建っているので、少し北側に移動して、海方面に抜ける景色を探して撮ったのが、この風景です。
この場所からカメラを旧東海道の川崎方面に振ってみます。ここから30メートルほど行った左側が土蔵相模です。
正式名旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていました。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られていました。建物は昭和初期まで現存していたようです。
カメラを逆に品川駅方面に振ってみました。この先が現在、京急の踏切になっています。
広重の画に現在の姿をはめ込んでみました。
実際には、土蔵相模のあった場所の近くで、少し高い位置から撮った写真を窓の中だけはめ込んでみました。もちろん、海なんかは全く見えませんし、ビルしか見えません。
広重がこの画を描いた数年後、明治維新という名の下で、この国はどんどん工業化が進められ、綺麗な砂浜はどんどん埋め立てられ、魚の宝庫だった海は、ドロドロの匂う海に変身していきました。月の名所なのにも拘わらず、ビルの陰で、月の出すら拝めません。きれいな海を眺めながら、月の出を待つ、そんな優雅が許される時代は、もう二度と来ないでしょうね。
月光の中に現れる三尊の姿を、私も見てみたいものです。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねてみました。
083の「品川すさき」は、品川にある洲崎弁天越しに江戸湾を見下ろした景色になっています。
まず最初にこの画は、広重がどこから見た景色なのか地図でご確認ください。現在の品川駅から南へ1kmほど南下した、旧東海道の海側ですね。広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。
これに当時の絵地図を重ねてみます。目黒川沿いに伸びた砂洲の先端に「弁天」と書いてある場所が洲崎弁天で、今は利田神社になっています。
地図を現在に戻して別の絵地図をかぶせてみます。黒くなっているところが町人エリアで、赤い場所が寺社仏閣、白くなっている場所が武家屋敷です。当時南東側には何もなく、すぐ海が広がっていたのが判りますね。
さらにもう一度現代の地図に戻して、それに今度は明治初期の地図をかぶせてみます。目黒川沿いに漁師町が広がり、利田神社の西側には、利田新田が描かれています。しかし、これは、新田ではなく黒船来襲に備えて幕府が作った砲台、つまり台場です。当時は、御殿山下台場と呼ばれたもので、現在この場所は主に、品川区立台場小学校になっています。少し西側には、第一と、第四台場も見えていますね。海には広大な干潟が広がっているのも判りますね。
実際に広重の絵を詳しく見ていきましょう。
遠くに雁が飛んでいる先に見えているのは、方向的に深川や行徳方面だと思われます。江戸湾に浮かぶ弁才船の右側には、既にできあがっていた二つの台場が見えています。第一、第四砲台ですね。
真ん中あたりに見えているのが、洲崎弁天社です。
その手前は目黒川で、この弁天様はちょうどその河口に位置していました。社の周りは少し高く石垣が積まれていて、波除けの松が植えられています。弁財天へは、鳥見橋という橋を渡っていくことができて、その先は広大な遠浅の砂浜が広がっていて、春を過ぎてからは潮干狩りで賑わう有名な場所でもありました。
左端には、料亭らしきものが顔を覗かせていますが、東海道側は少し高台になっていて、かなり遠くまで見渡せるので、その景色を楽しみながら遊びを堪能することができました。
二代目広重が、このあたりの潮干狩りの光景を三連の絵に残しています。これを見ると、広大な遠浅の海でカレイやアサリ、蛤などが取れていたようですね。
初代広重は、洲崎弁天社を別の角度から描いています。葦簀張りの出店の向こうには、やはり潮干狩りを楽しんでいる、江戸市民が小さく描かれています。
左側、海苔を焼いて食べている芸妓の窓の外には、遠浅の海と海苔ひびが描かれています。
右側の絵には、砂浜でおどけて遊ぶ江戸市民の向こうに、石垣で囲まれた洲崎弁天社が描かれています
広重は絵本江戸土産でも全く同じ構図で、洲崎弁天社を描いています。添えてある解説でも、この景色を褒め称えていて、広重がこのあたりの景色が大好きだったことを覗わせます。
実際にこの場所に行ってみました。洲崎弁天社、今の利田神社の周りや参道にも民家が建ち並び、当時の面影は、ほぼありません。
当時、目黒川だった場所は現在、そのくねった形のまま八ツ山通りになっていて、その様子を動画で撮ってみました。
これが旧洲崎弁天社、今の利田神社です。あの、沢庵和尚が目黒川の砂州に弁才天を勧請したのが起源で1626年(寛永3年)に創建されました。
それが明治時代の神仏分離政策に伴い、祭神を変更して「利田神社」となりました。江戸時代の品川宿の名主だった「利田氏」に由来するといわれています。
神社の西側、当時の目黒川沿いには、小さな公園があり、そこに鯨塚があります。1798年(寛政10年)に品川沖に迷い込んだ鯨を埋葬した場所です。当時は江戸市中が大騒ぎとなり、鯨を一目見んと野次馬が殺到したということです。江戸幕府11代将軍・徳川家斉も、この鯨を今の浜離宮恩賜庭園まで曳かせて目の当たりにしたという、記録が残っています。
広重の絵に、現在の写真をはめ込んでみました。なんとも寂しげな写真ですね。
広重は、81景、82景に続いて、このあたりの景色を描いています。これは、とりもなおさず広重が高輪、品川の景色が、とても大好きだったということに他なりません。
さらに、おかしなことがひとつあります。この画の発行は、安政三年の四月です。
実は、安政元年には、この洲崎弁天社のすぐ後で台場工事が着工していました。御殿山下台場と呼ばれたこの台場は、11個計画された黒船対策のひとつで、安政元年12月には完成していました。ですので、広重は、意図してその台場を描かずにこの絵を完成させたことになります。
広重にとっては、大好きな高輪、品川の景色に、戦争のための砲台が作られたのを許すことができなかったのでしょう。この砲台のない、綺麗な景色を描いて、この世界を永遠に残したかったのかも知れませんね。
現在、お台場に、第三台場と第六台場だけが現存しています。最後にそのお台場から、台場越しに品川方面を見た景色をご覧ください。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
084の「目黒爺々が茶屋」は、目黒三田通りから少し下った急坂の上から富士山を見た画です。
実際に今の地図で、その場所をご確認ください。JR恵比寿駅の南側、ちょうど1kmぐらいの場所ですね。広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。
これに当時の絵地図をかぶせてみます。下の水色の線は、目黒川、上の水色の線は、三田用水です。
さてここで、ちょっと広域ですが、土地の高低差の判る地図をご覧ください。広重の視点に赤いグラデーションを入れました。目黒川沿いに河岸段丘が形成されているのが判りますね。
もう少し拡大して、高低差の極端な地図だと目黒川と渋谷川に挟まれて、目黒あたりは斜めの「馬の背」になっているのが判りますね。
実は、この目黒川南側はハケになっていて、高台から南西方面を見渡せる絶好の場所でした。その崖際には、三田用水が走り、その急峻な崖は、どこも眺めのいい景勝地でした。
実際に広重は、25景、24景、それと今回の84景で、3回も富士山の見える画を残しています。
ここで、恵比寿ガーデンプレイスあたりの上空から見たApplemapのストリートビューをご覧ください。広重の視点である赤いグラデーションも入れてみます。
広重の視点の先にはだかる白いテントは、現在工事中の目黒焼却場です。
縦にまっすぐ走る道路は、新茶屋坂で、当時この文字のあたりで、右から左に三田用水が流れていました。
今、恵比寿ガーデンプレイスになっている場所で作られていたヱビスビールは、この三田用水の水利をあてにして開業しました。しかし、最後まで、近隣農民とは、水利権でもめていたようです。
右側の緑色の細長い屋根を持つ建物は、戦時中に海軍技術研究所が、軍艦などの波の具合などを調査していた巨大なプールです。今は、この地帯一帯が防衛省の管轄になっています。
三田用水は、昭和49年に廃止されるまで、延々300余年にわたって流れ続けていました。玉川上水を今の京王線笹塚駅の南側、北沢あたりから分水し、大山、上原、青葉台、三田を経由して、白金あたりまで水を供給していました。
かつて、新茶屋坂ができた時に、途中で三田用水の水路がこの坂の上を横切って「茶屋坂隧道」というトンネルで交差していましたが、2001年ごろに道路拡幅のために撤去されました。
広重の画を詳しく見ていきましょう。今回も高解像度の初摺りでご覧ください。
まず現れるのが、高台に植えられた松、その横に富士山、その左には、大山が描かれています。赤い霞雲の下には松林らしきものが描かれていますが、駒沢あたりだと思われます。
中程の左側、緑の中の屋根は祐天寺で、手前には黄色く色づいた田圃道を、荷物を背に乗せた馬がのんびりと歩いています。手前の目黒川は隠れて見えていませんね。富士山を見に来たであろう江戸市民が数人立っている、右側の茶店がタイトルとなった爺々が茶屋ですね。
広重は、絵本江戸土産でも、ほぼ同じ構図で、ここを描いています。その解説によると、将軍が鷹狩りに来て、それをもてなした老夫婦がいたので、爺々が茶屋となったと書かれています。
「鷹狩り」とは、鷹を狩るのではなく、飼いならした鷹を山野に放って行う狩猟の一種のことで、軍事鍛練と娯楽を兼ねたものものでした。江戸幕府を開いた徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、単なる鷹好きの域を越えて、確たる養生法や武士のたしなみと考えていたようです。
家康には鷹匠組という技術者が側近として付いており、彼らは武士としてしっかりとした給料ももらっていました。こうして、江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んでおこなっていました。
葛飾北斎の描いた富嶽三十六景の下目黒にも、富士山の横に二人の鷹匠が描かれています。
三代将軍の家光は特に、将軍在職中に数百回も鷹狩を行ったという記録が残っています。しかし、五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」によって鷹狩が廃止され、鷹狩が復活するのは八代将軍・吉宗の享保年間からでした。
目黒川の田道橋を渡り、現在の恵比寿ガーデンプレイスあたりに通ずる登り坂途中に1軒の茶屋がありました。将軍は、鷹狩りの帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとることがありました。将軍は、茶屋の主人百姓彦四郎の素朴な人柄を気に入り、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったといわれています。以来、将軍がここに立ち寄る度に、彦次郎に銀一枚を与えていました。
この時の将軍が、家光か吉宗ではないかと言われています。
茶屋坂あたりは、昔からきれいな清水が渾渾と湧いて樹木が茂っていましたが、たいへん寂しいところで、明治維新の混乱のころには、茶屋はたびたび泥棒に見舞われていました。そこで、「爺々が茶屋」はついに坂下の村の方に移ってしまいました。
その子孫にあたる島村家には、元文3年(1738)年4月13日の鷹狩の際に吉宗が訪れ、主人と言葉を交わしたという記録文書が残っています。
また、島村家には、十代将軍の家治が訪れた時に、団子150串、田楽100串を提供したという記録文書も残っています。こうした気さくな将軍と「爺々が茶屋」の逸話が、有名な落語「目黒のさんま」を生まれたきっかけとなったといわれています。「サンマは目黒に限る」という落ちの話ですね。
実際にこの場所に行ってみました。今も残る茶屋坂を徐々に下りてみました。あたりまえですが、全く向こう側が見渡せません。ひょっとして、このあたりの高い建物に上れば、富士山も見えるのかもしれません。
広重の画に現在の画をはめ込んでみました。富士山や祐天寺は、言うに及ばず全く向こう側が見渡せません。
現在の東京には、富士見坂という場所が17ヶ所ほど存在していて、江戸時代には、その場所から富士山が見えたという場所です。たいていは西南西側に開けた、高台に存在する坂道で、西日暮里3丁目にある富士見坂は、東京都内において「歩行者が坂に立った状態で実際に富士山が望める」最後の富士見坂となっていました。しかし、それも最近になって、マンションの陰になって富士山が見えなくなってしまいました。
それどころか、江戸の町のあちこちから富士山があたりまえのように見えていました。しかし今は、高層マンションや西南西側に開けた高台の家の住人以外は見ることができません。この目黒川北側、三田から青葉台にかけての崖も、どこからでも富士山が拝める江戸郊外の人家の少ない名所でした。現在は、すっかり開発され尽くされて、見る影もありません。今の東京から「富士を望む」ことは、金持ちだけの特権となってしまったのでしょうかねえ?
最後に、東京の西、立川から見たきれいな富士山の写真を挟んでおきます。2023年1月3日、朝のものです。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
085の「紀の国坂赤坂溜池遠景」は、赤坂迎賓館の東の下り坂あたりから、溜池方向を見た画です。実は、描かれている左の池は、溜池ではなく弁慶堀です。当時、溜池の絵がもてはやされていたため、出版元の魚栄がタイトルに強引に「溜池」を入れたかったようですね。
まずはその場所をApplemapでご確認ください。
四谷駅から、堀に沿って赤坂迎賓館を回り込むように下り坂があります。現在、紀の国坂と銘名さている場所を青い線で表します。左から右下方向に下っています。
この地図を拡大してみました。
左側の緑の大きな場所は、迎賓館赤坂離宮と皇族の住まいである赤坂御用地などです。ここは江戸時代には、紀州徳川家55万5,000石の中屋敷でした。右側のホテルニューオータニ東京は、当時彦根藩井伊家の中屋敷でした。
その間に横たわるお堀は、掘割工事を請負った弁慶小左衛門の名をとり、弁慶堀と呼ばれていました。今ではここで、手漕ぎボートに乗りバスフィッシングを楽しむ人がたくさんいます。堀と緑だけ見ると、ここが東京だとは思えないような景色を見せてくれる場所ですね。
これに、広重の視点を赤いグラデーションで表示し、当時の地図をかぶせてみます。
灰色になっている部分が町屋で、白い部分が大名屋敷です。青山通りや外堀通りなど大きい道路は別にして、細い道路は、今とほぼ同じ状態なのが判りますね。
ここで、広重の画を詳しく見ていきましょう。
上半分はほぼ空で、左に見えている緑は、山王日枝神社の森です。その下に溜池があるのですが、色を乗せ忘れたのか、水色にすらなっていません。まさに名前だけの遠景ですね。
右側の火の見櫓は、ここに定火消の屋敷があったからです。現在の東急エージェンシーのビルのあたりです。真ん中の緑は、広島藩浅野家から氷川神社に続く森ですね。現在のTBS放送センターからアメリカ大使館宿舎のあたりですね。
屋根が折り重なった街は、元赤坂から虎ノ門あたりまで続いています。手前左は弁慶堀で、右の紀の国坂を今、毛槍を持った足軽を先頭にした大名行列が下ってきます。この行列は、紀州徳川家が中屋敷に帰っていく途中で、実際には二列なのですが、右の一列は見切れています。
ここでおかしなことが判明します。現在の紀の国坂は、四谷方向から弁慶堀を左に見てずっと下って行きますが、この画では、赤坂方向から四谷方向に向かって、大名行列が下ってきています。
その不思議さを解明するために、実際にこの場所に行ってみました。これが四谷方向を背にして、歩道から写した写真です。左が弁慶堀、右が紀の国坂、その間を堀に沿って首都高速新宿線が高架となって大きく左に曲がり、赤坂見附の交差点に向かっていきます。ずっと下って行っていいることが判りますね。
これは、車道からの視点をGoogle Earthからキャプチャしたものです。よく見ると、正面真ん中にそそり立つ、アルソックビルの左右の道が、少しだけ上に上がっているのが、判りますね。
もう少し近寄った写真だと、分かりやすいですね。
これは一番低い場所まで下りてみた写真です。ここから見ると確かにこちらに下っているのが判りますね。
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ここでもう一度地図をご覧ください。
紀の国坂は、四谷方面からこの青い線の下あたりまでは、下っていますが、そこから先はほぼ平らになっています。
古地図をかぶせてみると判るのですが、当時弁慶堀の南側を懸樋でできた玉川上水が流れていて、虎ノ門あたりまで、飲料水を供給していました。この玉川上水が紀州徳川家のお屋敷から出て、クランクになっています。
ちょうどのこのクランクのあたりの下に、紀州徳川家の敷地から雨水や池の水を弁慶堀に流し込む、水路があったのようです。水路ですから、当然そこが一番低くなっていて、今の元赤坂の街からは、紀の国坂と言われている上り坂まで、下っていたわけです。
ついでに画の右側にあった火の見櫓の場所も、青い点線で示しておきます。定火消の文字が見えていますね。
資料を探してみると、幕末に来日した写真家のフェリーチェ・ベアトが、このあたりを写した写真を発見しました。横浜開港資料館が管理している、赤坂御門あたりから撮った写真のようです。1868年頃だと思われますので、広重がこの画を描いてから、10年後ぐらいですね。
今の永田町の駅あたりから赤坂見附方面を見下ろした写真です。弁慶堀に沿って、竹矢来が設置され、その下に玉川上水が流れています。青い枠は当時まだない、弁慶橋です。その先に赤い丸で囲ったところに、竹矢来が途切れて、玉川上水と交差して、紀州徳川家からの流れ込みがあるのが判ります。やはりこのあたりが一番低い土地だったようです。
広重の画に、現在の歩道から撮った写真をはめ込んでみました。これだとどうしても坂の関係が判りづらいので、もう少し、先の低いところから撮った写真と差し替えてみます。
これなら、紀州徳川家の大名行列が坂を下りてくる角度といい、いい感じになりますね。正面の黒っぽいビルが青山通りに面した住友化学のビルで、その右奥に定火消の火の見櫓がありました。今は火の見櫓どころか、その先すら見通せませんが。
赤坂という地名は、今の元赤坂が茜草が生える迎賓館付近の赤根山に登る坂であることから名付けられました。ですので、広重の画のタイトル「紀の国坂赤坂溜池遠景」は、紀の国坂から見た、赤坂を下ってくる大名行列と溜池の遠景、という理解が正しいのかもしれません。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
086の「四ッ谷内藤新宿」は、新宿通りの新宿3丁目あたりから四谷方向を見た景色を描いています。
先ず、ここはどこなのかをApplemapからご覧ください。
大雑把には、現在の新宿伊勢丹の東側あたりですね。
もう少し拡大した地図を使って、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみます。ちょうど今の新宿通り路上から新宿二丁目方面を見た景色だと言われています。
この地図に当時の古地図をかぶせてみます。
中心には追分と書かれた文字が見えてますが、ここが、西に行く青梅街道と南西に行く甲州街道の分かれ道だったため、そう呼ばれていました。
実際には、甲州街道は、この古地図より南に向かっていましたので、実情に沿ってちょっと切り取って訂正してみました。
この一帯は、甲州街道の日本橋と高井戸の間にあった宿場街で、千住、板橋、品川と並ぶ江戸四宿の一つでした。天正18年(1590年)に関東総奉行だった内藤清成が徳川家康から、「馬で走れるだけの土地をおまえにやる」と言われて広大な土地を拝領し、住んだことが始まりです。元禄11年(1698年)、信州高遠藩主となったこの三河内藤家の下屋敷の北側に宿駅が設置されたので、高井戸宿に対して「内藤新宿」とよばれました。
内藤新宿から南北に別れる、青梅街道と甲州街道のその先を見るためにもう少し広範囲の地図をご覧ください。赤い道が青梅街道、青い道が甲州街道で、現在の地図にどちらも旧道に沿って線を書き入れてみました。
青梅街道は江戸時代のはじめ、江戸城を造り直すときに、青梅の先の成木(なりき)や小曽木(おそぎ)から石灰を馬で運ぶために使われた道です。そのため、明治以前までは成木道、と呼ばれていました。江戸城は当時、今の姫路城のような真っ白いお城だったらしいのですが、その建築資材、漆喰の元となった材料は、この青梅街道から内藤新宿を通って江戸に運ばれていたんですね。
その後は、ブームとなった青梅綿や、小平の薩摩芋、奥多摩の炭、五日市街道の野菜などの重要な流通経路となっていました。
実は青梅街道は大菩薩峠を経由し、甲府の東で甲州街道と再び合流するため、甲州裏街道とも呼ばれていました。
甲州街道は徳川家康の江戸入府に際に、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して整備されたといわれています。関ヶ原での戦いの結果、甲斐国は徳川氏直轄の支配となり、甲州街道沿いは徳川領、もしくは譜代大名が治めることとなり、内藤家もそのひとつでした。
ここで、東京ヒストリーマップのサイトからキャプチャした地図をご覧ください。赤いグラデーションで示した広重の視点の先に伊賀、根来、甲賀、青木組の4組から成る、二十五騎組と呼ばれる鉄砲百人組が配置されているのが判ります。万が一の時に、鉄砲を携えた兵力が将軍を護衛し、甲府城まで避難するための備えです。現在、大久保にある百人町は、この中の伊賀組が移り住んだので名付けられた街です。
浄土宗寺院「太宗寺」は、1668年(寛文8年)に信州高遠藩主・内藤正勝の長男・重頼から土地の寄進を受けて創建され、内藤家の菩提寺として繁栄しました。江戸の街の出入口を示すために6ヶ所に造られた「江戸六地蔵」のほか、江戸の人々に信仰された閻魔像もあります。当時は、参道や境内に仲見世もできるなど、宿場の賑わいの中心地でもありました。
広重の描いた、絵本江戸土産をご覧ください。この甲州街道を参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩だけで、それ以外の藩は中山道を利用しました。それでも、甲州方面からブドウ、八王子の絹、秩父から火薬などの物資が運ばれ、内藤新宿は物流拠点として発展していきました。
もう一つの内藤新宿の歴史として、「歓楽街」という側面があります。
四谷大木戸から出ると江戸の外でしたが、元禄10年(1697年)、浅草安部川町の名主高松喜兵衛をはじめとする5人の町人が、運上金として金5600両を幕府に支払うことで新たな宿場の開設を願い出ました。街道最初の宿場である、高井戸までは4里(約16km)ほどあったため、宿泊利便性の確保が表向きの理由でしたが、実際には新たに繁華街を開発することが目的でした。
新たに整備されたこの宿場町には、表向きは旅籠屋、実際には岡場所と言われる非公認の遊郭が50以上も軒を連ね、江戸から出向いてくる遊び人で大いに賑わいました。しかし、あまりにも風紀が乱れたことや吉原の経営者からの訴えなどにより、わずか20年強で、内藤新宿は廃止に追い込まれます。
明和9年(1772年)4月、50数年ぶりに内藤新宿が再開されます。このときの表向きの再開の理由は、江戸への物資流通の増加でした。しかし、実際は幕府側が財政確保のために繁華街・行楽地収入を充てにしようとしたことでした。宿場の再開により内藤新宿は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒、引手茶屋80軒を有する大歓楽街に成長しました。このとき、飯盛り女と呼ばれる遊女が公式に150人まで認められていましたが、実際には倍以上いたといわれています。
実際の広重の画を詳しく見ていきましょう。
画面の1/3を占めるのが、茶色い馬のおしりと尻尾です。広重得意の構図ですね。二頭の馬の先には、馬子の足も見えています。画面左に見えているのが旅籠で、泊まりを薦める店主と旅人の会話が聞こえてきそうですね。奥のこんもりした緑は、大宗寺か内藤家の水番所の森で、その下にも菰をかぶせた荷物を背に乗せた白い馬が描かれています。
画の下の方には、道路上の馬糞が数個、描かれています。甲州街道は産業道路としての役割が大きく、当時の町の人々にとって馬と馬糞は日常茶飯事の風景であったことを物語っています。よく見ると人間と同じように、馬の蹄に草鞋を履かせていますね。
日本で蹄鉄が用いられるようになるのは明治時代に入ってからです。江戸時代の在来種の馬は比較的蹄が強かったそうですが、荷物を運んだりする馬は、馬沓(うまぐつ)と呼ばれる草鞋を馬に履かせることで、馬の蹄が傷つかないようにしていたそうです。
馬の草鞋は2里(約8km)程度しかもたず、そのたびに草鞋を履き替えさせる必要があり、予備の草鞋は馬子の必携でした。
広重のこの画は、当時の内藤新宿のすべてのモチーフが詰まった画だと言えますね。
四谷三栄町にある新宿歴史博物館には、当時の内藤新宿を復元した模型が展示されています。手前右から合流する道が甲州街道で、奥まで縦に走る広い道が現在の新宿通りで、その先が四谷になります。左下は、現在の伊勢丹あたりで、そのはす向かいが追分だんごです。
江戸時代に、広重の視点の上空にドローンを飛ばして撮影すると、こんな雰囲気になったのでしょうね。
実際にこの場所に行ってみました。まずは、広重の視点右側にあった追分だんごが、ビルの中に入っていますが、現存しています。
今、広重の視点に立つと、こんな景色が広がります。右側には丸井と映画館が、この地下には地下鉄丸ノ内線と、副都心線が交差しています。少し先には左右を明治通りが横切っていて、地下では都営地下鉄新宿線が丸ノ内線と交差しています。
広重がこの画を描いた頃の日本の人口は約3000万人ぐらいで、そのうちの農家が2100万人ほどでした。馬は農耕馬、駅馬などを含めて約60万頭、それらは、家族であり、働き手であり、輸送手段でもあったんですねえ。
現代の景色を広重の画にはめ込んでみました。せっかくなので現代の馬のような位置にある車を手前に入れてみました。
青梅街道と甲州街道の交わる交通の要であった内藤新宿は、今はJRや私鉄、地下鉄などが集まる鉄道交通の要衝になり、「内藤」が取れて、日本一の乗降客を誇る新宿駅に変身しています。
歓楽街としての内藤新宿は、歌舞伎町と名前を変え、24時間眠らない不夜城として世界に名を馳せています。実際の内藤新宿の中心地だったあたりは、「新宿二丁目」というジェンダーフリーの自由な街として、歌舞伎町以上に海外から人気を集めています。広重の画は馬や、馬糞が日常的に存在しているという画なのですが、視点を変えてみると、さまざまな思惑が詰まった、今の新宿に繋がる画でもあるんですねえ。
崖を背負うように立って、西からお堂を見回してみました。
実は、橋は意外と細く、短く、こぢんまりしたお堂です。
お堂側からみた秋らしい紅葉の景色です。
裏側から見ると池には噴水が設えてあって、弁天堂の向こう側には、江戸時代に弁天堂の別当だった、大盛寺の屋根が顔を見せています。
徳川家康がこの地を訪れた際、池の水でお茶を点てたところからお茶の水の名前が付いたとされている、井戸です。今でも渾渾と水が湧き出ています。と思いきや、実は井戸を掘ってポンプで汲みあげているのだそうです。
広重の視点に近づけるため、ちょっと崖を登ってみましたが、木々が邪魔をして、その先が見通せません。
Applemapのストリートビューに頼ってみました。
Googleアースの方が山の方まで見えていいかもしれません。
そこでこの画を広重の画にはめ込んでみました。ちょっと無理はありますが、だいたいの雰囲気は出ていると思われます。
実は、この水の豊富な地域にいま、重大な問題が発生しています。今まで見てきた武蔵野丘陵では、水道水に地下水を使っている自治体が数多くあります。その水源の井戸水が、PFASと呼ばれる、発がん性の疑われる有機フッ素化合物で汚染されているというのです。住民の血液検査を実施している市民団体によると、汚染は国分寺や立川などを中心にひろがっており、7つの市では井戸の取水混入を中止しています。
汚染源の疑いが濃厚なのは米軍横田基地で、2010~17年にPFASを含む大量の泡消火剤が土壌に漏れ出したと英国人ジャーナリストが報道し、2018年度の調査では、基地近くの井戸で都内最高濃度のPFASが検出されていました。
画像の右端が米軍立川基地です。福生から府中あたりまでを見渡します。
問題は、この汚染が地下水に乗って、どんどん下流部に広がっていることと、この報道があまりに少ないことです。また、東京都も政府もこの問題に対して、本腰を入れていないということも問題です。その背景には、日米合同委員会が持っている米軍特権への配慮があると言われています。
広重の描いた井の頭池も、お茶を点てるどころではなく、今ではもう発がん性物質に汚染されているのですね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
088の「王子瀧の川」は、石神井川の下流、王子あたりの景色を描いたものです。
先ずこの場所がどこにあるのか、Applemapからご確認ください。JR王子駅から西へ1.5キロほどいったあたりです。
拡大した地図をみると判りますが、王子駅から石神井川沿いに設えられた遊歩道沿いに上流に歩いていくと、3つめの橋に紅葉橋があり、その右岸側に今でも金剛寺というちょっと大きなお寺を発見できます。そのお寺の西側になります。広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。
しかし当時、石神井川はものすごく蛇行して流れていて、だいたい紺色の線のような流れだったようです。
これに当時の絵地図をかぶせてみましたが、あまりにも道路位置と方向が違っているので、これは施設名の参考程度にしかなりません。
次に国土地理院から出ている、高低差の判る地図をご覧ください。
この石神井川は、練馬の三宝寺池が主な水源となっている川で、武蔵野台地を東に進み、隅田川に注いでいる川です。しかし、旧中山道の仲宿を越えたあたりから、音無川と呼ばれ蛇行し、江戸時代は季節に応じた渓谷美を見せてくれていました。
また、王子界隈は、当時の江戸からは一泊で行ってこられる、ちょうどいい距離の人気スポットで、自然美と遊興地を備えた大人の観光地でした。
この地図に産業技術総合研究所Webサイトからの地質図をかぶせてみます。
江戸の頃、石神井川は、武蔵野台地(武蔵野段丘堆積物)の豊島台を抜けると仲宿あたりで、少し濃い緑色で表している地質の違う堆積物の本郷台に入り、上野台を越えて、王子で飛鳥山から一気に下り落ちていました。
そのずっと以前の縄文の頃には、王子駅の横まで海で、石神井川は本郷台、上野台を越えようとしていました。しかし実際には越えられず、しばらく南下して、今の千川通り沿いを進み、小石川を越え、水道橋あたりから日比谷の入江に注いでいた時期がありました。また、その後も飛鳥山を越えられず南下して、谷田川や藍染川となって、駒込、谷中を通り、上野に注いでいる時期もありました。
どうやらその頃には今のように折れ曲がった、深い渓谷を形成していたようです。しかし、泥炭層の武蔵野段丘堆積物上では、石神井川が造った音無渓谷が特殊ケースであり、他に峡谷を形成しているのは等々力渓谷しか知られていないようです。
では実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
カエデが赤く色づいていることから、この画は秋の絵であることが判ります。特に右側に屋根だけが見えているお寺は、今でも現存する金剛寺で、当時から紅葉寺の愛称で、たくさんの観光客が押し寄せていました。
大きく曲がって流れる川は、石神井川で、このあたりでは音無川と呼ばれていました。左岸にあるの道の先は王子で、松橋と呼ばれた橋を右に渡ると、岩陰で見えませんが、金剛寺に上る坂と岩屋弁天にいく下り坂が二手に分かれていました。
赤い鳥居が見えているところが岩屋弁天で、回り込んだところには、弁天の滝もありました。実際に滝あみをする人や、休んでいる人、川に入っている人なども描かれています。このあたりの渓谷では、弁天の滝以外にもたくさんの川が流れ落ちており、そのためにこのあたりは瀧の川とも呼ばれていました。
広重の江戸百景の中には、この王子界隈を描いた画が、まだ紹介していない画も含めて、6点あります。確かに人気観光地ではありましたが、広重はよほどこのあたりを気に入っていたようですね。連続して、6枚描かれた景色をご覧ください。
広重は江戸百以外にもこの界隈をたくさん描いています。この画は、岩屋弁天と涼を求めて音無川に遊ぶ市民を描いています。
この画は、松橋越しに紅葉の金剛寺を描いています。
季節は春、音無川にかかる松橋を行き来する人と、桜を描いています。
左の絵は、楓を強調しながら松橋越しに岩屋弁天と滝を一緒に描いています。
右の絵は、初代と同じような構図で、二代目広重が描いています。
最後に長谷川雪旦の描いた江戸名所図會もみてみると、実際の松橋と岩屋弁天、瀧の位置関係が判ってきますね。
実際にこの場所に行ってみました。先ず気づくのが完全にコンクリートで護岸されてしまっていることです。それに蛇行していた川も、まっすぐにされてしまっています。正面の階段の横辺りに岩屋弁天がありました。正面の後ろに見えているのが金剛寺です。
以前音無川が蛇行していた場所は、北区立音無みどり公園になっています。
その公園から見たGoogleストリートビューからの景色です。正面階段上に「松橋弁財天洞窟跡」の碑があります。
上流の滝野川橋を見たところです。コンクリート護岸が立派というか、痛々しいですね。
今も現存する、通称紅葉寺、金剛寺を王子側の対岸から見たところです。
広重の画に現在の写真をはめ込んでみました。滝あみや水遊びはもちろんできませんし、この公園以外は、水辺に降り立つことすらできません。そこに暮らす人たちの生活があるわけですから、このような形状にならざるを得ないことは理解しています。しかし、過去にとても美しい深山幽谷の趣きがあった渓谷はいま、三面コンクリートの連続護岸という、巨大な下水のようになっています。これも、都市河川の哀しい運命なのでしょうかねえ。
写真中央の金剛寺より、少し駅よりの場所に、やはり川の蛇行を修正してできた「音無さくら緑地」があります。12~13万年前に、現在の東京都付近が海底になった頃に形成された「東京層」と呼ばれる地層を露頭で見ることができます。石神井川が作り上げた奇跡の地層、ご興味のある方は是非どうぞ。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
089の「上野山内月のまつ」は、上野公園の清水観音堂の下にあったと言われる、丸くくねった松の木と、その先の景色を描いたものです。
先ず、広域の地図をご覧ください。JRの上野駅の西、不忍池の畔にその松はありました。
拡大した地図もご覧ください。不忍池の東の地下には、京成上野駅が横たわっていますが、その北側の地上ぐらいに松の木がありました。広重の視点を赤いグラデーションで表してみました。
これに当時の絵地図をかぶせてみました。実際の不忍池は、南北がこの1.5倍ほどあったようです。池の東側には、上野のお山と寛永寺が広大な場所を占めています。
西側には、大名屋敷が建ち並び、ひときわ大きいのが、加賀藩の前田家のお屋敷です。現在はそのほとんどが東京大学となっています。
広重は、この不忍池を南西側から見た三枚連続の鳥瞰図を描いています。画の左側にある島が中島で、朱塗りの弁天社があり、その周りを料亭が取り囲んでいました。造られた当初は船で行き来していたのですが、やがて橋が架けられ、蓮見、花見、納涼、月見、雪見と四季を通じて江戸市民の人気スポットとなっていました。
この画にも広重の視点を赤いグラデーションで入れてみます。
実は江戸百の11景で、広重は寛永寺境内にあった清水堂と不忍池の景色をを発表する中で、この曲がりくねったまつを小さく描いています。今度は89景で、この松をメインテーマにして、再度発表したということになります。
もう一度不忍池全図をご覧ください。この上野寛永寺界隈は、江戸の街のデザインを任された天海僧正が京都を模して造りました。上野の山は東の比叡山として、東叡山と名付けられ、不忍池はその東の琵琶湖です。中島は竹生島で、実際の竹生島の辨財天を勧進して、中島弁財天としました。
広重の画を詳しく見ていきましょう。画面全体を大きく閉めているのは、「月のまつ」と呼ばれる茶色い松の木です。その向こう側に見えるのが池之端の町家で、その奥、本郷台地の三基の火の見櫓が見えているあたりには、その奥の中山道まで大名屋敷が連なっていました。火事の多かった江戸ならではの景色ですね。その中の最大のお屋敷が加賀百万石の前田家で、「加賀鳶」という独自の火消し集団を組織していました。別名喧嘩鳶とも呼ばれ、特権意識が強過ぎて、町火消しや定火消とよく対立していました。
「加賀鳶」の名前は現在、金沢の福光屋が造る美味しい日本酒の銘柄の一つなっています。
不忍池にポツポツ黒いものが描かれているのは、蓮です。6月になると白とピンクの蓮が咲き乱れ、江戸随一の蓮見の観光地となっていました。中島辨財天の周囲にあった料理屋では蓮飯が提供され、江戸市民に特に評判が高かったようです。
広重の寛永寺の鳥瞰図にも、「月のまつ」は具体的に描かれていませんでしたが、天保5年に描かれた江戸名所図會にもそれらしき松の木は発見できませんでした。
広重が描いてた有名料亭のシリーズには、外の景色に大名屋敷の火の見櫓が描かれています。
河内楼の方には左側に蔵まで描かれています。このあたりには、やがて三菱グループの第3代社長の岩崎久彌の本邸が建てられます。
広重が二度も描いた「月のまつ」をもう少し調べてみました。上野山内の有名な松としては、「相生松」「亀の子松」があげられるらしいのですが、「月のまつ」は、画でも記述でも出てきません。その理由としては、この上野の山に関係しているようです。
広重が安政4年(1857年)にここを描いてから11年後、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まります。明治天皇を祭り上げた薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍が戦った日本の近代史最大の内戦ですね。
そのひとつ、江戸上野において彰義隊ら旧幕府軍と新政府軍の間で行われた戦いが、上野戦争です。この絵のタイトルは本能寺合戦になっていますが、これは上野寛永寺の戦闘の絵です。袴姿の兵が彰義隊、黒と赤の洋装の兵が新政府軍です。画の右側の黒い門の手前見切れているあたりに、「月のまつ」があったようです。
これは、上野戦争で、彰義隊の戦死者が発見された位置図です。地図中の黒い点がその場所です。青い丸のあたりに「月のまつ」があったようです。この戦争で、寛永寺境内は焼け野原になり、その後明治2年(1869年)2月まで市民はほとんど立ち入り禁止でした。大正8年に刊行された「今昔対照江戸百景」の記述に依れば、「月のまつは、明治初年前後に嵐のために折れた」と記されており、立ち入り禁止が故に、ひっそりと枯れていったようです。それでも、この大正8年頃までは、この松を記憶している人が上野界隈には、たくさんいたとのことです。
またその「今昔対照江戸百景」によると、松は、清水観音堂の下の土手の端の、不忍池に向いた方向にあり、月のまつ、別名わなの松とも言われていました。その輪のようになっていた枝は、見る場所と角度によって、その見え方が違い、新月から満月までさまざまに見えた、と記述されています。
その後、戊辰戦争は、会津、東北を経て、1869年5月の箱館戦争をもって終結します。「勝てば官軍」という言葉通り、このクーデターは「明治維新」と名前を変え、その後、新政府の都合のいいように、歴史が書き替えられていきます。
実際にこの場所に行ってみました。なんとこの「月のまつ」が復元されていました。場所は清水観音堂のすぐ真下なので、江戸末期の場所とは少し違いますが、当時の姿に似た松がそこにありました。正面から見ると、しっかりと「歌川広重の月の松」という、立派な紹介銘板も設えてありました。下から見上げると、朱塗りの清水観音堂によく映える姿になっています。
今の姿を、広重の画にはめ込んでみました。広重の画は、池之端方面の街が松の輪の中に入っていましたが、現在は建て変わった弁天堂がすっぽりと中に入って見えます。
上野のお山のモチーフとなった、京都の比叡山は、織田信長によって、壊滅的な攻撃を受けました。それを真似て造った東叡山寛永寺もまた、新政府軍によって、焼け野原にされてしまいました。
その一角にあった広重のお気に入り「月のまつ」も、その煽りを受け、ひっそりとその姿を消してしまいましが、今また新たに、優秀な植木職人たちの手によって、ちょっと強引にその姿が再現されました。
同じように新政府軍によって壊滅的な被害を受けた、会津若松の鶴ヶ城は、1890年(明治23年)に取り壊しになる寸前に旧会津藩士が私財をなげうって譲り受け、旧松平家に寄贈したことから、今の姿まで復活を遂げました。
この「月のまつ」、よく見ると松の輪の向こう側には、さまざまなものが見えてきますねえ。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
090の「猿わか町よるの景」は、この時代に芝居町と呼ばれていた浅草6丁目あたりから言問通り方面を見た景色です。
まず最初にこの場所がどこを描いたものなのかをご確認ください。どちらかというと、江戸の北東の街外れ、今の浅草駅の北東側あたりです。
少し拡大した地図をご覧ください。これに広重の視点である、赤いグラデーションを入れました。それにちょっと縮尺は異なりますが、天保の頃の絵図をかぶせてみます。この赤いグラデーションで指し示すあたりが、猿わか町と呼ばれる、芝居町でした。
この猿若町の安政二年頃までの詳しい地図がありますのでご覧ください。ここでも広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。この町全体が、芝居小屋と、芝居茶屋と芝居関係者の住まいや関連施設で占められていました。
それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。先ず一番上にあるのは、十五夜のお月様です。ですので秋の夜の景色ですね。暮れ六つを迎え、歌舞伎の上演を終えて外に出て帰宅する江戸市民を描いています。
右側には、江戸三座と呼ばれる歌舞伎小屋が、森田座、市村座、中村座の順に並んでいます。それぞれの入口の上には、櫓と呼ばれる看板が掲げられています。三方に幕を張り、5本の毛槍を横たえて梵天を立てるのが習わしで、幕府から許可を得て上演している、という証拠にもなっていました。
左側に連なっているのが芝居茶屋で、芝居を終えてから、飲んだり食べたりできるようになっていて、たいていは夜中まで営業していたようです。この並びには、結城座と薩摩座という、人形浄瑠璃の芝居小屋もありました。
よく見ると、帰り支度をした客が駕籠に乗ろうとしていて、茶屋の女が丁寧に送りに出ています。右側の屋台の寿司屋もこれからもう一稼ぎ、というところでしょうか。
茶屋にはもう明かりが入っていて、武家の家族風の芝居客たちは、提灯を下げた案内の男に従ってどこかに行こうとしています。
この場所に江戸三座が越してきたのは、天保12年(1841年)からで、ちょうど広重がこの絵を描いた頃には絶頂期を迎えていました。
高田馬場あたりから猿若町の芝居を見に行くには、夜半に起き出し、牛込を越えて、船にのりかえて、神田川、隅田川と下って行きました。ですので、暮れ六つのこの時間から帰ると、たいてい到着は夜中になっていたそうです。
歌舞伎の元祖は、慶長8年(1603年)頃に、出雲阿国(いずものおくに)という女性が京都の三条河原で始めた、「かぶき踊」であると言われています。この頃は、多分に性的な場面を含んだもので、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できないとされています。
その後、艶っぽい踊りは遊女屋で取り入れられ「遊女歌舞伎」と呼ばれるようになり、10年あまりで全国に広まって行きました。さらに並行して、12歳から18歳の少年が演じる「若衆歌舞伎」や、成人男性だけの「野郎歌舞伎」も行われていました。
元禄の頃(1690年代)にはこの「野郎歌舞伎」に、特筆すべき役者が現れます。荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎です。この「野郎歌舞伎」から現代に通じる、歌舞伎の形が確立されていきました。
また、幕府からの制限で、たくさんあった芝居小屋も整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座だけが官許の芝居小屋として、その証である櫓をあげての営業が認められるようになりました。しかし、ここで事件が起きてしまいます。
正徳4年(1714年)、時の徳川家第七代将軍である家継の生母に仕える、御年寄・江島が、上野・寛永寺と芝・増上寺へ前将軍の墓参りに行った帰りに、今の東銀座にあった芝居小屋・山村座で生島の芝居を見ました。その後の宴席で、江島は生島らを茶屋に招いたため、大奥の門限に遅れてしまいました。それが幕府内の大問題になり、江島はその後27年間の幽閉生活となり、役者の生島は三宅島への島流し、山村座も取り潰されてしまいました。この事件は江戸中の話題になり、画になったり歌舞伎の演目になったりしました。
もともと、奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎や若衆歌舞伎を禁止し、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとっていました。これにより、江戸の芝居小屋は次第に整理されてゆき、中村座・市村座・森田座の三座に限って「櫓をあげる」ことが認められるようになり、これを江戸三座(えどさんざ)とよんでいました。
天保12年(1841年)10月7日にまた事件が起きます。中村座が失火で全焼、市村座も類焼して全焼してしまいます。一緒に人形浄瑠璃の薩摩座と結城座も被災してしまいます。
折しも幕府では、老中の水野忠邦を中心に天保の改革が推進されていました。歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を贅沢な装いを理由に江戸所払いにしたり、芝居小屋を弾圧に近い統制下において、これを江戸市民へのみせしめとしました。
ちなみに今年秋に、襲名披露巡業を行う予定の市川團十郎白猿は、第十三代目です。
この事件で幕府は、綱紀粛正の一環として芝居小屋の同じ場所でのでの再建を禁じ、翌年、浅草聖天町(現在の台東区浅草6丁目一帯)への強制移転を命じました。ついでに、森田座もとばっちりを受け、移転を余儀なくされてしまいました。
江戸の中心から大きく離れた地に新設されたこの芝居町は、中村座系の元祖である、猿若勘三郎に因んで、猿若町と名付けられましたが、あまりにも僻地であったため、最初の頃は客が入りませんでした。その後、江戸三座同士の役者の交流や、プロモーションが功を奏し、徐々に人気になっていきます。やがて、浅草寺参拝や芝居見物後の吉原遊び、或いは南千住の小塚原の処刑見物などとあわせ、浅草界隈は往時の人形町を彷彿させる一大歓楽街に成長していきました。広重はこの頃の一番活気のある猿若町を描いています。
実際に今の猿若町に行ってみました。これが、広重がかつて描いた景色です。賑わいとは、全くかけ離れた景色で、住宅や中小のオフィスビルが建ち並んでいます。
広重がここを描いた10年後、慶応3年(1867年)暮れに幕府が崩壊すると、新政府は翌年9月末に突然、猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告しました。
最初に猿若町を離れたのは森田座から改名した守田座で、明治5年(1872年)に新富町へ移転し、その後一時松竹が経営権を取得しましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で、被災し、廃座となりました。
次が中村座で、明治15年(1882年)の失火のあと、明治17年(1884年)に鳥越に移転しましたが、明治26年(1893年)失火により全焼し、廃座となりました。
最後が市村座で、明治25年(1892年)に台東1丁目に移転し、一時松竹が経営権を取得しましたが、昭和7年に失火により全焼し、廃座となりました。ここに300年の伝統を誇った江戸三座も、ついにその歴史に幕が引かれました。
現在では、猿若町も町名すら残っていません。
両国の江戸東京博物館には、この頃の一番活気があった猿若町の中村座が、豪華絢爛に復刻されています。これを見ると当時はこんなだったのかと、驚かせてくれます。
広重の画に、現在の景色をはめ込んでみました。とても芝居で賑わった町とは思えないほど、静まりかえっています。
当時はしっかりとした照明などがありませんから、芝居は朝から日が暮れるまでの上演でした。それも薄暗い小屋の中ですから、外光だけが頼りでした。しかし現在は、照明はもちろん、演出や舞台作りも凝っていて、総合舞台芸術として夜でも明るい状態で見ることができます。それ以外でも歌舞伎は、伝統を重視しながらも、宙乗りを取り入れたり、現代的な演劇として漫画から題材を得るなど、さまざまな発展的試みを続けています。
江戸時代の娯楽は、歌舞伎でも相撲でも、その場所に行かないと楽しめないものでしたが、現代では、臨場感はないものの、家庭に居ながらにして、そのコンテンツを楽しむことができます。さてこれがいいのか悪いのか、この猿若町の現状を見ながら考えてみたいものですね。