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051
糀町一丁目山王祭ねり込
=こうじまちいっちょうめ
さんのうまつりねりこみ
Sannomatsuri Festival
Procession at
Kojimachi 1-chome.

 

051

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
051の「糀町一丁目山王祭ねり込」は、現在の内堀通りから、日吉山王権現社の祭礼、つまり山王祭を描いたものです。

まずはいつものように、この画がどこで描かれたものか地図でご確認ください。広重の視点であろうと思われる場所に赤いグラデーションを入れてみました。現在は、内堀通りとなっている、国立劇場の前辺りから半蔵門方向、ほぼ北方面を見た画になっています。

この辺りは、当時とあまり地形は変わっていません。そこで、当時の地図を上からかぶせてみました。半蔵門は、甲州街道の起点となっていて、ほぼ西を目指し、四谷御門を経て、内藤新宿を通過して府中に至ります。

半蔵門から甲州街道を出た辺りは、この画のタイトルにもなっている米偏の「糀町」と呼ばれていました。この道が律令時代に武蔵国の国府の置かれた府中に通じていることから、「国府路(こくふみち)」とかいて、「こうじ」と読んで、糀町となったと言われています。
これは、JR東海道線の「国府津」には府中に通じる港があった、というのと一緒ですね。

では、詳しく広重の画を見ていきましょう。
まず上方、左端に現れるのが、大伝馬町の山車、諫鼓鳥と呼ばれる鳥の白い尾です。その下には、諫鼓と呼ばれる太鼓があり、さらに下には、青い中国風の吹き流しがあります。実際に吹き流しはかなりカラフルなものだったようです。広重の画では、たなびかないように縛られています。

この諫鼓とは、古代中国の故事で朝廷に諫言したい者が鳴らす太鼓のことで、君主の政治がうまく機能していると、この諫鼓に苔が生え、鳥が止まる良い世の中だという、例えなのだそうです。

遠方、堀の先には、今、半蔵門をくぐろうとするもうひとつの山車があります。これは、山王の山の使いで、御幣(ごへい)をかついだ猿を乗せた南伝馬町の山車です。猿は金色の烏帽子と狩衣姿で、こちらも地味な吹き流しは縛ってあります。

画の下の方では、お堀の脇を山車と一緒に花笠をかぶった行列が一緒に半蔵門方向に向かっています。

ここで、天保の頃に描かれた、歌川国輝の山王御祭礼図をご覧ください。
山王権現社の起原は古く、太田道灌が江戸に築城する際、鎮護の神として川越の山王社を勧請し、その後、徳川家康も山王権現を城内鎮守の社としたため、その祭礼である山王祭も「天下祭」となりました。
こんな山車が50台以上連なるのが、山王祭とそして神田祭です。半蔵門から江戸城内に入り吹上御門の前で、幕府に披露する祭なので、江戸庶民から天下祭と呼ばれていました。このお祭りは、あまりに費用がかかるため、1681年から1年ごとに交代で行われていました。広重の画の発行は、1856年7月ですから、その前の月に挙行された山王祭の様子を描いています。

しかし、広重の画の中には、山王祭らしからぬ不自然さがでてきます。本来、山車の順列は派手な諫鼓鳥が1番で、猿の山車は2番の順序になっています。この順番は、山王祭も神田祭も変わりません。さらに広重の画では、山王祭にもかかわらず、派手な五色になるはずの諫鼓鳥が、白い尾になっています。吹き流しもおとなしい青一色で束ねています。

江戸東京博物館にあった神田明神御祭礼図の画をご覧ください。諫鼓鳥は、トサカ以外白いのがわかりますね。神田祭の先頭は、白い諫鼓鳥、山王祭は五色の派手な諫鼓鳥、ということがよく分かりますね。当時の様子をよく再現している模型もご覧ください。

山王祭前年の安政の大地震では、半蔵門の屋根や櫓、その周りの石垣などが崩壊し、江戸城の至るところにも大きな被害が出ました。そこで氏子側は、祭りそのものを遠慮したいと申し出ていましたが、幕府からは通常通り執り行うように通達が出されました。実際に半蔵門の修理が完了したのは、翌年の5月ですから、この年の山王祭の時には、半蔵門は、まだ工事中でした。
実際の山王祭当日の6月15日は、江戸は午後から雨と雷だったという書物が残っており、祭そのものもそれほど盛り上がらなかったようですね。

そこでこれらの不自然さついて、原信田実著の謎解き広重「江戸百」では、こんなふうに解説しています。
お祭りを事実として詳細に描いてしまうと、修理中の半蔵門もあからさまに描くことになり、軍事上の秘密までも描くことになります。幕府からお咎めがあったときに、言い訳を散りばめて、広重はわざと事実と違うように描いたのではないか、と。

実際にこの場所に行ってみました。当時の景色とさほど違わないと思われます。

これが現在の半蔵門です。この奥が、幕府上覧の場所である吹上御所になります。昭和の初期ぐらいまでは、ここも一般道として、通行できていたようです。

内堀通りの視点の向かい側です。左が最高裁判所、右が国立劇場です。

視点の後ろ側、桜田門方面を見た写真です。正面の赤い塔が警視庁、その右が総務省、手前が国交省です。警視庁の奥に高くそびえ立っているのが、日比谷ミッドタウンですね。

カメラを視点から皇居を経て、日比谷方向に振ってみました。

広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。半蔵門は、木の影で見えていませんが、実際にこの範囲の景色は、当時の面影のままだと思われます。

広重が幕府からのお咎めを恐れて、いろいろ工夫を凝らした画だったというのも納得が行きますね。当時の幕府は、出版物に対して、さまざまな規制をかけていました。幕府の意に沿わないものは、容赦なく発禁や回収となり、儲けは没収、その被害は版元はもちろん、絵師や摺師、彫師にまで及んでいました。安政の大地震について描いたものは、かなりの数が発禁になったとされています。
記録によれば、地震のルポルタージュである『安政見聞誌』は発禁とされ、版元は処払いの処罰を受けました。
そんなことを回避するために、広重は、修理中の半蔵門を小さく描き、派手なお祭りをおとなしく見せて、山車の順列まで替えて、幕府からお咎めが来たときの逃げ道のレトリックに使おうとしたのですね。なんだか忖度を常として、体制になびく今のマスコミに見習って欲しい部分がありますね。


052
赤坂桐畑
=あかさかきりばたけ
Akasaka Paulownia Field.

052私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
052の赤坂桐畑は、現在の赤坂田町通りの二丁目交番南側辺りから、当時あった溜池越しに、今の首相官邸方向を見た画です。

まず最初にこの画がどこから見た景色なのか、現在のApplemapをご覧ください。広重の視点であろう地点に、赤いグラデーションを入れてみました。

それに縮尺と方向を考慮し、元禄時代の古地図を重ねてみました。現在の外堀通りの赤坂見附駅から溜池山王駅の辺りは、大きな池だったことがわかりますね。この池は、麹町、鮫ヶ橋、清水谷辺りから出る湧水などが、窪地に貯まってできた池で、徳川家康が江戸に入府した頃からあったと言われています。

もう少し、地図を拡大して、古地図をさらにかぶせてみました。1606年に、徳川家康に恩義を感じていた和歌山藩主浅野幸長(あさのよしなが)が、この池に江戸城の外堀の役目をさせるために、虎ノ門の辺りに堰を作り、池の拡張を行いました。そこで、この池が溜池と呼ばれるようになり、この後50年ほどして玉川上水が完成し、虎ノ門まで水路でで水が供給されるまで、この溜池から南側の市中に飲み水を供給していました。

この地図に、広重の画が描かれた前年の地図をかぶせてみました。広重の視点である場所に「桐畑」の文字が確認できますね。この辺りは、亨保年間(1716-35年)に池の土手強化のために桐が植えられたので、桐畑と呼ばれていました。しかし、天保の改革以後、桐の木は徐々に切られ、畑という様相ではなかったようですね。

広重は、この画を描く前にこの桐畑を絵本江戸土産で描いています。その解説には、こんな良い景色なのに、見慣れているため人々はあまり評価していない、と残念がっています。

さらに江戸名所でも、この画の発行2年前に横位置でこんな画を発表しています。ここには桐畑と、手前に茶店、対岸には、お茶屋と奥に山王権現が描かれています。

それでは広重の画を詳しく見ていきましょう。
この画は、桐の花が咲いていることからして6月、初夏の画だと言われていて、上部には暗雲が広がっています。画の真ん中には、桐の木が描かれ、その遠景として、山王社の山裾と茶屋らしき建物が描かれています。

ここで描かれた年の絵図をご覧ください。画の方向には、山王社の子院である円乗院や成就院、内藤紀伊守の下屋敷が描かれているはずなのですが、実際に池の畔には、茶屋や、娼家が立ち並んでいたようです。

溜池は、二代将軍徳川秀忠が琵琶湖の鮒や淀川の鯉を取り寄せて放したことから、鮒や鯉の名所となっていました。池には、蓮も多く植えられていて、上野不忍ノ池と並ぶ、蓮の名所ともなっていました。画の中の黒い点が蓮でですね。
桐と蓮の風光明媚な場所として、明治10年頃まで賑わっていたようです。

実際にこの場所に行ってみました。なんとも画にもならない、ビルの写真ですが、現在のの田町通りの当時の場所から見た景色です。ここが池の畔だったはずなのですがねえ。

当時、桐の木立が林立していたはずの、田町通りの視点の左から右へカメラを回してみました。

先まで見通しの利く外堀通りまで出て、視点方向を見た写真がこれです。左の山王パークタワーの後に見えているのが、首相官邸です。

これは山王日枝神社、現在の外堀通り側のエントランスです。独特の鳥居の形が目を引きますね。

現在のこの付近のApplemapストリートビューに、池の形を入れ込んで見ました。かなり大きな池だったことがわかりますね。

実際に広重の画に、視点から見た現在の写真をはめ込んでみました。しかし、これでは目の前のビルしか見えていません。

そこで、外堀通りまで出て見た景色をはめ込み、ついでに今にも降り出しそうな雲を降ろしてみました。ここは、当時なら完全に池の中に立っていることになります。

この溜池は、明治10年(1877年)から始まった整備により、虎ノ門の落口を低くしたため、小川のように細くなってしまいました。干上がった土地は農地となり、その後の道路整備により、今のような外堀通りとなっていきました。残った桐の木は、かなりの大木となっていたのに、農地や道路整備の邪魔になったので、どんどん切られ、風光明媚な溜池は、ここから急激に姿を変えていきました。
今では、広重の画に出てくる桐が植わっている辺りは、田町通りのビル街に、池の中央には、山王パークタワーが、画の奥の池の畔には、首相官邸へのエントランスとして、毎日警備の警察官が立っています。
わずか150年ほど前なのですが、今では見る影もありません。

053
増上寺塔赤羽根
=ぞうじょうじとうあかばね
Zojoji Temple Pagoda
and Akabane.

 

053

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
053の「増上寺塔赤羽根」は、当時、増上寺境内にあった五重塔越しに赤羽橋方向を見た景色です。

まず最初に、広重の視点を地図から探ってみました。五重塔は、現在の芝公園の中にある芝丸山古墳の上にあったと伝えられています。この塔は、江戸幕府初代大老で、姫路城主酒井雅楽守(さかいうたのかみ)によって建立され、一度1806年に焼失してしまいましたが、その後、酒井家によって再建されました。江戸湾に浮かぶ舟からもよく見え、今の東京タワーのようなランドマーク的な存在だったようです。

広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。それに天保の古地図を重ねてみます。基本的な道路の構造は、あまり変わっていませんね。

この青い丸の有馬玄蕃と書いてある場所が筑後久留米藩、有馬中務大輔(ありまなかつとむたいふ)の上屋敷で、増上寺の警備を任されていました。その敷地は現在は、済生会病院や国際医療福祉大学、港保健所、三田国際ビルなどになっています。

この「メウ定イン」と書いてある増上寺の子院は、妙定院として今も現存しています。

この三角の場所が現在の東京タワーの位置で、タワー建設の際に増上寺が墓地となっていた土地をを提供したそうです。

現在の地図戻してみました。

江戸名所図會で、斎藤月岑が広大な増上寺を5ページ続きで、描いています。この一番左ページに五重塔が描かれています。
増上寺は、9世紀頃、空海の弟子が光明寺として麹町辺りに建立しました。その後、中世以降、徳川家の菩提寺となり、風水学的には、天台宗の寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝を抑えるために増上寺を、今の場所に移しました。

これは五重塔は見切れていますが、広重が描いた増上寺全図です。
浄土宗の関東大本山である増上寺は、房総まで聞こえた鐘楼と五重塔が特に有名でしたが、第二次大戦中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめ多くの建物が消失してしまいました。

当時の増上寺の大きさがわかる地図をご覧ください。赤い部分が増上寺の敷地と子院でした。浄土宗増上寺は、徳川家の宗旨で手厚い庇護を受けていたので、総本山の京都知恩院に匹敵する力を持っていた、といわれています。南側の川は、渋谷川の下流で、古川となって麻布十番を通り、この辺りで赤羽川となり、金杉橋を通り海に注いでいました。現在は、首都高速環状線が被さっています。

それでは広重の画を詳しく見ていきましょう。
右に、五重塔が大きく描かれ、左側には、黒い森の中に火の見櫓があります。増上寺の警護を任されていた有馬家が建てた、江戸で一番高い火の見櫓で、その櫓自体が名所になっていました。
真ん中の霞雲から出ている赤い幟は、筑後川の水神を祭神とする水天宮のものです。屋敷内の西側にあるのですが、安産、水難除け、水商売に御利益がある、ということで、毎月5日の縁日に一般の参詣が許され、大いに賑わいました。水天宮は、その後、明治4年(1871年)の有馬邸移転に伴い青山へ、翌5年には人形町に移転しています。

画の真ん中下あたりにある橋が赤羽橋です。その先、画の黒い森の下で、長い塀で囲まれたところが有馬家の上屋敷、その下、橋の手前には、辻番所があり、右に渡ったところには、毎朝、肴市がたっていました。

広重は、東都名所で、もう少し低いアングルの赤羽橋を描いています。有馬家の上屋敷と水天宮の幟、左には火の見櫓、赤羽橋を往来する人々ものどかに描かれています。平和な時代が伝わってきますね。

二代目広重は、東都名所で、上流の中ノ橋越しに描いた赤羽橋をワイドに描いています。初代広重の視点と全く逆から見た画になっています。右側の立派な上屋敷、水天宮の幟、火の見櫓も描かれ、赤い五重の塔は左遠方に小さく描かれています。さまざまな職業の人々がたくさん描かれ、当時の江戸庶民の暮らしを垣間見るようです。

さらに二代目広重は、江戸名勝図會の赤羽根で、同じアングルを縦位置の画で描いています。左側の画です。絵として完成された構図で、解説には、この辺りの賑わいを書いています。

右側の画は、初代が豊国との合作で、赤羽橋を今渡ろうとする、火の見櫓を見物に来た親子を描いています。向こう岸には、火の見櫓と有馬家の上屋敷が詳細に描かれています。これを見てもわかるように、有馬家の上屋敷はなまこ壁で囲まれ、正面の門は赤く塗られていたようですね。

当時のこの周辺の様子を写真に納めた本を見つけました。新潮社の「写真で見る江戸東京」です。撮影は、幕末に日本を訪れていた、フェリックス・ベアトです。モノクロなので、色まではわかりませんが、左側有馬家の上屋敷から右側に展開していきます。途中、意外に大きい古川が現れて、その右側に、東麻布の街並みを見ることができます。初代広重や、二代目が描いたとおりの街並みが記録されているのが面白いですねえ。

実際にこの場所に行ってみました。芝丸山古墳の辺りは今、芝公園になっており、五重塔の面影は全くありません。赤羽橋方面を望むも、木立が立ちはだかって、ほとんど見えません。

山の南側までいってもほんの少し見えるだけです。

道路まで下りてみました。真ん中のマンションは、ちょうど赤羽橋のたもとに建つタワーマンションです。左側の建物が古地図にあった妙定院です。

このアングルからの動画もご覧ください。
カメラを右に振っていくと見えてくるのが、東京タワーとグランドプリンスホテルです。ここも当時は、増上寺の敷地内でした。ベアトの写真と比べると、驚くべき変貌を遂げているのがわかりますね。

現在のApplemapのストリートビューをご覧ください。テニスコートの先にあるのが妙定院で、その先が赤羽橋になりますが、古川に沿って、上を首都高速環状線が通っているのがわかりますね。これに、雰囲気がわかるように浅草の五重塔をはめ込みました。もっとも広重が描いた頃は、五重塔は、赤い色でしたが。

最後に広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。

しかしこれでは、寂しすぎるので、五重塔を残して丘の上からの、木立に隠れる赤羽橋の写真をはめ込んでみました。
この辺りは、芝丸山古墳が残っているほど、古くから人の営みがありました。時代が進んで江戸時代にはランドマーク的な赤い五重塔ができ上がりました。しかしそれも、人々の争いに巻き込まれて消失し、新たな東京のランドマークとして、赤い東京タワーができました。時代はどんどん新しいモノを作っては壊し、作っては壊しを続けて行くものなのですかねえ?。

最後に東京タワーの画像をご覧ください。増上寺境内にある東照宮横の公園越しに見た景色です。この公園には、「平和の灯(ひ)」が点されています。この「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。これで、戦争の惨禍と平和の尊さを後世につたえています。

054
外桜田弁慶堀糀町
=そとさくらだべんけいぼり
こうじまち
Benkeibori Moat
from Soto-Sakurada
to Kojimachi.

 

054

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
054の「外桜田弁慶堀糀町」は、現在の内堀通り、警視庁向かい辺りから、三宅坂方面を見た画です。

まず、この画がどこから見た画なのか、赤いグラデーションを入れた地図でご確認ください。地下鉄有楽町線の桜田門駅辺りから三宅坂方向を見ています。

これに当時の古地図をかぶせてみました。これでもわかるように視点方向には、井伊、三宅、松平など大名屋敷が並んでいることがわかりますね。その先、グレーの町屋が半蔵門から甲州街道に沿って並んでいますが、この辺りが糀町です。

広重の画を詳しく見ていきましょう。上の方にひときわ目立つ赤い門のあるお屋敷がありますが、ここが彦根藩主井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の上屋敷です。今の憲政会館辺りと霞ヶ関公園です。その先が三河田原藩主三宅土佐守(みやけとさのかみ)の上屋敷です。現在隼町の「三宅坂」と呼ばれている最高裁判所辺りです。
横に長い塀のお屋敷は、松平兵部大輔(まつだいらひょうぶたいふ)のお屋敷で、今の国立劇場辺りになります。

井伊家の門前には、辻番所があり、その横に釣瓶が3つ見えているのが、「桜の井」と呼ばれる名水の井戸です。その右横、遠い方の辻番所の脇に見えている柳の脇にも、名水の井戸、「柳の井」がありました。

画の右には、江戸城の芝の土手が見られますが、これは鉢巻土居と呼ばれ、上には松、一番下の水際は石垣で補強されています。この土手は今でも当時のまま残されています。土手の右側は西の丸で、将軍職を隠退した大御所や、次期将軍の世継ぎなどが住んでいました。
画では見えていませんが、弁慶堀手前には桜田御門があり、大雑把に、この堀を境に外側を外桜田、内側を内桜田と呼んでいました。

広重は、江戸名所の山田屋版として、近景の井伊家上屋敷と櫻の井を描いていました。こちらは、江戸庶民が内堀を和やかに話しながら辻番所方面に向かっています。赤い門となまこ壁の井伊家上屋敷や、三つの釣瓶の櫻の井もしっかりと描かれていますね。

広重は、もう一つ寒々しい冬景色の外桜田も描いています。こちらは、ほぼ名所江戸百景の横位置版ですね。人もあまり描かれておらず、ひっそりとした冬景色になっています。

二代目広重は、初代の描いた景色の少し右側を、柳の井を中心に据えて縦位置で描いています。左は新緑の頃、右は、芝が秋枯れで黄色くなっているのがわかります。

初代広重は、櫻の井越しに桜田門方向を見た冬の画も描いています。水を汲んでいる男、雪かきをしている男たち、雪の中を着物の裾をまくり上げて往来する人々を描いています。寒々しい景色ながらも江戸市民の活気が感じられますね。

実際に今のこの場所に行ってみました。お堀周りは、だいたい当時の状態を保っているようです。中央の丸みのある建物がFM東京、その左が国立劇場、最高裁判所、と続きます。

これは内堀通りに出て、国会議事堂方向を見た写真です。左が警視庁、現在の櫻の井は右端の信号の奥ぐらいにあります。

右側が警視庁、左の堀の先が、桜田門です。内堀に沿った歩道は信号がないので、ジョギングを楽しむ人たちが、たくさん走ってきます。

これが桜田門を寄りで撮った写真です。右奥白くて高い建物が丸ビル、その左が新丸ビルです。桜田門は、最近夜のライトアップをはじめました。

有楽町線桜田門駅の入口から旧井伊家上屋敷方向、お堀、皇居西の丸、桜田門まで見た動画です。当時、目隠しとして植えられた土手の松が大きく育っているのがわかります。

広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。堀の形状を合わせていくと、櫻の井が見切れてしまいますね。これは、未確認ですが、内堀通や首都高速の拡張により、今の櫻の井の位置が、移動した可能性もありますね。
それにしても皇居周りはほぼ当時のままの姿で残っている、というのも凄いことですね。
また、この画が発行された4年後の雪の日に、この画で一番大きく描かれている彦根藩主の屋敷の主、井伊直弼が桜田門の外で水戸藩の浪士に襲撃され、時代が大きく動いていくことになります。

最後に今の状態をApplemapのストリートビューでご確認ください。

055
佃しま住吉の祭
=つくだしま
すみよしのまつり
Sumiyoshi Festival
on Tsukudajima Island.

055

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
055の「佃しま住吉の祭」は、祭のメインイベントである、住吉神社の神輿渡御と、大幟を描いたものです。

まず、今の地図を使って、広重がこの絵をどこで描いたのか、赤いグラデーションで示してみました。

それに天保14年の地図を重ねてみます。佃島が、小さな島だったことがわかりますね。

さらにこの画が描かれた安政4年の地図を重ねてみました。佃島とその北の石川島は、隅田川河口の小さな中洲にできた島でした。

一度現在の地図に戻して、縮尺のしっかりした明治11年頃の地図を上からかぶせてみます。この頃には、佃島北の石川島は、造船所に変わりつつあります。永代橋も今より少し上流にあったことがわかりますね。

そもそも、この佃島が出来たいきさつは、天正10年(1582)年に遡ります。織田信長から呼び出されて堺にいた家康は、京都本能寺で信長が明智光秀に討たれてしまったことを知ります。そこから家康一行32名は、地元三河までの逃避行を決めます。
その途中、摂津・神崎川まで来たところで川を渡る舟がなくて進めなくなり、そこに現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供したことで無事、岡崎城まで戻ることが出来ました。地図の赤い丸が今の佃村(西淀川区佃)です。

後に家康が幕府を開いて江戸に入った時、この時に救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、自由に漁業を営む権利や、年貢免除の特権などを与えました。中でも、白魚漁は、佃の漁民だけに許された漁でした。そのときに呼ばれた漁夫33人と地元神主・平岡権大夫好次が、島を整備し佃島と名付け、摂津国佃の住吉社も分霊し、住吉神社を創建しました。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。まず真ん中に現れるのが、大幟です。これはお祭りの時に、徳川家から特別に立てることを許されたもので、今でも祭当日は、6本の大幟が立ちます。

左に松、その下に漁民にかつがれた神輿渡御が描かれています。これは八角神輿と呼ばれ、宮入りのあと、海に出て島の周囲を反時計回りに一周して、今戻ってきたところです。その右、遠くに品川大森方面が見えています。

その下には、大型船である弁才船が数隻浮かび、脇には、佃の渡し船と釣り船も描かれています。

当時描かれた佃島の姿を探してみました。まず見つけたのが、斎藤月岑の描いた江戸名所図會です。明石町上空を想定して佃島を見た画になっています。よく見ると緑の矢印の辺り、神輿渡御も描かれています。右下は佃の渡し発着所です。

次に広重が初期の頃に永代橋たもと方向から描いた、佃島です。種まき鳥といわれる初カッコウが画題なので、4月頃の景色だと思われます。左が深川新地、今の越中島辺りですね。

これは永代橋越しに見た佃島ですね。弁才船がたくさん描かれているので、この辺りが江戸湊の中心地だったことがわかりますね。舟はここから順番に日本橋川を遡っていきます。

これは広重が描いた、永代橋の全景です。混雑する隅田川の河口に位置する佃島の位置がよく分かりますね。当時の永代橋は、少し上流、今の日本IBMの辺りに架かっていました。右下に見えているのが、日本橋川の河口です。

実際にこの場所に行ってみました。広重がこの画を描いた地点を南側から見ました。江戸時代に人足寄場のあった石川島の西南の端、石川島灯台を復元した場所です。

灯台から佃堀を渡ると、左に赤い鳥居があり、この奥に住吉神社の本殿があります。今、隅田川はコンクリートで高く護岸されていますが、当時は、この道の高さから、そのまま隅田川に下りることができました。

実際に広重が見た景色がこれです。といっても今は佃大橋があるので、その下まで来て撮った写真です。左が勝ちどき、右が築地、そこを繋ぐかちどき橋が小さく見えます。右側は、聖路加タワーです。この写真の左側半分が広重の画になった景色です。

これが住吉神社境内です。こぢんまりした神社ですが、新しく埋め立てられた佃、月島、勝ちどき、豊海、晴海の産土神となっています。

これが住吉神社です。

これが広重の画に描かれた八角神輿です。天保9年、1838年に芝大門の万屋利兵衛によって制作され、170年以上使われてきました。海に入るため、内部は漆塗りで防水されているそうです。

これは平成23年に八丁堀の秋山三五郎によって、リニューアルされた八角神輿です。

これは佃堀に架かる橋から住吉神社の裏手を見た景色です。この堀には、大幟を立てる柱と抱木(だき)が埋められて保存されています。この堀に埋めるやり方は、江戸時代から続いているそうです。

祭の時に佃堀から掘り出された柱と抱木(だき)は、この歩道の三つの四角い蓋を剥がして建てられます。

佃堀を南から見た景色です。当時カメラのある撮影地点はもう海でした。奥の高層ビルは、江戸時代には人足寄場、その後石川島造船所となり、東京都肝いりの再開発で、大川端リバーシティに生まれ変わりました。

これは明石町側の佃の渡しがあった場所から、佃島を見た景色です。赤い鳥居の奥には、住吉神社、左の水門が佃堀の水門、その左が再建された石川島灯台で、広重の視点となった場所です。八角神輿は、住吉神社から宮出しされ、正面の赤い鳥居をくぐり、海に入ります。その後右に行って、佃島の南端から島を一周し、ここに戻ってきて上陸します。そのときに、灯台の辺りから見た画を、広重が描いたことになります。
ここから佃島までの「佃の渡し」は、東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)8月に佃大橋ができるまで、造船所に通う人々と、住人で一日70往復もしていました。

これは、大正八年に刊行された、「今昔対照江戸百景」という本に掲載されていた大正時代初め頃の写真です。神社から海に入り、これから神輿渡御の始まりという場面のようです。その当時も八角神輿だったというのがよく分かりますね。

広重の画に、今の実際の写真をはめ込んでみました。当時海だった場所には、勝どき駅前の高層ビルが建ち並んでいます。この右にあった、築地の魚市場も今では、この写真の遠く左側、新豊洲の埋め立て地に移転しました。
江戸湾は、家康が入府した頃から、これから先も、ずっとずっと埋め立て続けられていくのですね。

 

056
深川萬年橋
=ふかがわまんねんばし
Mannenbashi Bridge at Fukagawa.

056

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
056の「深川萬年橋」は亀を手前に、深川の万年橋越しに富士山を描いた画です。
広重は、この富士山を描くことに、心に引っかかりがあったようなのですが、まずは、この場所がどこか、Applemapの広域地図でご確認ください。

広重の視点を赤いグラデーションで示しました。江戸城の西、縦に流れる隅田川に東側から直線的に流れ込む小名木川が交差する辺りに、万年橋がありました。

この小名木川は、徳川家康が江戸にやって来てから作った人工の川、つまり運河なので、ほぼまっすぐ作られています。地図を見ると今は荒川で分断されていますが、当時は、行徳まで繋がっており、行徳辺りでとれた塩や野菜を江戸市中まで運び込むための、重要な川でした。

もう少し詳細な地図をご覧ください。当時の万年橋は、もう少し隅田川よりに架かっていて、下を航行する舟の通行を妨げないように太鼓状に盛り上がっていました。そこから隅田川越しに見る富士山がとてもきれいだったので、名所としても有名になっていました。

ここに天保の頃の古地図を組み合わせてかぶせてみました。視点方向、隅田川対岸には、陸奥国磐城平藩、安藤長門守のお屋敷があります。また、新大橋も今より随分下流側に架かっていたことがわかりますね。

地図にもっと縮尺の正確な明治期の地図をかぶせてみました。視点方向の隅田川がこの辺りで大きく曲がり、広くなっていることがわかりますね。そこに、青い点線で囲まれた、葦と書いてある場所があります。ここは、隅田川の砂が堆砂しやすく、満潮の時の塩水と真水が別れる、ということで、「みつまた別れの淵」と呼ばれていました。

安永元年(1772年)に、この中洲が埋め立てられて、富永町という9600坪の新地が作られ、両国と並ぶ歓楽街となりました。しかし、17年後、寛政の改革で葦の生えた中洲に戻され、その様子を広重は、「中洲いま、馬鹿者どもの、夢の跡」と歌留多で呼んでいました。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
一見すると、この画は何を書いているのかわからないのですが、周りの黄色い部分は、亀が吊されている木桶で、その内側の茶色い部分が、万年橋の欄干になります。見切れてはいますが、この木桶の中には、あと数匹、亀がいると思われます。

実はこの画は、放生会(ほうじょうえ)の様子を描いています。放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式で、仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられ、全国に広がりました。ました。

これは、月岡芳年が描いた大日本名将鑑で、鶴岡八幡宮の放生会で由比ヶ浜に鶴を千羽放生した源頼朝を描きました。

江戸時代には、8月15日に、捕らえられた鳥や魚などを山川に放し、死者の冥福と自分の後世を祈る放生会(ほうじょうえ)が、各地の神社仏閣で行われ、「放し鳥」や「放し亀」という商売まで出現していました。亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕まえてまた新たな客に売る、というまことにのんびりした商売が、成り立っていました。広重は、この亀屋の桶と亀、それに万年橋の欄干越しに隅田川と富士山を見るという、大胆な構図でこの画を描きました。

画の中心には、石亀が描かれ、その下に富士山、隅田川には、高瀬舟や筏が浮かんでいます。川の中の緑色の葦が生えた中洲は、17年間歓楽街だった、「みつまた別れの淵」です。

また、本来なら、深川の富岡八幡宮の放生会が有名なのに、わざわざ万年橋を描いたのは、月岡芳年が描いた鶴に対抗して、「鶴は千年、亀は万年」にかけた広重のしゃれっ気です。実際に万年橋の由来は、既にあった永代橋の「永代」を意識して作られたといわれています。

これは、広重の先輩絵師で、富士山で名を馳せた葛飾北斎の富嶽三十六景です。万年橋の丸みが誇張して描かれ、当時の生活が垣間見られるように人々の姿が生き生きと描かれています。行徳から来た舟の脇でのんびり釣り糸を垂れる江戸庶民の対比が、とても静かな空気の富士山を演出しています。
広重は「深川萬年橋」を描くときに、大先輩でライバルの北斎のことを、意識せざるを得なかったでしょうねえ。

実際にこの場所に行ってみました。これが現在の万年橋から見た景色です。

少し隅田川寄りに移動して、当時万年橋があったあたりからの景色です。左の橋は、清洲橋、奥のビルが読売新聞社、右のビルは、浜町中ノ橋に出来たトルナーレ日本橋浜町という高層ビルです。

これは万年橋を北側から見た写真です。当時より少し東に移動し、鉄骨造りの立派な橋になっています。

これは当時、万年橋の北のたもとにあった正木稲荷神社です。腫れ物を治すご利益があるとされ、信仰を集めました。当時、この脇には大きなマサキの木があり、船頭たちから見ると小名木川入口の目印になっていました。このすぐ脇には、松尾芭蕉が奥の細道に出立するまで庵を結んで住んでいました。今では、近所に芭蕉記念館が出来ています。

この画が描かれたのは、安政4年(1857年)11月だといわれています。ここから一年を経ずに広重は他界します。
嘉永6年(1853年)に黒船がやって来て、日本中がひっくり返るような騒ぎになりました。その2年後には安政の大地震が起こり、この画が描かれた頃には、江戸市民はようやく平穏な暮らしを取り戻しつつありました。しかし、時代は、ひたひたと押し寄せる新しい波に飲み込まれていく寸前でした。

この画は、功徳をもたらす放生会の亀と万年橋の欄干越しに、栄華を極めて今は水の中にある「みつまた別れの淵」を見ています。奥に永遠の霊峰富士、そして静かに流れる隅田川。
広重は北斎が描いた富士とは全く違う、時空を越えた「時の流れ」のようなものを、ここで描いていたのですね。

広重の画に、現在の景色をはめ込んでみました。しかし、これでは、画にならないので、橋の欄干部分を取り払ってみました。いかがでしょうか?

偶然ですが、清洲橋のアーチが富士山に見えてきませんか。広重が手を合わせた合掌の姿にもみえますね。広重が願っていた平穏な江戸の永遠が、見えてきませんか?

 

057
みつまたわかれの淵
=みつまたわかれのふち
Mitsumata River Fork
and Wakarenofuchi
Dividing Pool.

057

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
057の「みつまたわかれの淵」は、現在隅田川にかかる清洲橋当たりから、首都高速の箱崎ジャンクション方向を見た画です。

この場所がどこを描いたものなのか、Applemapからその場所をお確かめください。056で紹介した万年橋のすぐ脇当たりですね。

もう少し拡大した地図に、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れました。これに当時の古地図をはめ込んでみました。当時の地図は、かなり歪んでいるので、左岸側、深川方面は、完全にずれてしまっています。

この地図に、画に描かれている場所を入れてみました。画の主題になっている「みつまたわかれの淵」は、隅田川の中に葦の生えた緑色の中洲として描かれています。

この中洲には、かつて大きな街が存在していました。ここは、明和八年(1771年)に隅田川の中洲を埋め立て、翌年には9600坪の浜町から続く新地を造成、富永町と命名され、その3年後には、93軒の料理屋、湯屋、などが立ち並び、両国と並ぶ歓楽街となりました。当時の埋め立て地を黄緑色の点線で表しています。
しかし地図にある隅田川の分流、箱崎川を閉じてしまったため、洪水が頻発し、17年後の寛政の改革で、元の中洲に戻され、箱崎川も水路として掘り返して復旧させました。広重は、その68年後の、再び堆砂した中洲を描いています。

この地図を元に、広重の描いた画を見ていきましょう。まずかなり大きめの夏の富士山が描かれています。その下に箱崎川にかかる永久橋、箱崎川の入口には、左に田安徳川家、右に清水徳川家の下屋敷があります。田安家はしっかり描かれているのに、清水家はなにやら黄色く描かれています。

その右側、川口橋を挟んで赤い門のある建物が陸奥国磐城平藩、安藤長門守の上屋敷です。箱崎川が掘り直されたからか、中洲が隅田川の中程に移動していますね。どうやらこのあたりが、隅田川の堆砂地点のようですね。その手前には、鉄砲洲や上流の厩河岸などで、廻船から積み替えられた荷物を運ぶ、茶船や高瀬舟といった中型船が航行しています。

江戸時代の「御三家」といえば「尾張、紀伊、水戸」ですが、それ以外に「御三卿」というのがありました。御三家と同様に、将軍の跡継ぎを輩出することを目的に創設されましたが、御三家の控えのような存在でした。いわば、お世継ぎ生産システムの下支え、それが田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家でした。今回広重の画には、その田安家と清水家の両方の下屋敷が描かれています。

清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を祖として、紀州藩主なども輩出していましたが、当主不在が長かったのが特徴です。弘化3年(1846年)から20年間当主不在の明屋形という状態が続いていました。広重がこの画を描いたのが、安政四年(1857年)ですから、ちょうど当主不在になってから10年後です。この画の黄色い場所は、当主不在の清水家の下屋敷つまり別荘扱いの建物ですから、私は、空き地だったのではないかと思っています。

その後清水家は、1866年に6代当主昭武(水戸徳川家からの養子、15代将軍慶喜の弟)を迎えますが、2年後には水戸藩11代藩主として水戸徳川家を継いだため、また、当主不在になって明治維新を迎えます。

この界隈を描いた浮世絵を探してみました。まずは広重が箱崎川あたりから見て描いた画がこれです。左側の赤い門が安藤家の上屋敷、右側が新大橋になります。中洲がかなり大きく描かれていますね。この頃には、砂が堆砂して、どんどん中洲が大きくなっていたようです。

安藤家の上屋敷あたりから田安家の下屋敷を右に、永代橋を描いた画がこれです。鬱蒼とした中洲の先、深川には家が密集しているのがわかりますね。現在帆を立てている舟は、橋の下を通るときには、帆を下ろし帆柱も折り曲げます。

これは新大橋の下から箱崎川を見た画です。右側の赤い門が安藤家上屋敷、その先が川口橋です。清水徳川家の下屋敷は木立として描かれていますね。富士山が同じ位置に描かれているのは、実際にこのように見えたのでしょうね。

英泉が川口橋あたりから見た画を描いていました。中央右が田安徳川家の下屋敷、箱崎川の向こうには、永久橋が見え、その右の白い屋敷が丹後国田辺藩牧野佐渡守の中屋敷です。なぜかこの画には、中洲が描かれていません。

ほぼ新大橋あたりから描いたのであろう、広重と、昇斎一景の絵です。ほぼ同じような角度の画ですが、中洲の描き方が異なっています。広重は、砂場に舟を上げている漁師を描き、昇斎一景は、船遊びに来た女性と子どもを描いています。田安徳川家の下屋敷の護岸の形状がほとんど一緒なのが、面白いですね。永代橋の先には、鉄砲洲湊に入ってきた廻船の帆柱がたくさん描かれています。

実際にこの場所に行ってみました。
左側、首都高速の手前の門形のビルがリバーゲートビル、その右側一帯が現在、中央区日本橋箱崎町という住所になっている場所です。青い看板が箱崎ポンプ所で、地図にあった田安徳川家があったあたりですね。その右側の茶色いマンション、その右の白いマンションのあたりが画の中の、葦が生えていた中洲あたりです。

中洲側から深川方向を見た現在の清洲橋です。この橋の真ん中あたりの上空から、右側、西南西方向を見た景色が、広重の画になります。

清洲橋のたもとから隅田川右岸を見た景色です。岸辺は隅田川テラスという遊歩道になっています。右側手前が現在、中央区日本橋中洲という住所になっている場所です。この右側に中洲があったのですが、箱崎川もすべて埋め立てられてなくなっています。

もう一度画をご覧ください。
画の中で、変に黄色く描かれている清水徳川家は現在、中央区立有馬小学校のあたりだと思われます。御三卿や清水徳川家を調べてみたら、ちょっともの悲しいものを感じましたね。隅田川の中で、広く葦の生えている中洲は、68年前にとても賑わった歓楽街、富永町の名残だというのも、さみしさを感じさせますね。広重は、そんなもの悲しさを演出するために、清水家の場所をわざと黄色く目立つように描いたのでしょうか?

現在の景色を広重の画にはめ込んでみました。しかし、元の中洲に立つマンションの写真になってしまっています。

そこで、Applemapのストリートビューと夏の富士山を合成して、今風に作りかえてみました。高速道路が旧箱崎川、右に曲がるあたりが日本橋川です。右下のマンション群は川と中州でした。こうして見ると面白いですね。ただし、実際に富士山は、こんなに大きくは見えません。

058
大はしあたけの夕立
=おおはしあたけのゆうだち
Sudden Shower
over Shin-Ohashi Bridge
and Atake.

058

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
058の「大はしあたけの夕立」は、今の新大橋よりも下流に架かっていた江戸時代の新大橋を浜町方面から見た画です。

この画がどこからの視点で描かれたのか、地図でご確認ください。ちょうど隅田川が西に曲がる場所に架かっていた江戸時代の新大橋を、北を向いて描いたことになります。

これに当時の古地図を上からかぶせてみました。新大橋は、現在より随分南側に架かっていたのがわかりますね。
新大橋が架けられたのは、元禄6年(1693年)の冬で隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架けたと伝えられています。

橋が完成していく様子を、当時、橋の東のたもとに庵を構えていた、松尾芭蕉が句に詠んでいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」。

新大橋は地図を見てもわかる通り、隅田川がカーブした流れの速い場所にあったため、何度も破損、流出、焼落をくり返し、その回数は20回を超えました。幕府の財政が窮地に立った享保年間には、橋の維持管理をあきらめ取り壊しを決めましたが、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に、存続を許されました。
そのため、町民が寄付を募り、橋が傷まないように渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止などの決まり事を掲げ、本当の庶民のための橋となっていきました。

視点の方向、現在の新大橋が架かっているたもとのあたりには、「御船蔵(みふなくら)」と書かれている場所があります。ここは当時幕府の舟を係留させておく場所でした。

江戸幕府第三代将軍の徳川家光が新造した、軍船形式の御座船である「安宅丸」は、寛永11年(1634年)に伊豆の伊東で完成しました。その後ここ深川の御船蔵に係留され、一度も戦いに出ず、豪華絢爛な装飾を施されていきました。長さ38m、肩幅20m、排水量1500トンという、あまりの大きさゆえに使い勝手が悪かったのか、平和な江戸時代の中、一度も使われることもなく朽ち果て、解体される憂き目に遭ってしまいます。そこでこのあたり一帯を人々は「安宅丸」にちなんで安宅(あたけ)と呼ぶようになりました。

明治期の地図を見ると、この安宅河岸を行き来する渡し船「安宅の渡し」も存在しており、繁盛していたようです。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず、最上部になにやら怪しげな雨雲が黒々と描かれています。その遠景は雨で霞んでいるような状況で、御船蔵も火の見櫓も淡いグレーで描かれています。全体としてあわてて撮った写真のように、川岸と雨の筋が少し傾いていて、橋も交えてジグザグの構図になっているのが面白いですね。

この土砂降りの中、上流の秩父から材木を運んできたであろう筏も隅田川をゆっくりと進み、橋を渡る庶民も慌てるわけではなく、ゆっくりと橋を渡ろうとする様子が見て取れます。

1886年パリ。新しい画風を探し求めていた、33歳の売れない画家ゴッホは、たまたま東洋から送られてきた陶磁器の保護のために、包まれていた紙に描かれた浮世絵を目にします。その後、画廊でもっと多くの浮世絵を見て、何点か模写してみました。そのひとつがこれです。

1858年に亡くなった広重も、自分が死んだ二十数年後のパリで、その後有名になる印象派の巨匠、ゴッホが自分の描いた画を模写していたなどということは、想像もつかなかったことでしょう。ゴッホもこの画を描いた3年後に、売れない画家のまま自殺しています。

実際にこの画の場所に行ってみました。
これは現在の新大橋を同じような方向で見た写真です。視点の高さ的にも、見ている場所的にも少し違っていますね。

これは、広重が描いた画の奥の方、「あたけ」を上流側から見た写真です。今、工事用の足場が組まれているあたりが、御船蔵があったあたりです。

これは、対岸から広重の視点方向を見た写真です。黄色い看板の乗っているビルの上空から、こちらを眺めたと思われます。

現在の写真を広重の画にはめ込んでみました。あたりまえの画ですね。

これでは独特のジグザグな構図にならないので、Applemapからのストリートビューに頼ってみました。雨も降らせてみました。

でもやっぱり、広重の画の完成度には、目を見張るものがありますね。
平和な時代が続いたために、そのまま朽ち果てた軍船安宅丸の残像。江戸庶民のための橋を渡る、町民と筏の静かで平和な景色。そこに降ってくる黒雲からの土砂降りの雨。そして傾いた構図。広重の最高傑作といわれるこの画は、これから平和が壊れて曲がっていくであろう時代を、描いていたのかもしれませんね。

059
両国橋大かわばた
=りょうごくばしおおかわばた
Ryogokubashi Bridge
and Okawabata Riverbank.

059

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
059の「両国橋大かわばた」は、両国橋の西側から当時の火除け地である、両国広小路越しに橋を見た画です。

地図で広重の視点をお確かめください。赤いグラデーションで示しています。

縮尺と位置が少しズレてしまいますが、これに当時の古地図を重ねてみます。

当時の両国橋は、現在の位置より約20メートルほど下流に架かっていました。
架けられた年は2説あり、1659年(万治2年)か1661年(寛文元年)とされています。江戸幕府は防備の面から隅田川に架かる橋は、日光街道の千住大橋以外は認めてきませんでした。しかし1657年(明暦3年)江戸時代最大の火事である明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人以上の死傷者を出してしまいます。この事態を重く見た幕府は、ようやく重い腰を上げこの場所に橋を作ることを決断します。千住大橋から数えて約70年後に、隅田川にやっと二本目の橋、両国橋が架けられました。これは、幕府が江戸の街づくりを防御戦略から市民のための都市計画に大きく舵を切ったことになります。両国橋は、平和がもたらした産物ですね。古地図にやや太く、黄色で示してみました。

ここで広重が橋をワイドに描いた三連作から、両国橋に関わる浮世絵を連続してご覧ください。
最初この橋は、「大橋」と呼ばれていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架けられたときに、この「両国橋」が正式名称となりました。

両国橋ができてから、2つの大きな出来事が生まれます。
1つは、火事の延焼を防ぐために作られた橋の東西に出来た火除け地の賑わいです。特に西側は、両国広小路と呼ばれ、料理屋や待合が並び、葦簀張りの店や芝居、辻講釈、軽業などの見世物も多く出店、江戸一番の盛り場となっていきました。しかし、火事になったときに直ぐに延焼防止の打ち壊しが出来るように、造作の簡単なお店に限られました。

もう一つは、江戸市民が多く住む本所や深川の街の発展です。当時、北へアクセスするためのメインストリートは奥州街道で、日本橋を出て、浅草御門で神田川を渡り北へ向かいました。両国橋が出来てからは、ここで先に隅田川を歩いて渡り、相撲発祥の地、回向院を経て、房総方面と北へ向かうルートを、ここで選ぶことが出来ました。

1732年(享保17年)からは、川開きのための両国花火がはじまり、本所や深川の街はますます発展、両国橋は花火見物の場所としても有名になっていきます。この花火の様子は、この頃の浮世絵にもたくさん描かれ、人気となりました。

ここで、広重のライバル葛飾北斎が描いた、とてもクリアな両国橋もご覧ください。この画は、広重と逆方向の上流から両国橋と富士山を見た画です。

ここで、明治時代に出版された両国橋あたりの写真をご覧ください。両国橋は、明治になってからも、江戸と房総を結ぶ重要な橋として、レジャーの場所として発展していきます。しかし、木でできた両国橋は流出や焼落、破損により江戸時代から何度も架け替えられ、1875年(明治8年)には西洋風の長さ175mの巨大な木橋となりました。
1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、橋に降り掛かる花火の火の粉を避けようとした群衆に、一斉に押された欄干が10mにわたって崩落、死傷者数十名にもおよぶ大惨事が発生しました。

その結果、1904年(明治37年)に長さ164.5m、幅24.5mの3連アーチのある鉄橋として生まれ変わります。

さてここで、広重の画を詳しく見ていきましょう。
まず上部に現れる赤い霞雲に隠れた部分は、御竹蔵と呼ばれる幕府の施設です。災害などのための建築資材などを備蓄しておく場所で、左側の御蔵橋から舟が出入りできるようになっています。ここは現在の両国駅と蔵前国技館あたりになります。
幕府の施設を描くときには、出版元はお決まりのように霞雲を掛け、内容を隠して出版禁止にならないように配慮していました。

その右、横網町の川岸には、波よけのための百本杭と呼ばれる護岸施設が見えています。この後ろ側は、当時武家屋敷になっていました。

その下には左から右に大きく隅田川が流れ、川面には、納涼船、高瀬舟、猪牙舟、茶船、釣り船など、さまざまな数多く船舶が描かれています。そこにかかる両国橋には、たくさんのさまざまな職業の人々が渡っています。平穏な時間が流れているのが感じ取れますね。

一番下が大川端の両国広小路と呼ばれる盛り場です。葦簀張りの店舗が多いことがわかりますね。隅田川は、浅草あたりを浅草川、あるいは宮戸川と呼ばれ、両国橋から新大橋までを概ね大川と呼び、その西岸を大川端と呼んでいました。

実際にこの場所に行ってみました。
明治の頃から連続して同じあたりから撮られた写真をご覧ください。アングルが少し低いのですが、これがだいたい広重が描いた場所になります。現在の両国橋は、アーチがなく、写真で見えているのは、JRの鉄橋のアーチが重なって見えています。

広重が描いたであろう視点にあたる歩道橋から、カメラを左側に360度、回してみます。

現在の写真を広重の画にはめ込んでみました。全く雰囲気が違う写真になっていますね。

さらにApplemapからのストリートビューを使って雰囲気を出そうとしましたが、これも酷い構成になってしまいました。ごめんなさい。

もともとこの両国橋は、江戸時代に火災から人々を救うために架けられたものでした。その後、明治時代にも事故が起きてたくさんの人が亡くなり、鉄の橋に架け替えられました。しかし、広重がこの画を描いてから87年後の昭和の時代、その鉄の橋だけを残して、街は焼け野原になってしまいました。

この写真は、アメリカ軍が撮影した東京大空襲直後の写真です。右上に骨のようになっている橋が両国橋で、その上が新大橋です。広重が描いた平和な世の中から、どこで間違えて、こんな方向に行ってしまったのでしょうか。

私たちは、広重の描いた穏やかな両国橋を見ながら、あらためて考え直す必要がありそうですね。

060
浅草川大川端宮戸川
=あさくさがわおおかわばたみやとがわ
Asakusagawa River,
Okawabata Riverbank
and Miyatogawa River.

060

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
060の「浅草川大川端宮戸川」は、当時の両国橋から隅田川の上流方向、北北東を見たを見た画です。

まず最初にApplemapで、広重の視点をご確認ください。

これに当時の地図をかぶせてみました。両国橋は現在の位置から20mほど下流に架かっていました。両国橋の西詰めの北には、神田川を渡る柳橋があり、そこを渡った先には、万八楼という有名な料亭がありました。広重の画の左下に描かれている建物が万八楼です。

もう少し広域の古地図をご覧ください。それに広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。当時は、両国橋から、吾妻橋まで見渡せたようですね。
当時荒川は、千住大橋から下流を隅田川と呼んでいました。さらに浅草あたりでは、浅草川、あるいは、浅草寺本尊の観音像が出現したことで、宮戸川とも呼ばれていました。ここから先は、大川と呼ばれ、両国橋あたりから下流の霊岸島あたりまでの西岸を、大川端と呼んでいました。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
今回の主役は、大山参りの一行です。大山とは、神奈川丹沢山系の主峰で、ここに良辧「ろうべん」という人が開いた、石尊大権現を祀る石尊社が建てられ、山腹には不動明王を祀る不動堂、そしてその周囲には十二の宿坊が置かれました。
大山はもともとは、雨降り山とも呼ばれる農民信仰の山でしたが、江戸中期頃から、博打と商売に御利益がある、ということで、富士講と並んで、大山講を結んで参詣に訪れることが盛んになっていきました。富士講と比べると、大山は距離的にもお手軽だったことが、ブームのきっかけでした。

広重の画の左側に大きく描かれているのは、梵天と呼ばれるもので、大山詣でを終えると各町内の家々に配られました。両国橋の東詰には、水垢離場が設けられ、ここで身を清めたあと、梵天と奉納するための木太刀を携え、先達役が山伏の格好で法螺を吹き、いよいよ出発となります。一同は声を揃えて、「懺悔、懺悔、六根清浄」とくり返しながら進んでいきます。広重の画では、右側の一行は船で、左下の一行は、両国橋を歩いて渡っていますね。

当時流行していた大山詣での痕跡を調べてみました。これが広重の描いた東海道五十三次の戸塚です。左側、「こめや」の看板の中に大山講中の札が掛かっているというのは、ここが大山講の定宿だったことを示しています。

同じ五十三次の藤沢では、遊行寺の坂を下りてきた人の中に木太刀を持って、同じ出で立ちで歩く一行が描かれています。

五十三次名所図會の平塚では、馬入川の先に大きく大山が描かれています。左側の画は、「道中風俗大山参りの人」と題して、木太刀を持った人、神酒和久と呼ばれる御神酒を奉納する御神輿のようなものをかついだ人、それを勧誘する宿屋の客引きなどが描かれています。上部には、程ヶ谷から大山までの経路も描かれていますね。

他に広重は、右側の画で大山道中の見所を5ヶ所、まとめて一枚の画にしています。子安のお土産まで描いてあるのが面白いですね。
左側の画は、ゴールとなる「ろうべんの瀧」を葛飾北斎がダイナミックに描いています。右下には瀧の坊と書かれた宿坊も描かれています。

これが、相模原あたりから見た現在の大山の姿です。

写真を調べていたら、広重の視点とほぼ同じアングルのものを見つけました。明治期に撮られたもので、雪景色ではありますが、左側の建物は、広重の描いた万八楼です。この左側が柳橋になります。

その万八楼から川向こうまでの景色を、広重が描いていました。

おそらく万八楼から、神田川の河口越しに両国橋を撮った写真がこれです。

実際に広重の視点であろう場所から撮った写真がこれです。両国橋と薄緑のアーチは、JRの鉄道橋です。吾妻橋はもちろん見えませんし、筑波山もこの高さでは見えません。右端にある首都高速の先の金色の建物が、吾妻橋東詰にある墨田区役所です。

広重の画に今の写真をはめ込んでみました。いかがでしょうか。

調べてみると、広重がこの画を描く前までは、大山詣は一時下火になっていました。僧侶や修験者などの武力とあまりの華美な講の広がりに幕府が警戒したりしたことが原因で、天保13年(1842年)画にあった神酒和久も禁止になってしまいます。しかし、安政四年(1857年)に「大山道中膝栗毛」という戯作本がでるほど流行だし、画の中にあるように江戸の職人である、大工、鳶、左官たちを中心に挙って大山に向かいました。
広重は、地震の後にすっかり元気を取り戻した、江戸の街と庶民を描いたことになりますね。

なお、古典落語「大山参り」も、とても面白いので、ぜひ聞いてみてください。

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