
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
031の吾嬬の森連理の梓は、亀戸梅屋敷の北東、北十間川の北にあった、吾嬬権現社と、その参道を描いたものです。この社にあった樟は、地上1.2mぐらいのところから幹が二股に分かれ、連理の樟とか相生の樟と呼ばれこの社の御神木となっていました。
今回はまず、日本書紀を紐解いてみます。第十二代景行天皇は、息子のヲウスに九州を支配している西方の蛮族、クマソタケル兄弟を討ち取ってくるように命じます。宴の日、ヲウスは長い髪を下ろし、叔母からもらった着物を着て女装、見事に警備の厳しいクマソタケルの屋敷に忍び込み討ち取ることに成功します。ヲウスは、絶命間際のクマソタケルの兄にその勇猛さを讃えられ、ヤマトタケルの名前をもらいます。以後、ヲウスは日本武尊(ヤマトタケル)と名乗るようになりました。
西方の蛮族討伐から帰るとすぐに、父の景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じます。日本武尊は再び叔母を訪ね、伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣と袋とを与えられます。相模の国で、国造(みやつこ)に荒ぶる神がいると欺かれた日本武尊は、野中で火攻めに遭います。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしました。それで、このあたりが焼津(やきづ=やいづ)と名付けられました。
相模から上総に渡る際、今の浦賀水道あたりで海の神が波を起こして、日本武尊の船は進退窮まります。后の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神(わだつみ)の怒りを解くため、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」そう言って、幾重もの畳を波の上に引いて海に入りました。すると、波は自ずから静かになりました。ここを後の人は、馳水(走水=はしりみず)と呼ぶようになりました。
七日後、弟橘媛(おとたちばなひめ)の着ていた形見の着物が、吾嬬の森の近くに漂着したので、森に壇を築き瑞籬(みずがき)を巡らせて、廟を作らせました。
日本武尊(ヤマトタケル)は、ここで弟橘媛(おとたちばなひめ)の霊を鎮めてから食事をして、その時に使った樟の箸一膳を廟の東に挿しました。後になって、この箸に枝葉が出てきてくっつき、一根二幹の大きな樟になりました。この木は、樟の葉の色が変わらないことから、男女の堅い契りの象徴とされ、これを連理と呼びました。現在でも、二代目と言われている樟が根だけ枯れた状態で吾嬬神社の境内に残されています。また、病が流行ったとき、御神木の葉をもって、護符として難病奇病を退けたとあります。広重は、タイトルを連理の梓としていますが、樟と梓を書き違えたのではないか、と言われていますが、よく見ると樟に見えないわけでもありません。
他にも現在、袖ケ浦市と習志野市に袖ケ浦という地名がありますが、これは弟橘媛の着物の袖が流れ着いたという伝説から名付けられた地名だといわれています。また、この吾嬬神社のある住所の墨田区立花は、弟橘媛(おとたちばなひめ)から来ているものです。
やがて、蝦夷(えみし)を征伐した日本武尊は、帰路で足柄の頂上まで来たときに弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出し、「吾妻はや」と嘆いたと言われています。それ以後、足柄山から東を「あづま」と呼ぶようになったのだそうです。
ほぼ神話に近い話しですから、辻褄が合わない部分も多々あるのですが、なかなか面白いですね。
それでは画を上から詳しく見ていきましょう。
朝焼けの中に都鳥らしきものが飛んでいます。今のゆりかもめですね。ずっと遠くまで濃い緑の森が続いているのがわかります。黒いところは畑ではないでしょうか。
中段を横切る川は中川、その左が吾嬬権現社、今の吾嬬神社です。参道に並んでいる幟は、願掛けで願が叶ったときにお礼に立てる幟です。二股に分かれた樟も小さいですが、ちゃんと描かれていますね。
下の方では、参道の土手を歩く江戸市民と桜、緑の土手と土手道の黄色のコントラストが鮮やかです。手前の北十間川には、船頭に操られた観光船と、釣り船がすれ違っています。北十間川の紺色のグラデーションが川の深さと流れを表現していますね。
この場所を古地図で探してみました。それに広重の視点を赤いグラデーションで表しています。さらにかなりゆがんではいるのですが、現在のApplemapを強引に重ねてみました。今の福神橋上空から見た景色のようです。
実際にこの場所に行ってみました。
ほぼこのあたりの上空から見た景色ではないかと思われます。北十間川は、しっかりコンクリートで護岸され、遊歩道までできています。土手道と周辺には、民家がびっしりと建ち並んでいます。この左向かいは、花王の東京事業所になっています。
吾妻神社にも行ってみましたが、随分とこぢんまりしています。画に描かれている敷地の広さと比べると、随分と狭くなっていました。それに周りにはびっしりと民家が神社を取り囲むように建ち並んでいます。社殿は、周囲と比べると少し高くなっていますね。
この写真を広重の画にはめ込んでみました。
視点がもっと高いようなので、今回もApplemapの画像を少し加工して、はめ込んでみました。いかがでしょうか?神話の世界から生まれた名所も、人間の営みにすっかり追いやられてしまって、便利さとコンクリートで、すっかり様変わりしてしまいました。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
032の柳しまは、横十間川と北十間川が交わる場所にあった、柳島妙見堂あたりを描いたものです。
この柳島妙見堂は、法性寺(ほっしょうじ)境内にあるお堂のことで、法性寺は、日蓮宗の寺院として明応元年(1492年)に、法性房日遄(ほっしょうぼうにっせん)上人によって開山されました。妙見堂には北極星を神格化した妙見大菩薩が祀られていて、国土を守り、災厄を除き、長寿をもたらす菩薩として、江戸庶民の人気のお寺となっていました。
また、法性寺の北側には料理屋がたち並び、このあたりは大変賑わったと言われています。とくに会席料理茶屋「橋本」は、高級料亭として知られ「柳島骨ものこさぬ若鮎橋本」と本に記され、広重が、天保の頃に描いた東都高名会席尽の柳島之図で、この橋本を描いています。
この画では、柳島橋の上にはたくさんの人々が描かれ、その向こうには、法性寺も描かれています。右の建物が橋本の橋月堂で、手前左の女性が花餅を背負っていることろを見ると小正月のようです。扇の中の狂句は「橋本まで御紋橋本の七つ梅」。御紋とは妙見の北斗七星、七つ梅とは料亭で供される橋本の酒です。とても楽しそうな江戸市民の日常が描かれています。
この橋本は、相当有名だったと見えて広重は、他にも、ここを描いています。東都三十六景では、柳島橋から見た景色で、左の赤い塀が法性寺、右側の梅の木が植わっている庭を持つ建物が橋本です。男が芸者を連れて、柳島橋を渡ろうとしていますが、これも花餅を背負っていることろを見ると小正月のようです。橋の上の、股引に頭巾という出で立ちの侍が、妙におかしいですね。
江戸名勝図絵は、法性寺そのものを描いていて、解説を読むと、本尊の由来は定かではないが、とても霊験あらたかなところで参詣の人が絶えない。境内には大きな松があり、本尊妙見(北斗七星)が初めて、その樹上に降臨し、星降(ほしくだ)り松とか千年松、影向松(ようごうまつ)とも呼ばれている、とあります。画の左の大きな松の木がそれのようです。ここでも侍のお付きの人が花餅を持っていますね。よく見ると鳥居や灯籠、狛犬手水舎など事細かに描かれていますね。
さらに広重は、「絵本江戸土産」で北十間川方向から描いています。解説には「本所亀戸の西北に位置して、北辰妙見大菩薩の霊験が特に新しく、毎月一日と十五日の縁日には人もたくさん訪れて、とても貴い神様です。」現代語訳にするとこんなことが書いてあります。真ん中奥に見えているのが、亀戸村だと思われます。
斎藤月岑(さいとうげっしん)の出版した江戸名所図会では、かなり広角で見た妙見堂が描かれています。両十間川はもちろん、妙見堂、法性寺、それに影向松(ようごうまつ)、遠くの秩父の山々まで描かれています。まあ、話半分としても、かなり広い敷地だったことが覗えますね。
最後に広重の同門、歌川芳員(うたがわよしかず)の描いた東都名所・柳島妙見堂をご覧ください。これは、北十間川の東側から描いた画です。その土手道や柳島橋、そして船の上にも、たくさんの江戸庶民が描かれています。どうでしょう?これだけ見てくると、何となく、当時の柳橋に行ってみた気になりませんか?
今では、この神奈川沖浪裏で、世界的にも知られている葛飾北斎は、生涯に名前を変えること30回、引っ越すこと93回、奇行の天才絵師でした。彼が葛飾の本所の生まれであったため「葛飾北斎」と改名したのは柳島妙見堂の影響だと言われています。
寺伝によれば、寛政6年(1794年)に勝川春朗を名乗っていた北斎は、勝川派を破門されたため、生活の困窮と画業の成功を願い、当時「開運の妙見様」で有名だった柳嶋妙見堂に二十一日間通いました。その満願の日の帰路、突如雷に打たれて失神。再び眼を開いた時から運が開け、売れっ子絵師となっていきました。その後も度々参詣に訪れ、妙見様の絵もたくさん残した、と伝えられていいます。一説によれば「葛飾北斎辰政(ほくさいときまさ)」の名前は妙見菩薩の別名、北辰菩薩にあやかったものと言われています。歌川広重は、ちょうどこの北斎が売れ始めた時期に生まれています。
また、ここを有名にしたのが、落語でも古典になっている、中村仲蔵です。「稲荷町」と呼ばれる、見習いのような地位からはじめたら、絶対になれないという最高位の「名題」まで上り詰めた歌舞伎俳優の出世話です。
初代中村仲蔵が仮名手本忠臣蔵の、五段目の斧定九郎役を恩人の団十郎からもらったとき、それまでこの役は端役のイメージだったので、忸怩たる思いでいました。それから仲蔵は、奥さんの助言もあり柳島の妙見様に日参し、新たな役の工夫を授かるよう神頼みに行きますが、何もできずに時だけが過ぎていきます。ついに諦めたその満願の日、帰り道で突然の夕立に遭い、蕎麦屋へと駆け込んで雨宿りをしています。するとそこに一人の浪人が店に飛び込んできます。見れば良い顔立ちの貧乏旗本で、月代(さかやき)の雨をはじき飛ばしながら、黒羽二重の袷の裏をはぎ取った着物に茶の小倉織りの帯。さらに破れた蛇の目傘に、朱色の鞘に収めた刀を差す様などを見て、仲蔵はこれだと見惚れてしまいます。これぞ、妙見様のご利益だとして出会った浪人旗本の風体を元に役作りを始め、ただの山賊ではない、格好のいい斧定九郎を演じ、最終的に、江戸市民から大絶賛を浴びます。
この話は講談にもなっており、今売り出し中の六代目神田伯山が得意としています。
こんな理由もあってか、葛飾北斎、歌川広重・豊国・中村仲蔵・市川左団次・六代目菊五郎・六世桂文治など多くの名優や噺家、画伯などが、こぞってここに通った、と伝えられています。今でも境内には、近松門左衛門の碑など、たくさんの看板や碑が立っています。
それでは、ここはどこなのか古地図を探し、広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。さらに、これに現代の地図を重ねてみましたが、あまりに位置がずれてしまうので、視点を移動しました。ご了承ください。なんだかお茶目な地図になってしまい、ごめんなさい。
それでは、広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず最初に見える青空ぼかしの下に見えるのは、秩父連山です。一部の解説書では、筑波山と書いているようですが、方向的に北西方向ですから、秩父方面ですね。霞雲の下に見えているのは、向島か鐘ヶ淵の村と畑ですね。
中段の横に流れるのは北十間川、手前には、明かりの点いた料亭橋本。その右が柳島橋、橋本の左、緑の木々と赤い塀に囲まれた建物が法性寺になります。北十間川には、船も浮かんでいて、その土手には人々の往来も確認できます。
下段では、横十間川に浮かぶ船を2艘を大きく描いています。庶民がよく利用した船着き場の、川から上がるための階段もあります。全体のアングルも川がちょうどZのかたちを描くように描かれていますね。
実際にこの場所に行ってみました。この写真がだいたいの位置を合わせて撮ったものです。真ん中あたりの木立に囲まれているのが、法性寺です。右の水色の橋が今の柳島橋、左の薄紫と白のビルは、墨田区の清掃事務所と老人福祉施設になっています。その向こうには、スカイツリーがちょっと見えています。
Wikipediaによれば、昭和40年から48年にかけて、東京都は下町地区の大地震や火災時の避難場所を作り始め、これに伴って木造狭小住宅が密集していたこのあたりにも大規模な立ち退きが持ち上がりました。当時、地元の町内会長を務めていた法性寺の住職が、本堂・客殿・庫裡等の主要建築物を取り壊した上で鉄筋コンクリート製の諸堂及びマンションを建築し、対象の地域住民の為に広く門戸を解放したと言います。後の茶色い建物が、そのマンションです。確認はできませんが、左の墨田区の施設ももとは、法性寺の敷地だったのかも知れませんねえ。
これが今の法性寺を対岸から見た写真です。木立に囲まれ、土手の道と赤い塀は既にありません。敷地も随分と小さくなっています。
法性寺を浅草通り、北十間川方面から見た、正面の写真です。鉄筋コンクリート造りになっているのがわかります。
中に入ってみると随分とモダンな現代風のお寺さんに生まれ変わっていました。
実際に広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。これはこれで面白いのですが、ちょっとアングルが低いですね。
そこで、Applemapのストリートビューに、ちょっと霞んだ秩父連山の写真を合成して、雰囲気だけ合わせてみました。いかがでしょうか?
今はもうありませんが、広重の画で見ていただいた、高級料亭橋本は若鮎が名物でした。とりもなおさず、この十間川にも鮎が遡ってきていたということなのでしょうねえ。今はコンクリートの三面張りになっていますが。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
033の四ツ木通用水引きふねは、現在の四ツ木から宝町あたりにかけての曳舟川通りの上空から俯瞰した景色になっています。広重の画では、川はくねっていますが、当時からまっすぐでしたので、絵の構図から広重が脚色したものだと思われます。
まず最初に国土地理院の地図をご覧ください。そこに実際に、広重が描いた曳舟川を青い線で表しました。それに広重の視点であろう、地点に赤いグラデーションを入れてみました。これでだいたいの位置関係がおわかりになるはずです。
この地図に明治初期、1867年頃の地図をかぶせてみます。この段階では、荒川は隅田川で、現在の整備された荒川はまだ存在していません。
これに現在の高低差のわかる地図をかぶせてみます。曳舟川もわかりやすく黄色くしています。この地図で、青くなっている地域は土地の低いところです。特に濃い青色はいわゆるゼロメートル地帯です。
徳川家康が、江戸に入城してから一番の問題は、水でした。洪水でしばしば町が水没してしまうことと、飲み水を自給自足できないことでした。
もう少し広域で高低差のわかる地図を用意しました。この地図で青くなっている部分はもともと海だったところで、濃い青の部分では井戸を掘っても、ほぼ塩が混じる水でした。そこで、玉川上水などのように、遠くから水を引いて江戸の街に供給する必要がありました。1657年、明暦の大火の後に、埼玉県の越谷市から、北葛飾の亀有まで水路を作りました。そこから、四ツ木、押上を経て本所まで水を持ってきたのが、葛西上水、あるいは亀有上水と呼ばれました。
1772年(亨保七年)上水は、低い土地だったため、塩が混じったりして飲むには不向きになって廃止、川は農業用水と舟での運搬経路に生まれ変わりました。そこで、この頃からあまりに水流がゆっくりだったため、曳き船が出現し、上水は曳舟川と呼ばれるようになります。広重も絵本江戸土産七編で解説を添えて描いています。
四ツ木通の曳舟道の堀割は8kmほどあり、新宿の川で合流している。ここを通る旅人は舟に乗っていく。もともと幅の狭い川なので、舟に縄をかけ、陸からこれを引いていくので、曳き舟通と呼ぶようになった。棹や艪でいく船より、その風景はなかなか風雅だ。
解説を現代訳するとこんな感じです。
船旅は亀有で上陸した後、千住から来る本道と合流し、中川を渡って水戸佐倉街道となります。水戸方面や柴又帝釈天にいく観光客が挙って利用したと伝えられています。舟を繋ぐ綱は、舳先より少し後ろ側、凧でいう、糸目の部分の柱に掛けて引くと、岸にも寄らず離れずのうまいバランスで、引くことができたのだそうです。当時、この曳き舟を四ツ木通用水曳き舟と呼び、今の向島から亀有まで14艘ほど往復営業していたそうです。
画を上から詳しく見ていきましょう。赤い霞雲の向こうに見えているのは筑波山です。一部の解説では、山の形から日光連山ではないと言われていますが、方向的には筑波山です。その下に小さな橋が架かっていますが、これが水戸街道で、その手前、舟が何艘か舫っているところが曳き舟の終点で、民家や茶屋らしきものも描かれています。
中程では、川が大きくカーブしており、天秤棒の商売人や旅人に混じって、船を引いている人が三人が描かれています。舟を引くにはそれほどの力も必要なかったので、当時は近所の農家の老女などもこの舟の引き手になっていたそうです。
下段では、舟上の乗客もしっかり描かれ、綱を架ける舟の柱の位置も確認できますね。岸の土手には武家ふうの頭巾をかぶった人や、どこかに商いにいくのか、行李ををかついだ人も描かれています。また対岸を見ると、土手が木の杭でしっかりと護岸されているのも確認できます。
さて、実際にこの場所に行ってみましたが、まず、GoogleEarthのツアーをご覧ください。スタートは南側の水戸街道との分かれ道からです。
平和通りとの交差点です。右に行くと本田警察署です。上から見てもグリーンベルトがよく分かりますね。
京成お花茶屋駅です。
亀有一丁目の六差路です。
ここが終点で、右上青い屋根がJR亀有駅です。
大正八年に刊行された「今昔対照江戸百景」という本の中に出てくる、その当時の曳舟川の様子です。曳舟川は他の都市河川と同様に、高度成長期に生活雑排水やメッキ工場からの排水などが流れ込み、瀕死の状態となっていきました。現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路はありません。しかし、広重の視点である葛飾区の区間は、曳舟川親水公園や四つ木めだかの小道という名前になって、市民憩いの公園になっています。
GoogleEarthのツアーと同じ順番で、実際の元曳舟川を撮った写真を、順番にご覧ください。まず最初が、水戸街道から別れて、最初の信号の手前です。緑のパーゴラが設えてあり、その先を横切る道路は平和通りです。
水辺のイメージでしょうか?立派な木道も作られています。そして別アングルです。
今は水が流れていませんが、せせらぎのイメージで作られているのでしょうか?夏になると子供たちが集まりそうですね。
ここは実際の、昔の曳舟川のイメージで作られたのかも知れません。左の小川から見るとこんな感じです。
道は狭いですが、公園の散歩道ふうです。
この枯山水ふうの道には、水は流れていませんが、夏になれば石の間にせせらぎができるのでしょう。
岸にも草が生い茂る小川のイメージですね。
お城のお堀のイメージで作られたのでしょうか?
街路樹、散歩道、小さな小川と四阿です。
今回も、Applemapの写真と実際にスカイツリーから見た筑波山を合成して、広重の画にはめ込んでみました。実際には絶対にこんなふうには見えませんが、今の曳舟川のイメージとして、大きな気持ちでご覧ください。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
034の真乳山山谷堀夜景は、向島の隅田川の堤から、山谷堀今戸橋方面を見た景色の夜景になっています。ほぼ、三囲神社の鳥居前あたりからの景色だろうと言われています。
今回はまず最初に天保の頃の地図をご覧ください。これは北を上にして、異なる二つの天保古地図を連結しました。これに広重の視点であろう場所に、赤いグラデーションを入れてみました。
この視点の右側には、三囲神社があります。これが今の三囲神社の写真です。水害の関係で、移転をくり返し、ちょっと低い場所に落ちついたので、隅田川の対岸から見ると鳥居が上の一部しか見えないことで有名になり、たくさんの浮世絵に描かれました。
松阪の豪商三井家が越後屋として江戸に進出したときに、三囲の文字が、三井を守るということで、守護社として決めたことにより、今も三井グループと強い縁があり、本店以外の三越各店の屋上には、この神社が分祀されているそうです。
江戸高名会亭尽では、三囲の景で、広重がこの三囲神社を描いています。江戸庶民が楽しそうに談笑しています。この三囲参詣には、山谷堀入口、真乳山下と墨堤を結ぶ竹屋の渡しを利用していました。これは山谷堀側にある掛け茶屋「竹屋」に由来しています。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判だったそうです。
広重の視点の先には、山谷堀があり、そこには今戸橋がかっていました。当時、新吉原に行くには、ここまで猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小舟に乗ってきて、掘を遡っていくのですが、川幅が1m深さは80センチほどしかないため、大抵はこの橋の手前で陸に上がり、堤を歩いて吉原大門に向かっていました。
この写真が現在の、北側から見た今戸橋の名残です。橋そのものはもうありません。河口付近は広い公園になっています。正面の白い建造物が、山谷堀が隅田川と合流するゲートです。山谷堀そのものは今、埋め立てられ遊歩道になり、吉原大門の近所まで続いています。
広重は、絵本江戸土産でも、この場所を描いています。隅田川の葦の向こうに今戸橋があり、両側に料亭、奥にはこんもりした待乳山聖天が描かれています。吉原の影響で、対岸も含めたこのあたりの料亭は大変繁盛していたそうです。
視点側の三囲神社脇には料亭平石(ひらいわ)、今戸橋の北側には料亭玉床(たまじょう)がありました。広重は江戸高名会亭尽でこの玉庄を描いています。しかし、玉床は安政大地震の際の火災で焼失、その後有田楼という店に変わっていたので、江戸百景で描かれた、店の明かりは有田楼ということになりますね。
今戸橋の南西には待乳山聖天(まつちやましょうでん)があります。この神様は、江戸庶民から親しみを持って聖天様(しょうでんさま)と呼ばれていましたが、もともとヒンズー教ガネーシャの流れを組む神様が、仏教に取り入れられて歓喜天となり、商売繁盛、夫婦和合に御利益があるとされていました。もともとこの小高い丘は、千葉の海、山、筑波山、日光連山まで見通せる観光地でしたが、江戸の町を水害から守るために築かれた日本堤建設のために土が使われ、随分と低くなってしまったようです。
昔は、このあたりはほとんど泥の海で、ここだけ本当の土があったため、真土山と呼ばれたと言われています。それが真の乳の山となり、現在は、待つ乳の山で、待乳山と書くようになりました。
最後にこの天保の古地図に、現代のApplemapをかぶせてみます。昔の地図と比べると、位置がかなりズレているので、視点とその現地だけご参照ください。
それでは広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず現れるのが、黒い夜のとばりのグラデーションと葉桜になった櫻の木です。夜空の星も白く描かれています。描かれている芸者は、いわゆる美人顔ではありませんね。闇夜に版木の板目が現れているのが、味を出していますね。
この芸者さんは、広重のご贔屓で、「小万(こまん)」という名前の女性ではないかと言われています。対岸のこんもりした山が、待乳山で、山谷堀の上に黒く描かれているのが今戸橋、両側には、料亭の明かりが煌々と点いている表現になっています。当時の照明は蝋燭か行灯だけでしたから、夜でも明るいというのは、繁盛しているという象徴でした。またその知名度は、当時「堀」といえば山谷堀、というぐらい江戸庶民には知られた存在でした。
隅田川の水面には夜空の星が映っているところまで描かれ、画の左横には、先行するお付きの人のちょうちんも描かれ、画の全体に広がりを持たせています。この芸者さん、素足で下駄を履いているので、辰巳芸者のような粋で気っぷのいい女性ということを表現しています。褄を持ち上げて見せている赤い襦袢が、その広重の気持ちを表しているようですね。
さて、実際この場所に行ってみました。
手前が隅田川で、正面の白い壁の左、ちょっと黒くなっているところが山谷堀の入口です。その後が公園で、その先が待乳山聖天になります。こうして見ると、たいして高い山ではなくなっているのがわかります。
少し寄ってみると山谷堀の入口がよく分かりますね。
左に目を向けると吾妻橋で、左岸のビルは墨田区役所とアサヒビール本社です。
桜の頃に対岸から視点の三囲神社方面を見ると、今でも桜堤になっているのがよく分かります。
夜に山谷堀方面を見ると、こんな感じになります。真っ暗ですが、さすが現代は街灯などの明かりが多く、明る過ぎますね。
これを実際に、広重の画にはめ込んでみました。真っ暗闇だと画にもならないので、少しだけ明るくしてみました。
当時は、明るさが、繁栄の象徴だということでしたが、さて、現在もそうなのでしょうか?24時間稼働している社会で、むしろその明るさが、現代人を闇に引きずり込んでいる気がしてきませんか。繁栄の神様、聖天様にその実際のところを聞いてみたいものですね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
035の隅田川水神の森真崎は、現在の首都高速堤通の出口あたりを、隅田川の下流から見た景色です。解説書によっては、堤通側から、現在の真崎、石浜神社方面を見た景色ではないかという意見もありますが、私は現地を見てみて、地形と桜と隅田川神社の場所を考えると、現在の白鬚公園あたりからほぼ北を見た画ではないかと思っています。
まず、現代の国土地理院の地図から場所をご確認ください。青い丸と十字の部分が、画に描かれている隅田川神社です。このあたりは河川改修や道路改修が激しく、画が描かれた頃と大きく様変わりしており、実際には隅田川神社自体も100mほど移動しています。
つぎに、これに現在の空撮写真を重ねてみます。川の状態がよりはっきりわかりますね。脇を流れるのは、隅田川、大きくしっかり護岸された太い川が、現在の荒川です。
これに高低差のわかる地図をかぶせてみました。青い部分が低い土地です。この隅田川神社のある場所は、周辺よりやや高くなっており、水神の岡とか浮州とか呼ばれ、鬱蒼とした森になっていて、周囲が洪水になってもここだけ水没しない場所でした。そこで、水神社と呼ばれ、近所の村や船頭達から、水難、火除けの神様として、厚い信仰を得て、隅田川の総鎮守となっていました。
次に、この画が描かれた数年後の明治初期の詳しい地図をかぶせてみました。地図右側で、蛇のようにくねっている川は、旧中川です。隅田川神社のあたりから東の旧墨田村あたりは、西から来る大きな隅田川のカーブの部分にあたり、さらに北側からは綾瀬川が流れ込み、流れが乱れ、よく水が溢れたであろうという想像がつきます。
この地図をもっと大きくしました。左側に上下に走るのは日光街道で、それに沿っている市街地は千住の宿場です。
慶長の頃(1596〜1615年)幕府は向島や本所を洪水から守るため、隅田川を改修し、隅田川大堤を造りました。この地図だと、隅田川神社だけを川沿いに残して、隅田村はまとめて、東側、大堤の外側に移転させられているのがわかります。地図に大堤をピンクの線で示しています。
この大改修の後に、八代将軍吉宗は、護岸のために墨田村と下流の寺島村の間の堤に櫻の木を植えさせました。やがてここも品川の御殿山、王子の飛鳥山と並ぶ、桜の名所となりました。広重の画は、この大堤の八重桜越しに隅田川を見た画になっています。
天保の頃の古地図をご覧ください。この地図では既に、大堤が桜の名所となり、墨田村から寺島村の、桜餅で有名な長命寺あたりまで桜並木が続いているのがわかります。
さて、ここで、この桜の名所が生まれたきっかけを探ってみました。江戸時代、徳川家康が江戸に入城してから、良くも悪くも、この広大な湿地帯の開発が問題でした。まずこの地図ご覧ください。当時の川の状態をピンクの線で表してみました。
西から、入間川、荒川、利根川がまとめて江戸湾に流れ込んでいました。つまり、集水域として、秩父連山、高崎から先の草津、白根、赤城、三国峠にいたる地域に降った雨はすべて江戸湾に注いでいました。これでは、すぐに洪水が発生してしまうのがわかりますね。そこで、1554年頃から、幕府により利根川の東遷事業というものが始まります。
これは簡単に解説すると、利根川の水を徐々に移し替え、北から来る鬼怒川水系の川に流してしまおうという計画です。結果的に利根川の水は、旧中川、中川、江戸川と徐々に移し替えられ、メインの流れは今の利根川、つまり、銚子に流れ込むようになりました。現在の川の流れを赤い線で示してみました。この東遷事業は、江戸を守る洪水調節はもちろんですが、新田開発と舟による輸送体系の確立という面も持ち合わせていました。
これにより、利根川の上流と下流から江戸の隅々にまで、舟による物資の輸送システムが確立されました。黒潮に乗って紀州からやって来た醤油文化が、銚子で花開き、利根川を上って、Uターンするように江戸に向かい、その途中の野田でも醤油文化を根付かせました。この、ヤマサ醤油とキッコーマン醤油の存在は、東遷事業があったからに他なりません。その発端となった大堤の桜が、この広重の画のテーマとなりました。
それでは、広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず最初に現れるのが、ふっくらと描かれた八重桜です。既に若葉も出ており、蕾はかなり赤く描かれています。この桜は、大堤が八重桜の名所であるということを象徴的に描いています。
中段には、霞雲の先に筑波山、その下には左の千住方向からカーブして流れ込む隅田川が描かれ、白帆の舟二艘と秩父方面から来たのでしょうか、木材を運ぶ筏が描かれています。右側が、綾瀬川との合流地点である鐘ヶ淵になり、その先の集落が柳原です。カーブする隅田川の内側が、地図にあった通り、葦原になっているのもよく分かりますね。
もともと、このあたりは隅田川の終点で、ここから海が始まったので、「江の口」、すなわち「江戸」の語源になったともいわれています。また、舟で遡る船頭にとっては、鬱蒼とした森と神社は、この先の難所、鐘ヶ淵が近いことを知らせる、目印にもなっていました。
下段右側には、隅田川神社が描かれ、鳥居と灯籠も見ることができます。川には、上流に向かう小舟が一艘描かれていますが、隅田川神社の裏側が、入江のようになっており、そこに料亭などがあったので、そこに向かっているものと思われます。手前の道には、旅人が描かれていますが、奥州街道からこの先の橋場の渡しに向かっているところですね。
さて、実際にこの場所に行ってみました。
これが現在の姿です。本来は、もう少し東側なのですが、そうなると高速の影しか見えないので、これがぎりぎり対岸まで拝める地点です。見えている橋は、水神橋で、左側が南千住の汐入、右側が首都高速6号線の堤通の出入口です。
これが下流側を見た景色です。ガスタンクの手前が石浜神社で、この一帯が真崎と呼ばれていたところで、その先、左奥が橋場の渡しになります。
これが現在の隅田川神社です。1946年ぐらいまでは、森も丘も残っていたのですが、その後の河川改修と道路整備などで、場所も100メートルほど移動し、鳥居の方向も違ってしまいました。後に見えているのが、首都高速6号線です。
さて実際に広重の画に現在の写真をはめ込んでみました。いかがでしょうか?
アングルが低いので、Applemapとスカイツリーから見た筑波山を合成してはめ込んでみました。実際には、この方向には、筑波山は見えないのですが、ご理解ください。
名所江戸百景の中でも、この画の視点の特定はなかなか難しいものがありました。どの方向からも隅田川と一緒に見えないはずの筑波山が描かれていること、隅田川神社が移動していること、それに、タイトルにある「真崎」をどう見るかです。真崎から見ているのか、真崎を見ているのか、あるいは大雑把に真崎あたりと言っているのかです。
いずれにしても、大堤も八重桜もなくなり、今は見る影もなくなってしまっています。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
036の真崎邊より水神の森内川関屋の里を見る圖は、真崎稲荷の境内にあった料亭の二階の窓から、現在の水神橋の東詰あたりを見た画になっています。
まず最初に現在の位置関係を見るために国土地理院の地図をご覧ください。広重の視点を赤いグラデーションで表しました。
これに明治初期の地図をかぶせてみました。だいたいの位置関係がおわかりいただけましたでしょうか?
次に今回は「真崎邊より水神の森内川関屋の里を見る圖」という、このシリーズいち長いタイトルの解説から始めます。これが先ほどの地図の拡大版です。
「真崎邊」というのは、現在の白鬚橋西詰の北側にあった真崎稲荷神社辺りという意味です。「水神の森」の水神は、現在の隅田川神社のことで、当時その周りがこんもりとした森になっていました。「内川」は、その水神の森の北側が入江になっており、この入江を内川と呼んでいました。奥には芸能人に愛された木母寺があって、その周りには料亭が建ち並んでいました。「関屋の里」は、その先にちょうど綾瀬川の流れ込みがあるあたり一帯を指し、1189年(文治5年)、源頼朝の命を受け、奥州方面防衛のための関所が設置されたことから「関屋の里」と呼ばれるようになりました。
当時、真崎と呼ばれた辺りに今あるのは、この石濱神社です。石濱神明宮と呼ばれたこの社は、724年の創建と言われる古社で、奥州討伐の時に源頼朝が戦勝を祈願し、元寇の際には朝廷から鎌倉幕府七代将軍を勅使として戦勝を祈願させ、そのいずれの戦役にも勝利したことから、中世以降武士を始め、多くの人々の崇敬を集めることになりました。
その境内の隅田川側にあるのがこの真崎稲荷神社です。大正15年(1926年)に石濱神社と併合されてこぢんまりとしたものになり、今は富士塚と一緒になっています。場所的には、元真崎稲荷神社の位置に、石濱神社が移ってきたという位置関係です。この真崎稲荷は、天文年間(1532〜1554年)、この場所にあった石濱城の城主、千葉守胤が祀ったと伝えられ、奥宮の狐穴から出現する狐が、対岸の三囲神社の狐と並んで、とても有名だったと伝えられています。その後、江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757年)頃には、吉原豆腐から作った豆腐田楽を売る料亭が建ち並んでいたといいます。この広重の画は、その中の甲子屋の窓の二階から見た景色ではないかと言われています。
この当時広重が豊国と一緒に描いた東都高名会席尽の中の「惣ろく」で、この真崎稲荷境内の料亭、甲子屋を描いています。右側にその部分を拡大して入れてみました。
これは、視点のやや下流、橋場の渡しを行き交う舟を下流から描いた、広重の東都名所図會の「隅田川渡しの圖」です。縦位置の画を三枚繋げてみました。「この社の前には、名にし負う隅田川の流れ」と在原の中将が詠んだ歌を引用しながら画の中に都鳥を描き、四季を通じて風光明媚な場所であることを解説しています。さらに画の中には、たくさんの女性達が戯れていて、景色の中には、水神、内川、綾瀬川も記名され、左側には、真崎稲荷、石濱神明宮もあります。
実はこの「真崎」という地名は、当時、「真先」とも書き、「まっさき」と発音していたようで、参詣すると真っ先に御利益がある、ということで大人気になっていました。そこで、広重の時代は、新吉原の店と一緒に集客のために、「真崎稲荷を訪れてから吉原に繰り出すと首尾よく事が運ぶ」というプロモーションを組み、境内の田楽茶屋はたいそう繁盛しました。
宝暦七年(1757年)頃の書物によると、甲子屋・川口屋・玉屋・いね屋・きり屋など数軒の田楽茶屋があり、甲子屋が一番美味しかったという記述があります。
また、今の真崎稲荷の由緒が描かれた石碑の前には、おびただしい数の絵馬が「叶」という文字とともに、沢山の人たちの願い事が書かれ提げられています。
現在では、石濱神社も駐車場まで備えた、石畳のきれいな神社になっていて、一部が石濱城址公園となり、その西側には石濱茶寮「楽」と言う、ちょっと洒落たカフェまで出来ていました。なんとそのカフェには、当時の名物として田楽がメニューとして復活しています。
田楽は田楽焼の略称で、豆腐に串をさしてみそを付けて焼いたものが始まりです。その名は、豆腐に串をさした形が、田植の時に田の神をまつる田楽舞の田楽法師が、一本足で踊る姿と似ているところからきています。しかし、このカフェの田楽は、お抹茶でいただく今風の写真映えするお洒落な田楽でした。
それでは広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
最初に現れるのが、柱と壁と障子戸に囲まれ、丸窓の外で鳥が群れをなして飛んでいます。これは雁ではなく都鳥ではないかと思われます。左の柱には、季節を表すように椿の花がのぞいています。
中段では、窓の外の真ん中に筑波山、それを突き刺すように梅の枝と白帆のやや大きめの舟、右側には鬱蒼とした水神の森と水神社の鳥居が隠れるように描かれています。遠景の黒い森は関屋の里で、その下、隅田川が左から大きく蛇行して流れ、その右側は見えていませんが、内川に続いています。川面には、水神の渡しと思われる人を乗せた舟と、菰をかぶせた物資を運ぶ舟が描かれています。
下段には、梅に囲まれて、今まさに真崎稲荷に向かおうとしている舟が一艘、その上に荒川経由で秩父方面から来たであろう、筏が浮かんでいます。窓下の青いグラデーションの中の梅のピンクが映えますね。
全部の景色を一面に書くのではなく、窓の中に収めたことで、遠近感が出て、より一層観光地に来ている感が醸し出されていますね。
さて、実際にこの視点となった、甲子屋があったであろう場所に行ってみました。現在の石濱神社の隅田川よりの端から見た景色です。土手が高すぎで、景色が望めません。
そこで、この土手の上までいってみました。当時より川幅が広がっていて、対岸には首都高速が走っていたりしていますが、この画面の左側ぐらいが、ちょうど窓の外の景色ではないかと思われます。青い橋が水神橋で、その右側に隠れて見えませんが、当時の水神の森があった、今の隅田川神社があります。もちろん、筑波山は見えません。
この写真の左側部分を広重の画にはめ込み、湯島天神の白梅をはめ込んでみました。先ほどの田楽をいただいているイメージで、この画を見ると何となく旅行気分になりませんか?また、この画の頃には、甲子屋はちょっと寂れてきており、広重が店のプロモーションも兼ねて、この画を描いたのではないかと、私は思っています。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
037の隅田河橋場の渡かわら竈は、台東区橋場二丁目あたりから、今戸焼の竈の煙越しに、橋場の渡し、隅田川神社方向を見た画です。
まずはこの広重の画の視点を現在のApplemapに赤いグラデーションを入れてみたので、場所をご確認ください。
この橋場の渡しを通る道は古くから北に向かう街道でした。江戸時代初期、旧奥州街道は日本橋を出発して、今の三越の先を右折して隅田川方面に向かい、浅草橋まで出たら江戸通りを蔵前まで抜けて行きます。
ドジョウで有名な「駒形どぜう」を過ぎたら、雷門で観音様に手を合わせ、右に曲がって、今の東武浅草駅を左に曲がり言問橋西の交差点まで行きます。
そのまま、直進して左に待乳山聖天を見て、今戸、橋場を経て、今の白鬚橋西詰になります。このあたりが当時今戸焼の竈が50軒ほどあったといわれている場所です。
当時は白鬚橋手前で橋場の渡しから舟で対岸に渡り、そこから大堤を北上して北に向かいました。
千住大橋が出来てからは、北に向かうメインの通りが、今の南千住駅を通るコースに変わって、旧日光街道となっていきます。それでも橋場の渡しはそのまま使い続けられ、風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が河岸に並び、有名な料亭なども出来ていきます。
広重は、この景色がよほどすきだったのか、何度もこのテーマで画を描いています。今回は、関係する浮世絵を集めてみました。じっくりご覧ください。まず、前回紹介した、東都名所図會の「隅田川渡しの圖」のパノラマをご覧ください。橋場の渡しは隅田川で一番古い渡しで、伊勢物語の在原業平も、ここを渡ったと言われています。ここで描かれている都鳥、つまりユリカモメは、明らかに伊勢物語の在原業平の妻を思う歌を意識して描かれていますね。
二代目広重は、東都名所で、別アングルの今戸を描いています。梅の花が咲く夕方、瓦を焼いている職人が、隅田川をバックに描かれています。川面に浮かぶ筏とともに、当時のとてもゆったり流れる時間が感じられますね。
三代目豊国と二代目広重の合作である、江戸自慢三十六興でも、このあたりが描かれています。左側の画は、ほぼ前回、036の初代広重の構図をそのままに、女性が振り向く窓の外に竈の煙を描いています。右の画は、雪景色の橋場の渡しを上流から見た画で、遠景に吾妻橋が小さく描かれています。
初代と二代目が描いた、同じ雪景色の橋場の画です。右側、二代目広重は、隅田川八景で、しんしんと降り積もる雪景色を、今戸側から見た橋場の渡しとして描いています。遠景の左側には、隅田川神社が描かれています。
左側は初代広重が、同じ橋場の雪景色をもっと浅草側の今戸橋、待乳山聖天越しに、描いています。隅田川神社は、上部の赤い霞雲で隠れてはいますが、物静かできれいな雪景色になっていますね。
初代広重は江戸高名会亭尽でも、橋場の渡しにあった柳屋という料理茶屋を描いています。風光明媚な場所ですから、ここに観光に来たのでしょうか?蝶に戯れる親子と二人の女性の掛け合いが聞こえてくるようですね。当時を写真のように切り取ったこの画は、私たちを瞬時に当時の橋場に連れて行ってくれる気がしますね。
さて、実際の広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず上部には、竈の煙が空に立ち上っています。空の下の方に青いぼかしの線が入っていますが、これは「あてなしぼかし」という、初摺りだけに見られる刷りの技法です。
中段左に筑波山、その下の隅田川の右からは綾瀬川が流れ込んでいます。右には隅田川神社の水神の森、大堤を彩る八重桜、隅田村須田の民家も数軒描かれています。川面には、歴史ある橋場の渡しを二艘の舟が行き交っています。
下段の川面には泳ぐ都鳥が描かれ、その部分にも「あてなしぼかし」が使われています。左下には、煙の発生源である今戸焼の竈がふたつ大きく描かれています。隅田川の青いグラデーションがとても効果的に使われていますね。
これは、今戸神社の今の姿です。現在では幕末の志士、沖田総司終焉の地として有名になっていますが、境内にはそれと一緒に今戸焼発祥の地の碑と解説版が立っています。
この今戸焼の碑の脇にある狛犬の台座には、1752年に奉納した際の、42人の今戸焼陶工の名前が刻まれています。当時、このあたりにはそのぐらい数多くの竈が存在したことがわかります。
今戸焼は主に、日用品、土人形類、瓦を生産し、江戸を代表する焼物でした。伝承では、1573年頃には既に焼かれていたようです。もともと火事の多い江戸の町ですから、火を使う焼物釜は隅田川脇に集中していたようです。その後関東大震災や東京大空襲などにより、町の様相が一変し、墨田区や葛飾区の方へ移転していきましたが、今でも今戸には一軒だけ、竈が残っているそうです。
実際に広重の視点になった場所に行ってみました。が、笑えることに白鬚橋しか見えません。橋場の渡しは、この少し手前にありましたが、1915年に白鬚橋が完成したのを機に、その1000年以上に渡る長い歴史に幕を閉じました。
この画を広重の画にはめ込んでみました。いかがでしょうか?
隅田川の渡しは、代表的なものだけでも28ヶ所ぐらいありました。その中で、この橋場の渡しは、記録に残る渡しの中では一番古いものでした。律令時代の835年の太政官の書物に「住田の渡し」と書かれたものが残っています。橋場の渡しは、白鬚の渡し、隅田の渡し、など数々の別名を持って長年愛されてきましたが、今ではその役目を鉄の橋に譲ってしまいました。その理由が便利さなのか、スピードなのか、今ではあたりまえすぎてわかりません。
なお、隅田川最後の渡しは佃の渡しで、1964年、東京オリンピックの年に、佃大橋の完成とともに廃止されています。
この渡しという情緒豊かな交通手段の消滅は、この立ち上る煙が象徴しているように見えますね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
038の廓中東雲は、台東区千束二丁目あたりから、南東方向を見た、新吉原の未明の景色を描いたものです。
まず場所を特定するために、現在の国土地理院の地図をご覧ください。そこに広重の画の視点である赤いグラデーションを入れてみました。
さらに明治初頭の地図をかぶせてみました。新吉原の道路関係は、周囲の堀以外はほとんど現在と一緒です。
1846年に発行された新吉原の詳細図があります。広重がこの画を描く10年ほど前のものです。当時はこの場所に2万人近くの人たちが働いていました。
右のくねった道は日本堤から下る「衣紋坂」で、遊廓への唯一の公式通路です。左へ「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」と呼ばれた堀に囲まれた、隔絶された楽園でした。
小さな店から、大きな店まで、この中でひしめき合うように存在していたことがわかりますね。
広重は、この新吉原をさまざまな角度で描いています。まずは、縦型三連作で新吉原全体をほぼ北から俯瞰する画をご覧ください。地図では、この角度から見た画です。メインストリートは、仲之町と呼ばれ、主に手引茶屋が軒を連ね、春には通りの柵の中に櫻が植えられていました。左下が、入口の大門で、この門に近い店ほど、高級店とされていました。
この画は、新吉原の街の上空から日本堤方向を見た画です。地図では、この角度から見た画です。堤に沿って駕籠や徒歩で、沢山の人がこちらにやってくるのがわかりますね。当時は、隅田川を舟で上ってきて、今戸で上陸、堤を徒歩か駕籠でやってくるのが一般的でした。左側の黒い木は、見返り柳ですね。屋根に乗っているものは、防火用水の入った桶です。
新吉原から日本堤に出る手前にあった、料亭播磨屋を描いたものです。地図では、この角度から見た画です。見返り柳と土手にある葦簀張りの茶屋も描かれ、客がどんどん土手を通ってやってきて、賑わっているという感じが描かれています。吉原の出入りには、男は大抵かぶり物をしていたそうです。
春の仲之町に植えられた、夜桜の景色を描いたものです。地図では、この角度から見た画です。吉原での遊びは、一般的にはまず仲之町の手引茶屋に上がって、そこに遊女を呼んで宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼するというシステムでした。この画ではさまざまな人に交じって、太夫も二人描かれていますね。禿と新造を従えて登楼する途中のようです。しかし、よほど高級な客でもない限り、最高位の太夫と一緒に登楼する、ということはなかったようです。
大門越しに見返り柳を見た、朝の雪景色です。地図では、この角度から見た画です。新吉原の営業規則として、客は一昼夜以上とどまってはならないので、朝には帰らなければなりませんでした。朝の4時半過ぎ、客と遊女との別れ時刻を後朝(きぬぎぬ)といいました。これは、そんな客と遊女の寂しい時間帯を、こんな雪の日の景色で描くという、なかなか風情のある画です。
メインストリートの仲之町から、江戸町一丁目方向を見た画です。地図では、この角度から見た画です。桜の頃、花魁道中のようなこの画で太夫が連れている、新造や禿と呼ばれる妹分や提灯持ちなどの費用もすべて太夫が負担していました。その他、芸事の稽古はもちろん、着物や飾り物まで、季節ごとに買い換えなければならず、華やかに見える太夫と呼ばれる最高位の遊女でも、その生活はなかなか大変だったようですね。
これは大門を入ってすぐ、メインストリートの仲之町を練り歩く、花魁道中を描いた画です。地図では、この角度から見た画です。一番画になる桜の頃の花魁道中は、一般人が花魁に会えるチャンスで、吉原は大賑わいになったといわれています。幼い頃から磨いた、全ての芸事に秀で、美貌も備え、気に入らない相手とは口も聞かないという、この花魁に会うには並大抵な事ではなく、個人で一回登楼するだけで、50万円ほどかかったといわれています。しかし、最低でも三度以上通わないと思いは遂げられませんでした。落語で有名な紺屋高尾のような、一途なお話しというのはなかったようですね。
右側の絵に描かれている遊女は、龍の着物柄から歌舞伎の演目『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』に出てくる、三浦屋の揚巻太夫か、落語、紺屋高尾の高尾太夫をモデルに描かれているようです。前を行く新造の木履が二本歯なのに対して、太夫は、より大きくて高い三本歯になっています。帯までは見えませんが、前から見ると「心」という字に見えるように結んであるのだそうです。一説によると、身は売るけど心は売らない、という意味なのだとか。
左側の画は、太夫が大門の前まで、駕籠で帰る客を送りに来ている、後朝(きぬぎぬ)の画です。左奥に見返り柳が見えていますね。太夫は、派手な柄の袷と呼ばれる綿の入った着物を何枚も重ね着して、高く盛った島田の髪には簪や笄を何本も刺していました。吉原太夫の立ち振る舞いは、当時の女性のファッションリーダー的な存在で、こういう画は、吉原の広告的な役割もしていました。しかし、実際には、江戸後期の吉原は衰退し、高級遊女というのは存在しなくなっていたようです。
ではどうして、吉原が出来たのか、少し探ってみました。
まず、Applemapに新旧の吉原を表してみました。1603年、徳川家康が江戸幕府を開いたときに、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まりといわれています。その後、江戸の人口の男女比は3分の2が男性だったため、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになりました。1617年には、現在の人形町の北側ぐらいに、吉原と呼ばれる幕府許可の遊郭を開き、まとめようとしましたが、違法な遊女屋は、一向になくなりませんでした。地図の青い丸の部分です。
1656年10月に幕府は吉原の移転を命じ、1657年正月には明暦の大火が起こり、いよいよ浅草田圃に新吉原として移ることになり、1668年には、大規模な私娼取り締まりとともに新吉原の営業が始まりました。地図のオレンジ色の四角です。
これは、江戸後期に広重が描いた新吉原の一覧図ですが、最初は、この中で約二万人の人たちが生活し、その後、歌舞伎と並んで、江戸文化の中心となっていきます。しかし、吉原は火事も多く、新吉原移転から幕末まで約191年間に22回も火事に見舞われました。しかし、全焼した後の仮小屋での仮営業はうまみもあり、火が出たら駆けつけた火消も大門内に入らず鎮火を待ち、楼主や関係者も密かに燃え尽きることを待ち望んでいたようです。
しかし、広重がこの画を描いた前年の安政の大地震は違っていました。600人余の遊女が死亡したという記録がありますが、実際には、1500から2000人以上の関係者が火事と倒壊で亡くなってしまったようです。この画は、鯰絵と呼ばれる当時流行ったテーマで、地震の元となった大鯰を遊女が懲らしめている図です。
江戸時代も末期になるにつれ、新吉原にも私娼上がりの遊女が増えて、小唄や三味線、舞踊など、芸の出来る遊女が少なくなっていきました。そこで、そういう遊女の芸の面だけをサポートする、芸者という商売が誕生することになります。
この写真は、明治初期の新吉原を捉えたものです。
明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者のいる町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていきます。1902年の記録によると、郭内には既に2000人も住んでいなかったようです。やがて、1957年売春防止法が施行されると、吉原遊廓はその歴史に静かに幕を下ろし、一部はソープランドに転身していきました。
実際に広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
上にはまだ明けきらぬ闇が描かれています。
中段には、青くなってきた空とほんのり赤くなってきた空がグラデーションで描かれています。中心には、冠木門の下をくぐって帰ろうとしている客とそれを見送る遊女が数名、いわゆる後朝(きぬぎぬ)の時間帯だということがわかります。右には色のない夜桜、左には火事の多い吉原ならではの大きな天水桶が設えてあります。桜は、旧暦の三月一日に植えられ花が散るとすぐに撤去され、次には菖蒲に換えられました。
通りの中央に並んでいる行灯は、「誰そや行灯」と呼ばれていて、これは1714年頃に「たぞや」という有名な遊女が殺されたため、用心のため町中に柱付きの行灯をともすようになったといわれています。
さて、実際にこのあたりに行ってみました。
これが当時、続々と人がやって来ていた山谷堀と日本堤です。今戸方面を見た写真ですが、今は遊歩道になっています。
堤から大門に曲がる道の角から、今戸方面を見た写真です。真ん中の小さな木が植え替えられた、モニュメントとなる見返り柳です。
見返り柳のはす向かい、土手沿いには、馬力をつけて吉原を蹴っ飛ばしに行くというので、桜鍋のお店があったのですが、今でも2店舗営業しています。
これが当時の大門の先、新吉原のメインストリートだったの仲之町の現在です。
これが広重の視点から見た現在の新吉原のgoogleストリートビューです。
この写真を明け方のように加工し、広重の画にはめ込んでみました。いかがでしょう。
広重の視点を特定する材料として、画に描かれた冠木門は、角町にしかありませんでした。門の前の桜の状況は、江戸町の入口のようでもあります。本来門の横に掲げられた町名の看板もなく、天水桶の町名文字はわざと読めなくしてあります。
また、広重がこの画を発表したのは、地震の翌年で、まもなく復興かなった新吉原が再オープンするというタイミングでもありました。このことから考えると広重は、新しい新吉原にエールを送るために描いたのではないかと、私は思っています。新しい夜明けを迎えた新吉原、おめでとう、と。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
039の吾妻橋金龍山遠望は、墨田区向島二丁目辺りの隅田川に浮かぶ舟越しに、浅草寺と吾妻橋を見た景色を描いたものです。
まず最初に現在のApplemapをご覧ください。そこに広重の視点であろうと思われる場所に赤いグラデーションを入れてみました。今では、吾妻橋の上流に東武線の鉄橋、言問橋、その上流にめがね型の桜橋が架かっています。ちょうどこの桜橋下流辺りに浮かべた舟越しに、見た景色だと思われます。
これに当時の地図をかぶせてみました。浅草寺がかなり大きな面積を占めていたのがよく分かりますね。
次に広重の画を詳しく見ていきます。画に描かれている場所には、山谷堀から向島まで竹屋の渡しがありましたが、この舟は屋根船と呼ばれる江戸市民の川遊び用の舟で、四方を簾で囲ってあります。現在、隅田川や東京湾で見かける四方を障子で囲っている舟は屋形船と呼ばれるもので、当時は主に武士が使う舟でした。この左岸、向島には三囲神社があり、その周りには、平石を筆頭に沢山の料亭が建ち並んでいました。芸妓を侍らせてのんびり川面から花見に興じているお大尽は、桜吹雪の中を風に吹かれてそこに行くのか帰るのか、想像をかき立てられます。しかも、半身しか見えていないこの芸妓の鼈甲簪や、合わせている着物の柄から想像するに、かなりかなり洒落た女性のようです。
解像度の関係で、初摺りではない、若干色の違う後刷りの主要部分を拡大して、右側に置きました。見えている街並みは右から、金龍山下瓦町、山之宿六軒町、山之宿町、花川戸町、その向こう側に浅草寺本堂の伽藍と五重塔が見えます。
舟の屋根下からは、まだ峰に雪を頂く富士山、それに吾妻橋が、桜吹雪の向こう側に描かれています。
実際にここに行ってみました。それがこの写真です。正面の橋は、言問橋で、その向こう側に東武の鉄橋が見えます。吾妻橋は全く見えていません。浅草寺もビルの陰で、全く見えていません。左端は、墨田区役所とアサヒビール本社です。
1919年に発行された「今昔対照江戸百景」という本に掲載された同じ場所の写真です。ここにはかろうじて、浅草寺の五重塔が写っています。
これは桜の頃に、言問橋左岸辺りから広重の視点方向を見た写真です。左の白い舟の辺りが視点だと思われます。
これはアングルを上げてもう少し寄った写真です。手前は隅田川右岸の隅田川テラスです。
視点の左岸側にある三囲神社です。当時はこの周囲に沢山の料亭が建ち並んでいました。
これは今の吾妻橋を右岸たもとから、区役所方面を見た写真です。今の吾妻橋は赤い鉄骨造りの車道4車線歩道2本の橋になっています。
最初は1774年10月に、江戸時代最後の橋としてそれまで竹町の渡しがあった場所に、市民の要望で作られました。そのため、武士以外の通行人から、二文ずつ通行料が徴収され、その頃は隅田川の別名から「大川橋」と呼ばれていました。
1876年に掛け替えられたときからは、吾妻橋と呼ばれるようになり、1887年には、隅田川初の鉄製の橋として生まれ変わりました。その時に発行されたはがきがこれです。随分とお洒落な橋だったのですねえ。
これは吾妻橋右岸の袂から、視点方向を見た写真です。見えているのは東武鉄道の鉄橋、その先が言問橋です。
これが現在の浅草寺宝蔵門と五重塔です。現在の五重塔は、本堂に向かって、宝蔵門の左側にありますが、画が描かれた当時は右側にありました。
これは広重が描いた浅草寺全景図の三連作を繋げたものです。下側が伝法院側、上が二天門側です。五重塔は、当時仁王門と呼ばれていた、宝蔵門の右側にあるのがわかりますね。
浅草寺は、628年に隅田川で漁をしていた兄弟漁師の網にかかった仏像を、兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも)が出家し、自宅を寺に改装して供養したのが始まりと言われています。左の画は、その由来を広重が描いたものです。
一説には、浅草寺創建より100年程前に、飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと流されたものとする伝承もあります。
その後浅草寺は大きく発展し、江戸時代には、徳川将軍家の観音霊場とされ、多くの参詣者を集めました。この当時の、歳の市の賑わいを広重が描いたものが、右側の画になります。
五重塔は1945年のアメリカ軍による東京大空襲により焼失しましたが、1973年に鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで、現在の位置に再建されました。
これは浅草寺本堂で、やはり1945年の東京大空襲で消失、1958年に再建され、さらに2009年チタン製の瓦に吹き替えられたことで話題となりました。
これは、あれだけ賑わっていた雷門から続く仲見世通りですが、今はコロナのおかげで、観光客もすっかり影を潜めています。
それでは、現在の広重の視点から見た写真を、少し加工して画にはめ込んでみました。大きく見えているのは吾妻橋ではなく、言問橋です。いかがでしょうか。
桜吹雪の中を屋根船で芸妓を侍らせて、混雑する浅草寺を遠目に見るという粋なお大尽の贅沢な川遊びなのですが、おかしなことにどうしても粋には見えませんね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
040のせき口上水端はせお庵椿やまは、文京区関口二丁目の椿山荘下の神田川脇にあった芭蕉庵とその周辺を描いたものです。
まず最初にApplemapで場所を確認します。広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。神田川に沿って、ほぼ西側を見ていたことになります。
これに天保の頃の古地図を重ねてみました。ちょっと強引に歪ませて、視点を中心に合わせてみました。芭蕉は、駒塚橋の横の神田上水守護神である、八幡水神社脇に住んでいたと言われています。
蓮華寺の脇に堰が見えますが、ここが大洗堰と呼ばれる水を止める施設で、この堰があることから、このあたりが関口と呼ばれました。また、吉祥寺の井の頭池から引いた神田上水は、途中で善福寺川、妙正寺川、花園川の水を加え、ここから分水されます。神田上水は今の小日向、巻石通りを通って、水戸家下屋敷の小石川後楽園の池の水に使われ、さらにそこから、今の水道橋駅下流の懸樋を伝って神田川を越え、日本橋や神田に給水されていました。
余った水は、江戸川として大曲から飯田橋を経て、仙台の伊達藩がお茶の水で作った深い切り通しを経て、今の神田川として隅田川に注がれていました。
現在では、この駒塚橋も上流に少し動いて胸突坂の下に移動しています。芭蕉の住んでいた水神社の周辺はほぼ細川越中守のお屋敷でした。
よく見るとここに、目黒不動ではなく目白不動というのもあったんですねえ。
では、広重の画を詳しく見ていきましょう。まず画の中の中央に一本の松の木を描き、その右には、芭蕉庵が描かれています。左側には、早稲田の田圃が広がっていて、左の見切れるぎりぎりの辺りに、西早稲田の水稲荷神社が描かれています。松尾芭蕉が、この景色を愛でていた事から、芭蕉庵ができたといわれています。
芭蕉庵の横には、満開の桜があり、その横奥から神田川が流れてきます。右側の山一帯は目白台で、椿がたくさんあったことから、古くから椿山と呼ばれていて、この近所の武家屋敷は椿山荘と呼ばれていたそうです。
画の下の方には、神田川と同じ幅ぐらいの川沿いの道があり、さまざまな江戸の人々が楽しそうに描かれていますが、実際には、道はこれほど広くはなかったと思われます。
さて、実際にこの場所に行ってみました。ホテル椿山荘の下から広重の視点方向を見た写真がこれです。実際には視点はもう少しアングルが高めですね。写真右側が今の芭蕉庵です。
1677年、伊賀上野の藤堂家が神田上水の改修を命じられ、伊賀上野出身の芭蕉も旧家の縁で、この工事に従事しました。そのときに住んでいたのが、八幡宮水神社の別当寺、竜隠庵(りゅうげあん)で、その後深川に落ちつくまで、水役としての仕事をしながら、数年間住んでいました。
これが芭蕉庵入口です。松尾芭蕉は、ここから見た早稲田の田圃を琵琶湖に見立てて、近江八景の瀬田の景色として楽しんでいました。実際に1688年の夏に瀬田の唐橋を訪れて「五月雨にかかれぬものや瀬田のはし」という句を詠んでいます。1726年、芭蕉三十三回忌に芭蕉を師と仰ぐ俳人仲間が、竜隠庵(りゅうげあん)に芭蕉堂を建てました。1750年には、芭蕉真筆の句の短冊を堂の傍らに埋めて芭蕉の墓となる「さみだれ塚」を建立、竜隠庵(りゅうげあん)はいつしか関口芭蕉庵と呼ばれるようになりました。その後、第2次世界大戦などで数回焼失するも、再建され、現在は「関口芭蕉庵保存会」によって俳句会などに使用されています。
これは、下流に移動した駒塚橋から広重の視点方向、左に芭蕉堂、奥に視点となった椿山荘を見た写真です。
ここは今、桜の名所でもあり、その季節になると沢山の人々が訪れます。
ライトアップされた夜桜もきれいです。
目白台に登っていく胸突坂です。かつてこの登り口に八幡水神社があり、今は右側が関口芭蕉庵です。坂を登ったところには旧細川藩下屋敷跡にできた永青文庫があります。胸がつくぐらい屈まないと登れない坂、ということでつけられた名前だそうです。
ここは、旧細川藩下屋敷の西の端に当たる場所に出来た、肥後細川庭園の入口です。
実際にいまの写真を、広重の画にはめ込んでみました。
芭蕉が近江八景の瀬田の唐橋になぞらえて見ていた景色には、とてもほど遠い景色ですが、これはこれでいい感じなのではないでしょうか?葉桜ではなく、桜の花の頃ならもっとよかったかも知れません。
そこで、視点は逆なのですが、今の椿山荘と夜桜の写真をはめ込んでみました。いかがでしょうか。