
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
011の上野清水堂不忍ノ池は、今も現存する上野公園内、清水堂の横から、不忍ノ池と弁天堂参道、奥に本郷台地を望む構図になっています。
まず古地図から、その場所を確認してみます。視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみました。下の方で左右に横切る水色の線は神田川です。右側に斜め縦に走る太い水色は隅田川です。これに現代の地図を重ねてみました。
では画を拡大して上から見てみましょう。
この画の清水堂は、元禄時代に、今の場所に移されてきたと言われています。この画が描かれた直前に発生した安政の大地震でも大した被害がなかったようです。さらに寛永寺をほぼ灰にした明治維新の上野戦争でも、関東大震災でも、第2次世界大戦の戦火からも、奇跡的に逃れてきています。現在は、国の重要文化財になっています。
もともと、江戸の都市計画から、この界隈は、徳川家の菩提寺である寛永寺の開基、天海僧正が京都を模して作らせました。不忍ノ池は、初期に今の倍近い広さがあったといわれていて、これが琵琶湖に当たります。現在上野弁天堂のある中島は、できた当初は、船で行き来していたようで、竹生島をイメージして作られました。京都東山の清水寺をモチーフに作られたのが、この清水堂です。寛永寺は、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山にならい、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としたと伝えられています。
画の中の桜も、天海僧正が大和・吉野山と同じように、桜の名所にしようと、咲く時期の異なる桜を計画的に植えたと伝えられています。そのため、旧暦の2月末から3月半ばまで、途絶えることなく桜が楽しめました。さらに桜の時期だけは、広小路側入口の黒門を開き江戸庶民の入山を許しました。ただし、寛永寺の規則が厳しく、魚を食べたり、三味線や太鼓でおどったりすることは禁じられ、午後6時には追い出されてしまっていたようです。今の上野公園と比較すると、大違いですね。
では実際に画の主要部を詳細に見てみましょう。
この画そのものがかなりデフォルメの効いた絵になっています。まず、清水堂の舞台の高低差が実際の倍以上に描かれ、桜の本数も実際よりかなり多く描かれています。さらに中島にいたる弁天堂参道手前の石段は、前年の安政の大地震により崩壊し、茶店も焼失していました。広重は、うまい具合に構図を組み立て、隠すところを隠して描いていたようです。
現在の清水堂を下から見上げた写真がこれです。月の松は、近年復元されました。
実際の視点になった場所にも行ってみました。高低差も景色も随分と違っていることが分かると思います。それでも強引に画になりそうな写真を、広重の画の中にはめ込んでみました。
この画の中には、いつも通りたくさんの、江戸庶民が描かれています。こうして見てみると、天才絵師、広重は、庶民目線で、見た人を楽しませる画を描いていたのが分かりますね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
012の上野山したは、上野四丁目の信号あたり、マクドナルド向かいの路上あたりから、上野駅方面を望むように描かれたのではないかと思われます。
では画を二つに分けて、上から見てみましょう。
空にツバメが飛んでいることで、この画が春の画だということがわかります。
その下には、五条天神の鳥居が見えます。この天神様は、医薬祖師を祀っていて、その後数回の移転を経て、今は上野公園内にあります。今でもアメ横の入口には、五条天神の旧跡が残されています。その右には、「しそめし伊勢屋」が描かれ、二階では今、宴会が開かれていて、給仕さんが忙しそうに料理を運び、客は開けられた窓から、上野の山の桜を楽しんでいるようです。
画の下側、伊勢屋の一階ではさらに混雑が激しく、おそらくタイと思われる大きな魚が並べられ、ヒラメらしき魚も吊され、給仕が赤い容器に入った名物、「しそめし」を運んでいます。人々は、左側の小路を出入りしていますが、この先が、五条天神を経て、今の上野駅前の火除け地に続いていました。そこで、上野の山に対して、このあたり一帯を「上野山した」と呼んでいたそうです。
店の前には、本馬と呼ばれる駄馬が、今まさに荷物を背負わされ、混雑する小路にはいっていこうとしています。この当時、この馬は最大135kgもの荷物を運んでいました。
路上の町人は、今、お花見から帰ってきたのか、旦那とご新造さんが丁稚風の人となにやら立ち話をしています。その後、葦簀茶屋の中では、既に酔っ払っているであろう町人が数人描かれています。このあたりの人間の描写は、広重らしいですね。
左下、蛇の目傘の一行は、今まさに上野の山に桜見物に行こうとする人たちでしょう。しかし、服装は江戸城の奥女中風なのに、花柳界でしか使わない蛇の目傘のバランスがおかしい。さらに路上にいる町人との大きさのバランスもおかしいことから、研究者の間では、この画は、二代目広重が描いたのではないかと言われています。実際、この画の発行年月日は、初代広重が他界してからになっています。
次に古地図から、その場所を確認してみます。視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみました。下の方で左右に横切る水色の線は神田川です。右側に斜め縦に走る太い水色は隅田川です。これに現代の地図を重ねてみました。上野四丁目の信号あたりから、ほぼ上野駅方面を見ていることが分かります。
さらに古地図を拡大してみました。不忍ノ池から流れ出ている小さな川は忍川(おしがわ)で、そこに三本の橋が架かっており、この視点となった一帯をみはしと呼んでいました。
これに分かりやすいように、現在の目安になる施設を大まかに入れてみました。さらに、それに現代の地図をかぶせてみました。
また、北が右方向にはなっていますが、天保の頃の地図が、当時の位置関係がはっきりしていて、分かりやすかったので、これにも視点の赤いグラデーションを入れてみました。これに、松坂屋や、上野駅という現代の地点を入れてみました。現、上野公園交番の位置が画の石垣の始まりあたりなので、その小路の入口一帯を広重が描いた、というのがわかると思います。
さて実際にこの場所に行ってみたのが、この写真です。視点はほぼこのあたり上空ではないと推測しています。道が格段に広くなり、大きなビルが林立しています。
後を振り向くと神田方面。地図で描いてあった「下谷広小路」という火除け地の現在の姿です。
これは画の石垣の左側の道を、上がっていったところの現在を写したものです。寛永寺の黒門が在った場所で、今は上野公園の入口になっていて、この下が京成上野駅になっています。
これは交番側から、画の視点である広小路方面を見た写真です。実際の視点は、写真の横断歩道のあたりだと思われます。ここは当時、右側の不忍ノ池から左に忍川(おしがわ)が流れ、橋が三つ設架けられ、みはしと呼ばれていました。真ん中の橋は、将軍と勅使以外は渡ってはいけないことになっていたようです。明治になっても、この「みはし」は地名となって残り、当時創業して「みはし」という店名にした甘味処が今でも残っています。写真ひだり側がそれです。安くて美味しい、人気のお店です。
広重の画に現代の写真をはめ込んでみました。視点の高さは違いますが、道路の広さがとんでもなく広くなっていることが分かります。広重がこの画を描いた約20年後、「上野山した」の火除け地と寛永寺の子院跡とを利用して、上野駅が開業し、ここは、東京の北の玄関口として大きく発展してきました。
013の下谷広廣小路は、現在の上野広小路の交差点を少し神田方面に行ったあたりから、松坂屋を見た景色です。前回の上野山したから200mほど南下したあたりです。
では画を二つに分けて、上から詳しく見てみましょう。
まず上のこんもりした森は寛永寺の森です。そこから寛永寺入り口である黒門を下りたところが前回紹介した上野山したです。この画では、黒門を囲む石垣(袴腰/はかまごし)や、その下を流れる忍川、そこにかかる三つの橋、三橋も描かれています。
この下谷廣小路は1657年、明暦の大火の教訓から、防火、類焼の防止のために道路を広げて作られたものでしたが、元禄時代(1688年頃)以降は、道の両側に名物や名産を売る店が建ち並び、一大娯楽地としての機能を持っていました。この画でもその賑わいが描かれています。
画の真ん中あたりには、店蔵(たなぐら)と呼ばれる白い土蔵が見えています。これは表通りに店を持ついとう松坂屋が、いかに繁盛していたかを物語っています。
画の下側に目をやると、その店蔵の道路側に、赤い丸のデザインで障子を飾った建物があります。これは、移動可能な髪結床、つまり現在の床屋さんの屋台です。しかし、当時の地図を見るとこの場所は番所(現在の交番)があった場所なので、何かの意志があって書き替えられたとみられています。
赤白デザインのお揃いの傘で歩く一行は、清元稽古社中の一行がお花見に行くのではないかと思われます。当時、お琴、三味線、浄瑠璃、常磐津など、お稽古事の師匠に引率されて弟子達が一団となって、お花見に出かけたりすることが流行っていたようです。
真ん中下あたりには、これも花見に向かうのか、武家の一行が描かれています。面白いのは、この一行の一部の人が、段袋と呼ばれていた、当時のズボンをはいていることです。江戸も末期、侍がズボンをはく時代になったことを象徴的に描いているのでしょうか。
右側には、この画のメインであるいとう松坂屋が葛籠(つづら)を背負う手代と共に描かれています。今でも現存する松坂屋は、名古屋の呉服商、伊藤屋が明和五年(1768年)に上野松坂屋を買収してできたお店です。当時、既に江戸で名を馳せていた松坂屋の屋号をそのまま残して、いとう松坂屋としたようです。丸に井桁の中に藤の字が書いてあるそのマークは、現在でもそのカタチや色を受け継いでいます。
さて、この画の改印(あらためいん)、つまり発行日は安政三年、1856年9月になっています。しかし、前年の安政大地震で、この松坂屋は建物が崩壊し、その後の火事で、焼失しています。店そのものは、12月から日本橋本町二丁目で、仮営業を始めていましたが、同時に尾張から十一代竹中藤右衛門を江戸に呼び寄せ、同じ場所に松坂屋の再建を依頼していました。この子孫十四代竹中藤右衛門が、神戸で開業したゼネコンが、現在の竹中工務店です。
当時、一万五千両以上を費やして完成した新店舗で、松坂屋が大々的に開店売り出しを始めたのが、この画の発行された9月の28日から、3日間でした。となると、この画も、松坂屋の、リニューアルセールの広告が、主な目的で描かれたのではないかと言われています。
実際に、この3日間の売り上げは三千百五十両にものぼったという記録があります。当時、一日千両の江戸名所として、日本橋の魚河岸、猿若町の歌舞伎三座、観音裏の新吉原が謳われていましたが、このリニューアルセールで、この松坂屋がそれを達成してしまいました。その影には、この画を引札(ひきふだ)と呼ばれる、広告チラシ代わりとして使ったのではないか、という研究者もいます。
次に古地図から、その場所を確認してみます。視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみました。下の方で左右に横切る水色の線は神田川です。右側に斜め縦に走る太い水色は隅田川です。これに現代の地図を重ねてみました。上野広小路交差点の神田寄りあたりから、ほぼ上野駅方面を見ていることが分かります。
また、北が右方向にはなっていますが、天保の頃の地図が、当時の位置関係がはっきりしていて、分かりやすかったので、これにも視点の赤いグラデーションを入れてみました。これに、松坂屋や、上野駅という現代の地点を入れてみました。現、上野公園交番の位置が画の奥に描かれた石垣あたりです。
現在この地点がどうなっているか、実際に尋ねてみました。火除け地だった下谷廣小路は、道路の広さも倍以上になり、中央通りと呼ばれています。見えている赤信号が上野広小路の交差点で、この下には、東京メトロ上野広小路駅と都営地下鉄大江戸線、上野御徒町駅があります。右側の上野松坂屋は、2017年11月にリニューアルして、さらに大きなビルになっています。
これは、視点の真後ろ、神田側を見た写真です。古地図で、道がクランクになっていた場所ですね。この先は、秋葉原電気街を経て、神田方面に向かいます。
これは視点から左側、西方向を見た写真です。この先、黒門小学校北側を通って、湯島天神の男坂に至ります。
現在の写真だと視点が低いので、Googleで視点の高さを合わせ、それに広重の画の輪郭をはめ込んでみました。
ネットを探してみると、1966年当時の現地の写真が見つかりました。東京オリンピック開催の2年後です。視点もほぼ画の高さと一緒ぐらいです。
それに広重の画の輪郭をはめ込んでみました。ちょっとノスタルジックな感じですが、広重が描いた時期から110年後の景色です。
さらに、視点の高さは違いますが、広重から164年後の現在の街をはめ込んでみました。
当時、広重は、この街がコロナという新たな試練に立ち向かうことになる、などということは想像だにしなかったでしょう。
014の日暮里寺院の林泉は、現在の西日暮里駅の南側、どこかの寺院の庭を描いたものです。林泉とは、木立や池、流水などを配して造った庭園のことです。
今回はまず高低差の判る地図からご覧ください。黄色いところが台地で緑と青が低い土地です。今回広重の描いた寺院の場所は道灌山にあるお寺の庭のようです。道灌山は、上野寛永寺から田端を経て王子飛鳥山へ続く台地の途中にあります。地図中の黄色い大きな三角がその場所になります。
古くは新しい堀と書いて新堀と表記しましたが、寛延(1748-51年)の頃からつつじが植えられ、一帯は寺院の美しい庭が続く名所となりました。春の桜、秋の紅葉も美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれ、日暮里と書くようにりました。その範囲は、谷中の感応寺(現天王寺)裏門から道灌山方面に広がって、西の台地には寺院点在し、東の低地には農村が広がっていました。
江戸時代中頃には道灌山・ひぐらしの里は、眺望もよく、四季の花々も多く、薬草も豊富で、多くの採集者や観光客も訪れました。
そこで、点在する各寺院は、競って庭を整備しました。雪見寺の浄光寺、月見寺の本行寺、花見寺の妙隆寺、修性院、青雲寺、さらに諏訪の台の花見、道灌山の虫聴きなど、さながらこの台地全体が、江戸の一大行楽地となっていました。
さて、この画の庭が、どこなのかということになります。そこで広重の画に戻ってよく見てみましょう。まず、画の上部にお寺の本堂らしきものが描かれています。斜面の中には山桜が、平たい土地になって観光客、手前に枝垂れ桜が描かれています。
ということは、花見寺として有名なお寺、つまり、妙隆寺、修性院、青雲寺のいずれかになります。
さらによく見てみると、ヒントになるものがあります。画の右側、船の形に刈り込まれた庭木です。さらに資料を探してみると、天保の頃に描かれた江戸の観光誌である江戸名所図会(えどめいしょずえ)の日暮里総図の中に、同じような木がありました。これは、天保5年(1834年)長谷川雪旦が鳥瞰図を描いて刊行されました。庭木の位置を見ると妙隆寺のようですが、境界線を示す柵があるので、その左隣、修性院の庭ということになります。いずれにしても、妙隆寺は現在、修性院に吸収併合され、存在していません。
広重は、名所江戸百景を書く前に、絵本江戸土産(えほんえどみやげ)という本もだしています。その中に全く同じ構図の画があります。さらにそこにも船の形に刈り取られた木が存在します。
それでは、古地図で確認してみましょう。これは天保の頃(1845年)の古地図です。拡大してみると花見寺の三つの寺院が確認できます。北から青雲寺、修性院、妙隆寺です。
同じ天保古地図のもう少し広範囲に見られる、この地域の切り絵図を見てみます。そこに視点となる赤い丸を入れてみました。さらに、そこに、位置関係が判りやすいように現代の地図をかぶせてみました。
実際その場所に行ってみました。これが現在の修性院の門前です。寺院そのものの規模がかなり小さくなり住宅地や小学校に変わっていたりと、昔の面影は薄いように思われます。ピンクの石塀が随分とモダンに見えます。
中に入らせてもらっても、墓地とお堂だけというこぢんまりした寺院です。ここは、谷中七福神のひとつで、「ひぐらしの布袋」と呼ばれているそうです。
これは修性院に向かって左側、住宅を挟んでその向こうに青雲寺があります。
これは修性院の入口右側の景色です。修性院が吸収併合した妙隆寺側になります。
これは少し駅側に行った、同じ花見寺のひとつだった、現在の青雲寺です。枝垂れ桜が一部残されています。
これはGoogle MAPで、視点を上げた写真です。それに広重の画を重ね、枠以外のものを抜いてみました。全く雰囲気が違いますね。
そこで現在の修性院正面の写真をはめ込んでみました。住宅が押し迫り、一部が学校になり、さらにその上も住宅地になり、と、寂しいことに、当時の面影は全くなくなっています。この界隈が164年を経て、いかに都市化、住宅化が進んだのか、よく分かりますね。
015の日暮里諏訪の臺は、現在の西日暮里駅の南側の道灌山にある、諏訪神社からの眺望を描いたものです。
今回もまず高低差の判る地図からご覧ください。黄色いところが台地で緑と青が低い土地です。今回広重の描いた場所は道灌山の諏訪神社です。赤いグラデーションで視点を入れてみました。
この地図でも判るように、黄色い台地の東端の黒い線は今のJRの線路が走っていて、崖になっています。その東側は古代、かなり北の方まで海が入り込んでいる入江でした。人間の営みも盛んで、もう少し北側のJR尾久駅のあたりからは、中里貝塚なども発見されています。この高台が時間を掛けて徐々に侵食され、西側に急な断崖を形成していきました。
戦国時代が終わり、家康が江戸に入府してからは、この高台の南端に寛永寺が建てられ、それに関係して、高台に沿ってたくさんのお寺が建てられました。寛延(1748-51年)の頃からつつじが植えられ、この台地全体が、江戸の一大行楽地となっていきました。眺望もよく、春の桜、秋の紅葉、薬草も豊富で、多くの採集者や観光客も訪れました。このあたりは、古くは新しい堀と書いて新堀と表記しましたが、その後、その美しさで日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれ、日暮里と書くようにりました。
そこで古地図で実際の位置を確認してみましょう。当時、このあたりはほぼ、秋田藩佐竹右京太夫のお屋敷でした。今でも相当な高低差の崖で、昔からさぞ眺めがよかったであろう事が、想像できます。この高台から、ほぼ北東方面を見た広重の視点を、赤いグラデーションで示しています。
これに位置関係が判るように、現代の地図をかぶせてみました。JRは、まさに崖の下を南東から北西に走っています。
実際の画を下から上へ詳しく見ていきましょう。
中央下の桜の先に、扇子を持って下から上がってくる人々が見えます。この坂は、地蔵坂という名前で、崖下の日暮里村に続いています。崖の上では人々が、床几(しょうぎ)と呼ばれる長椅子の上でお花見を楽しんでいます。その左には、接待用の掛茶屋も見えます
。
崖の向こう、右側には、小さな村落と木立が見えますが、おそらく現在の三河島駅付近と町屋付近が少し高台になっていたので、そのあたりではないかと想像されます。茶色のグラデーションの上に並ぶ木立は、荒川の土手でしょう。
その先右側、黒っぽく二つに分かれた山は筑波山、その左こんもりした山は、男体山をはじめとする日光連山です。実際今でも冬の晴れた日は、荒川上流の秋ヶ瀬あたりからは、この2つの山が見渡せますので、この諏訪の臺からもよく見えたのだろうと思われます。
当時、江戸庶民の人気を集めていたのは、こんな素晴らしい景色を望めたからなのですね。
実際この場所に行ってみました。これが諏訪神社の入口です。右側が当時、雪見寺として名を馳せた浄光寺です。江戸の頃は諏訪神社の別当、つまり管理者でしたが、明治元年の神仏分離令により、それぞれ独立させられました。
この坂は、富士見坂といい、諏訪神社入り口のすぐ後から西側に下りていく急坂です。東京に数ある富士見坂のうち、最後まで富士山が見えていた坂として有名です。数年前、中央のグレーのマンションができたおかげで富士山が見えなくなり、その歴史に幕を下ろしました。
これが広重の画の視点となった場所です。諏訪神社境内から北東方向を見た写真です。中央のくぼみが広重の画で、扇子を持った江戸庶民が登ってきていた、地蔵坂です。
もう少し先、崖の手前まで行って撮った写真がこれです。地面が全く見えていない、というのが今風で、おかしいですね。
Google Mapで視点を上げ、筑波山も強引に入れたのが、この写真です。しかし、日光の山は見切れてしまいます。
この写真の上下を縮めて、広重の画の構図に合わせ、画をかぶせてみました。枠の中に写真をはめ込んでみると、こんな感じになります。今のように高いビルやタワーもない江戸時代、こんな景色が江戸庶民の心を癒していたのでしょうねえ。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
016の千駄木団子坂花屋敷は、現在の千代田線千駄木駅の東側、団子坂を登った南側の崖にあった建物を、東側から見た景色なのではないかと言われています。
今は、全く見る影もなく変貌しているので、まずは古地図を頼りに探してみました。麹町六丁目の尾張屋清七が安政三年秋に発行した古地図には、はっきりと千駄木梅屋敷と記されているところがあります。
崖の高低差を考えて画の視点を決め、見た方向を赤いグラデーションで表しました。これに天保の古地図を継ぎ足して、今も同じ地点にある根津神社の位置を確認します。そこにだいたいの縮尺と方向を合わせて、現在のGoogleMAPをかぶせてみました。現代の区立第八中学校の横辺りから描いたのではないかと思われます。
さらに広重は、この画を描く前に「絵本江戸土産」の七編で同じ場所の画を描いています。本編と違い、横長のトリミングなので、左ページには、赤い鳥居と川、橋、それに休憩所や展望台まで描いてあります。一説には、この鳥居が根津神社のモノではないかとも言われていますが、距離的にかなり無理があります。上部には、「千駄木團子坂花屋敷 元来植木屋の園なるに近頃 種々(さまざま)な花を植えて、四時(しいじ)の桜観(ゆうかん)となせり」と記してあります。
当時の江戸の街は、武家とお寺だけで土地のほぼ8割を占め、大小さまざまな庭があったたため、華やかなガーデンシティと化していたようです。そこで大活躍したのが、植木屋。特に、千駄木、駒込、染井、巣鴨は、財をなした植木屋が住んでいたようです。そこで、当時の世相記録「武江年表」には、嘉永五年二月十九日に植木屋宇平治という旧家が、千駄木七面坂に紫泉亭梅園を開くと言う記述が残っています。
この七面坂こそが今も残る團子坂の別名で、高台から四方を見渡せて、遙か品川沖まで見えたので、汐見坂、七面坂とも呼ばれていました。その後この地が気に入った森鴎外が観潮楼と名付けた住まいをつくり、「浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見える……」、と書き記しています。そこが今は、森鴎外記念館になっています。
それでは画を上から詳しく見ていきましょう。
まず、空には、初摺りだけに見られる紫色のぼかしがあり、その下に三階建ての建物が渡り廊下で繋がっています。これが植木屋楠田宇平治が建てた紫泉亭のようです。三階には、展望風呂があり、窓の外の景色を見ながらお風呂が楽しめたようです。
その下には、蟷螂や東屋も設えた細い石段がつづき、下まで降りていくことができます。一説には、この画だけ、上半分が秋で、下半分が春なのではないかと言われています。
赤いグラデーションの源氏雲を経て、桜の咲く広場に下りてきます。桜の木々の間から、緑色の葉を持つ木々ものぞいています。一番下には、池か川のような水辺も見られます。桜の下では、葦簀の椅子で煙草をくゆらす人、歌を詠んでいそうな人、子どもと遊んでいる人、武家、家族連れなど、広重らしく平和に暮らすさまざまな人々が描かれています。まさに花屋敷と呼ばれる風景です。
さて、実際にこの場所に行ってみました。
これが視点であろう場所の写真です。左が第八中学校です。右側に少し見える茶色のマンションあたりが、その頃木造三階建ての紫泉亭があった場所ではないかと思われます。
視点を左に向けるとこんな景色です。右側の塀が第八中学校です。
右に目を向けると路地がさらに続いています。
坂の上から第八中学校を見た景色です。その当時は、ここから品川沖まで見渡せたはずです。
これが坂の上の道路で、根津神社方向です。この先の坂道も、汐見坂と呼ばれています。
坂上の道路を望むように森鴎外記念館が建っています。紫泉亭は、この道路の向かい側團子坂寄りにあったのではないかと思われます。
さてそれでは、広重の画に現代の姿をはめ込んでみます。
今では見る影もありませんが、こんな崖地まで細かく開発して、住宅地にしてしまう、なんだか人間の業を感じてしまいますね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
017の飛鳥山北の眺望は、現在の王子、飛鳥山公園のお花見シーンから北北東の筑波山方面を見た画になっています。
まずは以前に紹介した高低差の分かる地図をご覧ください。上野から道灌山を経て、連なる台地が石神井川の浸食によって、一度ストップする場所に飛鳥山があります。黄色い色が台地で、緑青が低い土地になります。縄文時代までは、東側の青い部分は、海水が入り込む入江でした。いわゆる海岸段丘ですね。その境目を現在JRの線路が走っています。
飛鳥の名前は鎌倉時代に遡り、この地方を支配していた豊島氏が和歌山・新宮の飛鳥明神をここに祀ったことから始まります。そこで、江戸時代になり、紀州出身の八代将軍吉宗は、飛鳥山の由来に懐かしさを覚え、同じ紀州から勧進した熊野神社系列の王子権現に、飛鳥明神を移し、それまで原野だった飛鳥山台地に千本あまりの桜を植えることになります。これが一大行楽地の先駆けとなって、上野、御殿山、墨田堤と並ぶ江戸の桜の名所となっていきます。
高台で、景色の良い飛鳥山は、同じ名所の中でもちょっと遅めに咲く桜が主でしたが、一斉に咲いたときには、雲か霞かと見まごうばかりの景色だったと文献には残っています。しかし、江戸から2里(8km)の道のりは、江戸時代には、日帰りで訪れるにはちょっときつい距離でした。それでも、徳川の菩提寺寛永寺を抱える、規制の多い上野と比べると、お上に気兼ねなくどんちゃん騒ぎができたので、多くの庶民が押しかけたと言われています。
次に安政三年に出版された古地図をご覧ください。左右に横切る青い線は、音無川、現在の石神井川です。左から右下に通じる大きな道路は現在の国道122号線、北本通り、王子駅でクランクして駒込を経由して本郷通りになります。地図の右端が平塚神社になります。
これに視点となる赤いグラデーションを加えて、現代の地図をかぶせてみます。これでだいたいの位置関係がおわかりいただけるはずですね。
さて、実際の画を上から細かく見ていきましょう。右側の薄く霞んだ、2つの峰を持つ山は、筑波山です。広重の描く江戸百景にはこの筑波山がたびたび登場します。左の小さな山は、日光連山だと思われます。その下の緑の木立は、荒川土手の木立です。
その下には田圃が広がり、やがて、飛鳥山の松の木が現れます。この田圃のあたりは、現在豊島団地から堀船に続く住宅街になっています。崖下に少し見える桜は、音無川溝田橋あたりではないかと思われます。
緑の芝生の上では、崖の際で、当時流行の土器投げ(かわらけなげ)に興じている親子がいます。当時、この崖下の田圃を保護するために、焼き物の土器以外は投げてはダメだというお触れが出ていたらしいです。それでも、この土器投げは、明治になって崖下に鉄道が開通してからは禁止になってしまったそうです。その下には土器投げを見物している花見のグループが4組、左には、扇子を揺らし踊りに興じる二人組がいます。上野と違って、多少羽目を外して大騒ぎしても、それほど問題にはならなかったようです。その右下には、蛇の目傘を持って、踊りに興じているグループもいます。
この飛鳥山は、北北東を向いて筑波山が見えていますが、西南西側にも開けていたので、大山、丹沢、富士山も見渡せたと言われています。
実際にこの場所に行ってみました。一番開けて眺めのいい王子駅に下りるケーブルの乗り場脇からの景色です。筑波山どころか、荒川すら見えません。
右に目をやると飛鳥山公園が広がっています。
南側まで行くと公園にになっており、季節を問わず、ちびっ子達の格好の遊び場になっています。
その脇の展望台からもう一度北側を見ても、林立するビルだけしか見えないのがおかしいです。
これは、明治通りと本郷通りがぶつかる飛鳥山の交差点です。絵の構図から見ると、ここの上空10メートルぐらいから見た景色が広重の描いた視点に近い画になりそうです。
そこでGoogle Earthに頼ってみましたが、ビルなどが平べったくなっているので現実的ではありません。
さらにApple mapのストリートビューを見てみましたが、アングルが高すぎてしまいます。
そこで両方のいいところを使って合成してみました。これです。
これに広重の画を重ねて、枠の中に合成してみました。現実ではあり得ない世界ですが、広重が思い描いた現代飛鳥山の眺望ではないでしょうか。当時の江戸庶民が、飛鳥山を目指して、押し寄せたのが判るような気がしますね。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
018の王子稲荷の社は、現在も残る王子稲荷神社の横から筑波山を見た画になっています。
まず、この王子稲荷神社は、現在でもその場所に存在しているので、GoogleMAPで、その場所を確認してみます。JR王子駅から、線路沿いに北西に進んだあたりにあります。ここに、社殿の場所と角度、鳥居の位置を見て、画の視点を決め、赤いグラデーションを入れてみました。社殿横から、東北東を見たのではないかと思われます。
当時、江戸に多いものとして、「伊勢屋、稲荷、犬の糞」といわれていました。伊勢屋は江戸商人に伊勢と近江出身の者が多く、数多くの店が屋号に伊勢屋を名乗っていたから。犬の糞は、元禄時代の生類あわれみの令の影響で江戸には犬の数が多かったから。
では、お稲荷さんが多かった理由は、当時稲荷を建立することが、一大ブームになっていたからです。
稲荷社は、もともと農耕の神として祀られていたのですが、やがてその使いだった狐が災害除け、開運、商売繁盛の神として直接祀られるようになりました。江戸時代、この御利益を求めて、江戸の街角や寺院、武家屋敷にまで、プライベート稲荷社が建立されていきました。今でもその名残で、東京の至る所に小さなおいなりさん、よく見かけますよね。
江戸の頃の日の数え方には、十二支が当てられていました。今でいう一週間という感覚が、12日あったと思えばわかりやすいでしょう。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の順で12日目まで数えるやり方です。立春が一年の始まりとされていましたから、現在では、2月最初の午の日が、初午となります。
稲荷神は五穀豊穣はもとより、商売繁盛・病気治癒・開運祈願など、さまざまな幸福をもたらす神とされていて、午の日にお参りすることでそれらのご利益が授かると考えられていました。それも初午の日にお参りすると特に御利益が増すと考えられていたわけです。
この王子稲荷も、最初はこのあたりの村名をとって、岸稲荷と呼ばれ石神井川流域の農耕神として、信仰されていました。やがてこの地に、紀州から王子権現が移し祀られてから、王子稲荷と呼ばれるようになり、関八州に点在する稲荷の総元締めとして、発展していきます。境内には、農民が奉納した火伏せの絵馬が、たくさんぶら下がっていたと言われています。
この稲荷のあるあたりは、日本橋から、日光御成街道(現在の本郷通り)を通りおおよそ10kmのところにありました。本来なら、江戸から見るとひなびた寒村というイメージなのですが、このお稲荷さんのおかげでたいそう賑わっていたと言われています。
当時出版された江戸名所図会にも、東から見た画とともに、この界隈の様子が解説されています。
遙かに江戸の街を離れるといえども、参詣人が絶えない。月ごとの午の日にはことさら参詣人が増える。2月の初午の日には、その賑わいが最高潮となる。飛鳥山あたりから、道沿い、川沿いに酒屋や料理屋が建ち並び、軒を連ねている。この賑わいは、江戸の街に優とも劣らない。現代訳すると、このような感じです。画の中でも「この辺茶屋多し」という文字が二ヶ所ほど見られます。
当時の様子は、落語「王子の狐」の中でも触れられています。いわゆる、江戸からちょっと離れた、大賑わいの行楽地だったようです。
王子稲荷では実際に今でも2月午の日には、凧市が開催され、境内に凧屋が店を出し、神社から授与される「火防けの凧守」を求める人々で賑わいます。
広重は、この画を描く前に、絵本江戸土産の四編で、この場所を採りあげています。アングルは北東側から王子稲荷を見るように描かれていますが、賑わっている様子がよくわかります。
では、画のメイン部分を詳しく見ていきましょう。
右の赤い建物は、本殿です。そこに神主らしき人物が遠くを見つめています。杉木立の向こうには、大きく筑波山が見えています。その下には、料理屋や酒屋が建ち並び、その間に咲いている白梅が見られます。おそらく2月頃の画なのではないでしょうか?
階段の下からは、続々と参詣人が上がってきます。その後の朱塗りの柵の左端には、反った石の鳥居が見えます。
しかし、実際にはこの鳥居は、地形的に遙か下の左になるので、見える事はありません。さらに社殿の位置から筑波山を見ようとすると、北北東に向かなければなりません。社殿と階段の位置を考えると、画を丸々裏返しにして、この画の方向的辻褄が合います。
実際にこの場所に行ってみました。このシリーズでは珍しく、広重が描いた画のようなアングルの、場所がすぐに見つかりました。本殿の右横から石段方面を見た景色です。杉木立に遮られて、何も見えませんが。
これが王子稲荷神社の本殿正面です。堂々とした造りで、社殿そのものは、ほぼ北東を向いています。最初の写真はこの社殿の右側から撮りました。
本殿正面にある賽銭箱のデザインは、この稲荷社が元来農耕の神様であったことがうかがわれます。
画にあった、王子稲荷の赤い柵と石の鳥居です。この山門と本殿は、かなりの高低差があり、かなりロウアングルで、鳥居越しにやっと本殿が見えます。
最初の写真に戻って、広重の画を重ねて、そこに現代の写真をはめ込んでみました。これはこれで、現在の写真としてはいいのですが、すこし面白みに欠けますね。
そこで、実際には若干方向が違うのですが、GoogleMAPに筑波山を表示して、変形をかけてみました。
それを、朝のような雰囲気に色変換して、広重の画にはめ込んでみました。画の方向とGoogleMAPの方向が、三十度ほど違うのですが、見た目で何となく今風になりました。王子稲荷そのものが、相当高台にあるように見えるのですが、これはご愛嬌ということで。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
019の王子音無川堰埭世俗大滝ト唱は、石神井川が、下流の王子あたりでせき止められた滝を描いたものです。実際に行ってみるとわかるのですが、見る影もなく変貌している風景のひとつです。
天保14年の古地図で、その場所を見てみましょう。左右にくねって流れているのが、石神井川で、右上の大きな水色は荒川になります。
これに視点であろう地点に赤いグラデーションを入れてみます。
さらに画の中に出てくる、金輪寺、さらには王子神社と王子稲荷も入れ、位置関係のわかる駅も入れてみました。
この地図自体がかなりゆがんで描いてあるので、現代の地図とかぶせることができないので、現在の地図は別に見ていただきます。視点となる赤いグラデーションを入れてみました。
当時の位置関係からは、ずれていますが、現在の金輪寺、王子神社、王子稲荷神社も入れてみました。
広重は、絵本江戸土産四編において、同じ題材を描いています。そこの解説には、
金輪寺の下の堰から落ちているところを大滝と呼んでいる。これより上流に岩があり水がこのためにとうとうと流れている。だから堰の上は水面が平らで静かそのもの。それが理由で、音無の名前で呼ばれている。現代訳にするとこんな感じだろうか。
小平から流れ出たこの石神井川は、板橋の宿を過ぎたあたりから深くなり、滝野川あたりからは、渓谷となって、春の桜、秋の紅葉の景勝地となっていました。明暦三年(1657年)灌漑用水確保のためにここに堰が設けられ、人工の大きな滝が出現。その前年、別当だった金輪寺と別れて、王子神社も18mほど下流に移転、現在の場所にやって来ました。今でも石堰の一部が王子神社の境内に残されているそうです。これで、昔の地図と現代の地図の位置関係がズレている理由がわかりました。
この大きな音と水しぶきを上げて落ちる様を見て人々はここを大滝と呼び、王子神社、王子稲荷、飛鳥山、滝不動、など近所の名所と共に、王子一帯は一大行楽地となっていきました。
広重の描いた画を上から細かく見ていきましょう。
左の萌黄色の山は、飛鳥山だと言われていますが、見ている方向から推測するに石神井川の右岸と、滝不動に続く滝不動裏門道を隔てる山ではないかと思われます。この山とすぐ手前の緑の木の間ぐらいにはシリーズ49で、出てくる不動の滝があったのではないかと思われます。
中央の堰埭の先に見える屋根は、金輪寺。その左堰埭を見渡すように立っている茶屋で、今まさにお花見が行われているようです。この数軒の茶屋は、明治初期の古地図によると、扇屋と海老屋のようです。桜の木々もたくさん描かれていますが、飛鳥山だけではなく、このあたりでもかなりの桜が植わっていたようです。
流れ落ちる滝の右側には、石垣の柱らしきものが見え、その滝の下には滝浴みをしている人々が見えます。さらに下流には、魚を捕っているらしき人物も描かれています。桜の咲く頃に、冷たい川の中にこんなに多くの人々がいるとは、普通は考えられません。この頃、売れっ子だった広重は、かなりの仕事を抱えていました。そこで、自分が描いた絵本江戸土産の景色に桜を加え、勘違いして仕上げてしまったのではないかと、推測しています。
実際、描かれたであろう場所に行ってみました。
これは音無橋の上から撮った写真です。ちょうどこのあたりに堰があったのではないかと考えられます。
音無橋上から、飛鳥山方面を見た画です。
音無橋上から、十条、王子神社方面を見た画です。
橋の下に降りてみると、昔の石神井川の河道が遊歩道になっています。
堰のあった場所の左岸にある、現在の王子神社です。
今回もAppleMAPに頼ってみました。だいたいの視点である場所から上流を見た景色です。
これに広重の画を重ねて、画の部分を取り替えてみました。
いかがでしたか?特にこの場所は、都市化による河川改修が激しく、堰自体ももうなく、滝どころか石神井川の流れすらも変えてしまっているので、全く見る影もありません。
私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
020の川口のわたし善光寺は、現在の国道122号線、新荒川大橋の赤羽側あたりから、対岸を鳥瞰図的に見た画になっています。この画は、当時の世相やら時代の空気を感じる部分が多々あります。
この画は、江戸百シリーズの中で最北端を描いた画になっています。いわゆる、江戸の端っこに当たります。
まずは画を下から見ていきましょう。出たばかりの船を待つ天秤棒をかついだ町人風の人と、旅人二人、それに船着き場が描かれています。この「川口のわたし」は、日光御成道で荒川を渡る場所になっていました。日光御成道とは今で言う国道122号線のことで、岩槻街道とも呼ばれ、江戸から初代将軍、徳川家康を祀る日光へお参りする参道になっていました。
江戸城を出た日光参りの一行は、日光街道ではなく中山道を本郷まで来て、東大横の本郷追分で、岩槻街道に入り、駒込、王子を経てここ、岩淵で荒川を渡り、川口を抜け、幸手で日光街道に合流して、日光に向かっていました。
将軍家では、この東照宮詣が大規模に行われていて、倹約家で有名な八代将軍吉宗の行列でさえ、お供が13万人、人足23万人、馬32万頭に及んだという記録があります。
そのような大規模な行列が荒川を渡るときには、川の流れと平行に船を何艘も並べ、その上に木の板を何枚も並べて、仮の橋を設えて、荒川を越えたのだそうです。そんなにまでして、千住大橋を使わなかったのは、混雑を避けるためだったらしいのですが、何よりも警備最優先、というのがあったようです。
画の中央右には、渡し船が対岸に向かっています。その上には材木を束ねた筏が六艘描かれています。当時、庶民から大川と呼ばれていた隅田川は、鐘ヶ淵より上流を荒川と呼んでいました。この荒川水運のメインを担っていたのが、材木を運ぶ筏。上流の秩父から、大量の材木を火事の街・江戸に運んでいました。さらに江戸は、この画の発行された2年前に発生した安政の大地震のために、まだまだ復興が続いていました。広重は、そんなことを肌で感じながら、たくさんの筏を描いたのでしょう。
特に、広重がこの画の前に描いていた平べったい絵本江戸土産の構図と比べると、荒川をわざと蛇行させて、川の中央にぼかしを入れさせています。縦位置の構図も相まって、この先のずっと続く、世の中もずっと続く、そんな気分を感じさせます。
画の上部に目をやるとひときわ目立つ赤いお堂が見えます。奥に松、その手前に欅、藪があって、川の中には葦。見事に手入れされた中に立つのは川口善光寺。建久八年(1197年)信濃善光寺の霊告を受けて、定尊上人が勧進、建立したお寺です。
本家善光寺と同じく阿弥陀仏のご開帳もあり、信濃が33年ごとなのに対し、川口は17年ごとにご開帳していたようです。
開帳の年ともなれば、江戸から大勢の人が訪れ、信濃に行くよりお手軽な川口は、善光寺と同じ御利益を願う善男善女でごった返していたと伝えられています。
県の文化財でもあった善光寺の赤いお堂は、昭和34年焼失、今はモダンな建物に変貌しています。さらに現在進行中の荒川のスーパー堤防工事が終わってから、さらなる改築整備を予定しているそうです。
実際にその場所に行ってみました。アングルは、随分低いのですが、元川口のわたしから、善光寺方面を見た写真です。中心の高層ビルの間に小さく見える緑の屋根が善光寺です。
橋のたもとから、赤羽方面を見て、左回りに撮った動画がこれです。
当時の「川口のわたし」に変わる新荒川大橋は、埼玉、東京の幹線を繋ぐ橋として、相当の交通量を誇ります。晴れた日には、ここから西にきれいな富士山が望めます。
今の荒川の河川敷は、自動車学校、野球やサッカーのグラウンドとして利用されています。また、河口の葛西臨海公園から東松山の森林公園まで、約90キロのサイクリングロードが整備され自転車乗りのメッカとなっています。
動画の最初と最後に見えている川は、川越から流れてくる新河岸川です。
現地から撮った写真をアップにして、広重の画を重ねてみました。
やはり、アングルが低いので、また、AppleMAPに頼ってみました。
それにしても、広重の画に対する思い入れといい、構図、アングル、デフォルメの加減といい、絶妙なんだなと、思わず気づかされますね。