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091
請地秋葉の境内
=うけじあきばのけいだい
Akiba Shrine Garden in Ukeji.

 

091

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
091の「請地秋葉の境内」は、今の向島あたりにあった秋葉神社の境内の庭を描いたものです。

まずは、この場所がどこにあったのかをApplemapでご確認ください。江戸城から北東方向に約6km、浅草寺から隅田川を挟んで、ちょうど反対側ぐらいですね。

もう少し地図を拡大してみるとわかりますが、曳舟駅の西側、ちょうど水戸街道にかかるあたりになります。

これは、iPadに入れてある「大江戸今昔めぐり」というアプリをキャプチャしたものです。真ん中の神社マークが、現在のその秋葉神社の位置です。それに当時の地図をかぶせてみました。ピンクになっていいる、この神社の敷地がいかに大きかったかがわかりますね。

さらに現在の航空写真にこの敷地を重ねてみます。右側の京成と東武の曳舟駅再開発地域と同じぐらいの広さだったことがわかりますね。

さらに「東京歴史MAPMAP」でも見てみましたが、その大きさは、現在の浅草寺の敷地に匹敵しています。その南にある東京スカイツリー駅と押上駅にかかる、ソラマチ複合ビルより大きいこともわかりますね。

実際の広重の描いた画を詳しく見ていきましょう。この請地の秋葉神社は、当時の江戸でも紅葉の名所としてたくさんの人々が訪れていました。その紅葉が至るところで描かれているのがわかります。

池は地図で見た通り、右側に曲がっており、水面に映し出された紅葉や青い松も、色分けして描かれています。水辺には、都鳥らしきものが飛び交い、右側の島には、楽隠居風の老夫婦が旅姿で描かれています。

左下には、向島の芸者らしき紅葉狩り客と、茶店で絵筆を取っている客が描かれています。この、茶店にいる剃髪の男性こそが広重本人ではないかとも言われています。

ここで現在の高低差がわかる地図をご覧ください。もともと、この東京湾北側は、上流から利根川、荒川の二大河川が流れ込む広大な氾濫源でした。緑から青になっている部分ですね。それでもその氾濫の度に、上流から流れてきた堆積物が徐々に堆砂し、わずかに高い場所が形成されていきます。

墨田区の低地を調べた地図を見ると曳舟の西側や向島あたりに、黄色で色分けした堆積物が貯まっている場所が、少し高くなっていることがわかります。これを浅草方面から見ると、川の向こうの島とか浮島と呼んでいたようです。この浮島が浮地から「うきじ」となり、請地(うけじ)になって一般的な地名になっていったようです。

やがてこの少しだけ高い地域には、植物が生い茂り、松などの樹木も生えていきました。この周辺全体は、五百崎と呼ばれていて、森林地帯は千代世の森と言い、小さな稲荷社が祀られていました。この江戸名所図會は、その後のこのあたりを長谷川雪旦が、詳しく描いたものです。
元禄15年(1702)12月に千葉葉栄(ちばしょうえい)が修験道千葉山満願寺を創建し、別当寺つまり稲荷社の管理寺となり、昔は小さなほこらに過ぎなかった千代世稲荷を苦心して大きく再興しました。後に遠州の火伏せの神である秋葉権現を勧進して、火事の多い江戸のひとびとのこころの支えとなりました。

満願寺の周辺は、その林泉として池や樹木が整備され、数多く植えられた紅葉の名所として有名になっていきました。また、火伏せの神として諸大名やその夫人達の信仰を集め、境内に今も残る多くの燈籠にその名残りをとどめています。
なお、現在の電気街、秋葉原は、秋葉神社のある火除け地、「あきばっぱら」が由来となっています。

あまりに人が集まるため、境内にはとても有名なった料理屋が三軒もありました。主に鯉料理、川魚料理を得意とする料亭で、広重が紹介する江戸の料亭案内にも、その三軒とも描かれています。一軒目が平石で、太鼓持に導かれ、向島芸者を案内する旦那が描かれています。

二軒目は武蔵屋で、鯉料理が運ばれている時に芸者遊びをしている江戸の町人が描かれています。外の右手には、池や寄進された灯籠などもたくさん描かれていますね。

三軒目の大七は夏の夕涼みの様子らしく、町人と向島芸者が汗を拭きながら談笑しています。池の向こうに見えているのが、料亭大七でしょうか。

実際にこの場所に行ってみました。が、どこにもそんな大きな庭を持つ神社など存在しません。車の往来が激しい水戸街道から、民家に囲まれた細い路地を進むと、なんとか社殿を発見しました。

広重がこの絵を描いた十数年後、明治元年(1868年)新政府の神仏分離令により、別当の満願寺が廃寺になり名前が秋葉神社に変わりました。その後、大正12年の関東大震災では社殿が倒壊、一時復興はしたものの、第二次世界大戦では戦火に見舞われてしまいました。

記録によれば、社地は7000坪(約23,000平米)近くあったはずなのですが、現在では周りを見回しても300坪にも満たないぐらいになっていました。

さらに、当時敷地だった場所の真ん中をこんな4車線の水戸街道がドーンと通っています。

広重の画に、現在の状態をはめ込んでみました。当時、池があったであろう、さくらんぼ児童遊園のあたりの、ストリートビューです。

しかし、あまりに画とかけ離れているので、現在の社殿のあたりをはめ込んでみました。それにしても広重がこの絵を描いてから、わずか170年ほどであまりの変わりようにびっくりしてしまいましたね。

1945年4月2日撮影の「米国公文書館所蔵米軍撮影空中写真」を見てみると、東京大空襲は、この秋葉神社界隈から南の深川あたりまで、下町全体を焼け野原にしてしまいました。。皮肉なことに、火除け専門の神様である秋葉大権現も、人間むき出しの戦争には、とても敵わなかったとみえますね。

アメリカ軍によって焼き尽くされた人気観光地は、今は池も紅葉もなくなり、こぢんまりとした社殿と狛犬と灯籠だけが、静かに木陰に佇んでいます。


092
木母寺内川御前栽畑
=もくぼじうちがわおんせんざいばたけ
Mokuboji Temple and Udchigawa
Inlet at Onsenzaibatake Field.

092私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
092の「木母寺内川御前栽畑」は、今の東白鬚公園のあたりにあった、お寺の周辺の入り江を描いたものです。

最初にこの場所を地図でご確認ください。江戸城から上野寛永寺のちょうど倍ぐらい北東に行ったあたりで、隅田川が大きくくねっているあたりです。

もう少し拡大した地図をご覧ください。南千住の東側で隅田川が大きくカーブした、水神大橋の南側に東白鬚公園がありますね。

これに当時の古地図を重ねてみましたが、ちょっとわかりづらいですね。

iOSアプリ「江戸今昔めぐり」の画面をキャプチャしたのでご覧ください。これに当時の地図をかぶせて、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみました。

昔からこのあたりは、荒川と利根川が流れ込む、氾濫源だったのですが、江戸のこの頃には川の流れもだいぶ整備されていました。大川と書いてある隅田川から右側に内川の入江が入り込んでいるのがわかりますね。その中洲のようになっている島に、木母寺がありました。

これに航空写真を重ねてみると、このあたり一帯が大きな公園と団地に姿を変えているのがわかりますね。

広重は、絵本江戸土産でも、ほぼ同じアングルで、この場所の雪景色を解説付きで、描いています。しかし、脇の料理屋は描いていますが、木母寺は描かれていません。

広重が描いた江戸の有名会席の紹介でも同じ場所が描かれています。ここは植半という料亭で、八つ頭芋とシジミ料理が有名で、向島芸者と一緒にやって来た旦那が、船を下りる場面ですね。奥の橋を左に渡ると、御前栽畑で、将軍家に献上する野菜を作っている、専用の畑でした。木母寺は、この料亭の後ろ側にありました。

広重は、隅田川八景でも逆の橋側から見た料亭を描いています。ここでもタイトルにはあるものの、木母寺は描かれていません。

葛飾北斎も雪月花というタイトルで、このあたりを描いています。北斎は、もっと西側の水神社を手前に、料亭も木母寺も山の影に描いています。この絵の左側が内川の入江になっています。

広重は、この木母寺の由来を、解説付きで画に残しています。
平安中期に京都の北白川に吉田少将惟房と花御前の貴族夫婦がおり、やっと授かった息子の梅若丸が5歳のときに、父の惟房が若くして亡くなってしまいます。周囲のすすめもあり、梅若丸7歳のときに、出家して比叡山延暦寺に預けられます。しかし、あまりの賢さに、周囲の稚児や法師にいじめられ、大津の浜に逃れます。そこで、陸奥から来た信夫藤太という人買いに拐かされ、東国に連れてこられます。ここまでが右の画で、棒で梅若丸を叩く信夫藤太が描かれています。

やがて、梅若丸は病にかかり、隅田川の畔で12歳という若さで、亡くなってしまいます。そこで、通りかかった天台宗の僧侶、忠円阿闍梨が念仏堂を作り、丁寧に弔いました。一方、息子を探しあぐねて東国までやって来た母の花御前は、ちょうど一周忌の日に、息子がこの地で死んでしまったことを聞かされ、狂わんばかりにその場に泣き崩れてしまいます。花御前はその後、念仏堂の傍らにお堂を建てて暮らし始めますが、押し寄せる悲しみに耐えきれず、鏡が池に身を投げてしまいます。ここまでが左側の画で、船に乗って隅田川を彷徨う花御前が描かれています。

忠円阿闍梨は、今度は母親の墓所も作り、梅若丸の念仏堂は梅若寺として整備します。時代が進むにつれて、この哀しい物語は、謡曲や能、浄瑠璃、歌舞伎の演目となり、「隅田川物」として盛んに上演されるようになります。
木母寺は、旧字の梅の漢字の偏と旁を分けて名付けられたと言われています。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
隅田川を背にして描かれたこの画の遠景は、当時の隅田村の佇まいです。画の右側には、料亭植半が描かれ、この右後ろ側に木母寺がありました。橋の左側には御前菜畑が広がり、徳川家のための野菜が作られていました。

隅田川の入江である内川には、梅若丸の辞世の句に読まれた都鳥が描かれ、周りには、美しい枝振りが好評だった松の木がたくさん描かれています。

料亭前の船着き場には、ちょうど向島芸者が船から下りるところで、その先には色づいた楓が描かれています。

実際にこの場所に行ってみました。
この場所が、木母寺や内川の入江があったあたりです。

この界隈の航空写真をご覧ください。ここは、江東地区防災拠点の指定を受けて、1986年6月に災害時用の各種設備を備えた東白鬚公園として整備、開園されました。その際に木母寺も、黄色い丸から今の赤い丸の場所に移動しています。
この写真を見るとわかりますが、隣接する都営白鬚東アパート(白鬚防災団地)は、東と西を区切る巨大な防火壁の役目もしているのだそうです。

これが移転してちょっとモダンになった現在の木母寺です。

境内に入ってすぐ右側には並んでガラスに囲まれた梅若堂と梅若塚があります。

現在の姿を広重の画にはめ込んでみました。梅若丸の時代は遠く遠く過ぎ去ってしまった、そんな感じがしますね。
このあたりは、東北に向かう奥州街道の道すがらでもありました。そこで梅若丸は、辞世の句として、伊勢物語の在原業平の歌を思い出し「尋ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田河原の露と消えぬと」と読みました。
その1年後にこの地を訪ねた母、花御前もやはり、在原業平の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子に置き換え、都鳥に盛んに問いかけたと言われています。そんな入江も、今は午後の日射しを浴びたもの静かな公園になっています。

現在の姿を広重の画にはめ込んでみました。梅若丸の時代は遠く遠く過ぎ去ってしまった、そんな感じがしますね。
このあたりは、東北に向かう奥州街道の道すがらでもありました。そこで梅若丸は、辞世の句として、伊勢物語の在原業平の歌を思い出し「尋ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田河原の露と消えぬと」と読みました。「誰かが訪ねてきて聞かれたら、私は隅田河原ので死んだと応えておくれ」という意味です。
元歌の在原業平は、「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 我が思う人は ありやなしやと」「都鳥、おまえの名前には都と付いているのだから、私の恋人は京都で今どうしているか判るかい?」というものでした。

その1年後にこの地を訪ねた母、花御前もやはり、在原業平の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子に置き換え、都鳥に盛んに問いかけた言われています。
そんな入江も、今は午後の日射しを浴びたもの静かな公園になっています。

梅若の紙芝居を見つけました。
https://youtu.be/i_QSU0dS7UQ

093
にい宿のわたし
=にいじゅくのわたし
Niijuku Ferry.

093

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
093の「にい宿のわたし」は、今のイトーヨーカドー亀有店の南側の道路を東に行った中川橋付近にあった渡しのことです。

最初にこの場所をご確認ください。
今は、「にい宿のわたし」の代わりに中川橋が東西の交通を助けています。ここに広重の視点であるグラデーションを入れてみます。実は、この画は亀有側から描いたという説と、新宿側から描いたという説があります。亀有説の奥の山は日光連山であり、新宿説の奥の山は秩父連山だと言われています。
亀有説は、赤いグラデーション、新宿説は緑のグラデーションで表してみました。

ここでグーグルアースに頼ってみました。先ず亀有説の画はこの見え方になります。日光連山がぎりぎり見えますが、むしろ筑波山が川向こうの正面に見えています。しかし、川の角度がちょっと急すぎますね。

これが新宿説です。川の角度を合わせると秩父連山はかなり右寄りで、富士山が正面に見えてきますね。だったら画には、むしろ富士山を描いたはずですね。

ということで、私は、亀有側から描いたのではないかと思っています。奥の山も、日光連山ではなく頂上が二つに分かれていない、筑波山を少し移動させ画面に入れてきたのではないかと、思っています。

広重は、絵本江戸土産で、新宿側から見た景色を描いています。川向こうの亀有側には、料亭が建ち並んでいます。当時中川では、鯉、鱸、鯰、鮒などの魚がとれていて、沿道には、これら川魚を食べさせる店がたくさん存在していて、このあたりの名物になっていました。

江戸名所図會では、亀有側から新宿方面を見た画が収録されています。桶の中の魚を網ですくおうとしている料理人が描かれています。解説には、このあたりを亀有といい、中川の鯉が美味しいと書いてあります。

ここで、「れきちず」というサイトを見つけました。当時の街道筋を地図に落とし込んだ、なかなかわかりやすい地図です。江戸時代には日本橋を起点に、緑の線で描かれた五街道が整備され、その他に四つの脇往還という、補助的な街道がありました。「にい宿のわたし」がある道路はその脇往還の一つ、水戸街道に当たります。

日本橋を出た日光街道は途中まで奥州街道と共用されていて、千住の宿を越えると日光街道と水戸街道に分かれていました。その水戸街道も新宿を越えるとさらに成田街道と別れていました。この成田街道は、佐倉城下を通って成田山新勝寺に続いていたので、佐倉街道とも呼ばれました。

ここで、国土地理院の現在の地図をご覧ください。これに広重の視点を赤いグラデーションで入れ水戸街道と成田街道を入れてみました。中川の西側、亀有村は、室町時代には「亀梨」と呼ばれていて、カメの甲羅のように盛り上がった土地の形からつけられたと考えられています。江戸時代になると、「亀梨」の梨は、「無し」に通じて縁起がよくないことから「有り」に変え、「亀有」になったといわれています。

1880年頃の地図をご覧ください。左の千住方面から来る水戸街道が「にい宿のわたし」をわたると、大きな二個の溜池を回り込むようにクランク状態になってから、成田街道と別れています。この回り込んだ界隈が新宿で、戦国時代に今の青戸にある小田原北条氏の支配下の葛西城と関連して新しい宿場として整備されたので、新宿と呼ばれていました。さらに江戸時代には水戸街道が脇往還となってから、千住の次の宿場として、成田街道との追分として大いに発展していきました。

1900年頃の地図をご覧ください。既に「にい宿のわたし」は明治17年(1884年)に中川橋になり、鉄道も完成していることがわかりますね。常磐線の駅は、当初宿場町として栄えていた新宿につくる予定でした。しかし、鉄道はその震動や、汽車から出る火の粉や煙がが嫌がられていました。さらに、当時の新宿では、中川橋をわたる人から通行料金を取ってたので、通行料金の収入が減るのではないかという意見もありました。一方、亀有地区の発展には鉄道駅が欠かせないと言う地元大地主が現れ、駅建設のための土地を寄付することになりました。結局、新宿に駅はつくられず、1897(明治30)年に亀有駅と金町駅が開業しました。よく見ると、鉄道がわざわざ新宿を避けているのがわかりますね。

1990年頃の航空写真をご覧ください。皮肉にも、鉄道は街に大きな発展をもたらし、隙間なく、工場や住宅が建ち並んでいるのがわかりますね。
現在、この地域は葛飾区になりますが、葛飾とは、もともと市川や埼玉県南部から江東区まであたりの広大な地域の総称でした。
また、当初東京市では区役所設置予定地を区名として採用することを原則としていたので、新宿町(にいじゅくまち)が区役所設置予定地であったことから「新宿(にいじゅく)区」が区名の最初の原案でした。しかし当時の四谷区新宿および新宿駅周辺地域と混乱する可能性があったなどのことから、この原案は採用されず、最終的に葛飾区になりました。なお現在の区役所は、立石にありますが、旧四ツ木村のあたりになります。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず、左に現れるのが、筑波山ですね。霞雲の下のは、中川が蕩々と流れています。高瀬舟の右側が新宿の村になります。松の木に囲まれた、左対岸が亀有村になります。そこには千馬田屋、ふじみ屋の料亭が二軒描かれています。

画には描かれていませんが、新宿側にも著名な店として、藤屋、中川屋、亀屋などがあり、いずれも中川でとれる鯉や鱸を料理として出していたようです。その際、水戸街道がクランク状に折れ曲がる原因を作った大きな二つの生け簀が使われていたようです。

また、天保14年(1843年)の記録によると、人口956人、家数174軒、旅籠4軒、それに荷役の人馬を管理する問屋場と記されており、相当大きな村だったようです。

実際にこの場所に行ってみました。中川橋の袂から、昔「にいじゅくの渡し」があったであろう場所を見た写真です。川の上流奥に見えているビル群は、旧三菱製紙工場の跡地再開発でできた、東京理科大学とマンション群です。画にあった筑波山の方向ですね。

中川橋を背に、旧水戸街道の亀有方向を見た写真です。

中川橋から新宿方向を見た写真です。

広重の画に現在の状況をはめ込んでみました。広重の頃の「にいじゅく」は、この界隈では一番賑わっている村でした。水戸街道2番目の宿で、川魚の美味しい店が軒を連ねていましたし、問屋場もありました。今、新宿ではなく「にいじゅく」という地名を知っている人がどのぐらいいるのでしょうか。ラジオがたまに水戸街道の渋滞情報として、「にいじゅく」踏切を紹介しています。時代はどんどん流れて行っていますねえ。なんだか静かに流れる中川が、ちょっとうら寂しく見えてきます。

094
真間の紅葉手児奈の社継ぎはし
=ままのもみじてこなのやしろつぎはし
Maple Tree at Mama, Tekona Shrine
and Tsugihashi Bridge.

094

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
094の「真間の紅葉手児奈の社継ぎはし」は、ちょっとややこしいですが、真間という場所の紅葉と、手児奈という人を祀った神社と、継ぎはしという数本の橋のことです。それらが一枚の画に描かれています。

さらにこの画の研究者によると、使われた顔料の丹色が酸化してしてグレーになっている、というので、紅葉の色をPhotoshopで修正してみました。その状態でご覧ください。

先ずこの場所をご確認ください。JR市川駅の北側、真間山という高台にある弘法寺から南を見た景色になります。赤いグラデーションが広重の視点になります。

次に高低差のわかる地図をご覧ください。真間山から、南は、随分と低くなっていることがわかりますね。広重の描いた地域は、東西の川に沿って低くなっていることがわかりますね。

もう少し拡大した国土地理院の地図をご覧ください。これに明治10年頃の地図をかぶせてみました。土地が低くなっている部分の痕跡が残っています。

もう少しわかりやすいように、低くなっている部分に水色を被せてみました。広重の視点である弘法寺の南側が、大きく入江のようになっているのが、わかりますね。この入江には、国府台に置かれた下総国府のための港もありました。ここが今回の広重の画のテーマになる場所になります。

広重は、絵本江戸土産でも、この場所を描いています。一つの説によると、手児奈は630年ころのヤマト王権の官職の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、再び真間へ戻り、最終的に真間の入り江に入水したと伝えられています。

この話が元になり、手児奈伝説ができあがっていきます。
昔、真間のあたりは湿地帯で、菖蒲や葦がここかしこに生え、所々に砂洲ができあがっていて、それを渡る「継ぎはし」と呼ばれる小さな橋がかかっていました。
そのころ、このあたりの井戸水は塩を含んでいたため、住人たちはその「継ぎはし」を渡り「真間の井」とよばれる、真間山の麓の真水の湧く井戸まで、水をくみに来ていました。

この、水くみに集まる人びとの中で、特に目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物を纏い、髪もとかさなければ、はき物も履いていないのに、どんなに着かざった姫よりも、清く美しく見えました。
この手児奈の存在は、真間の奥の台地におかれた下総国府にも広まり、里の若者だけでなく、国府の役人や、遠く都からの旅人までやってきては、手児奈に求愛しました。

しかし、手児奈は、すべての申し出を断り続けました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄弟でいがみ合う者も続出、それを知った手児奈は、毎日のように嘆き悲しんでいました。

その日、悩みながら真間の入り江まで来たときに、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見た手児奈は「どうせ長くもない一生、私さえいなければ争い事も無くなるでしょう。あの夕日のように...」とそのまま海へ入ってしまいます。

翌日、浜にうちあげられた手児奈の亡骸は、かわいそうに思った里人の手によって、「真間の井」のそばに手厚く葬られました。それが手児奈の奥津城(おくつぎ=墓)で、今の手児奈霊神堂の前身です。

天平9年(737年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)がこの地に立ち寄り、手児奈のその心情を哀れに思い、弘法寺を建立し、手児奈霊神堂の管理寺となりました。

この伝説は、京の都にも伝播し、万葉集の歌人たちの想像力をいたくかきたて、いくつかの句に詠まれ、「真間の手児奈伝説」は広く世間に知られるようになります。この歌を詠むと山部赤人は、実際にこの場所に来たことがあるようですね。7世紀頃に成立した万葉集にこれだけ詠まれている有名な場所ですから、江戸時代の広重も当然ここを画にしたいと思ったのでしょうねえ。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
上部に大きく描かれた木は、大カエデです。広重の視点となっている弘法寺は、紅葉が綺麗なことで有名でした。二股の紅葉の向こう側には、空に雁が飛び、その向こう側には房総の山々が広がります。尖った山は、鋸山でしょうか。弘法寺が切り立った崖の上にあったため、房総の先の方まで見えたであろうことが覗えます。

緑で描かれた松林の手前には、市川の田圃が広がり、その手前が真間の入り江で、そこに架かっている橋が継ぎはしです。広重が見た頃にも、このあたりは水が入り込んでいたことがわかりますね。

左の小さなお社が手児奈霊神堂で、右側の道を進むと弘法寺に登る急な階段がありました。左下の屋根だけが見えている民家あたりに、真水の湧く「真間の井」があり、その脇にもともとの手児奈の墓がありました。

実際にこの場所に行ってみました。
この、復活された継ぎはしの奥の階段を上ると、弘法寺があります。

階段を上って、振り返ると、今は埋め立てられて地続きになった市川駅までの町が見下ろせます。

カエデの時期ではないのですが、広重が見たであろう、現在の眺めがこういう状況です。

この写真を広重の画に構図を似せて、はめ込んでみました。
手児奈の物語は、万葉の時代ですら、「その昔」と表現されるぐらい古い古い物語でしたが、江戸末期、広重が描いたこの画を見た時、誰しもが手児奈の哀しい物語を思い浮かべることができるほど、常識的な物語でした。

万葉歌人、山部赤人はわざわざ京都からこの場所に来て「美しい手児奈が思い起こされてたまらない」と、手児奈に思いを寄せた歌を詠んでいました。私たちは今、山部赤人と同じような感性を持ち合わせているでしょうか。今の映像の時代は、見えないものは、知らないもの、信用のならないものとして、判断されてしまいます。
時代の進化は、人間の感性までコントロールできてしまうのでしょうか。
この画を見て、皆さんはどう感じますか。

095
鴻の臺とね川風景
=こうのだいとねがわふうけい
View of the Tonegawa River in Konodai.

095

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
095の「鴻の臺とね川風景」は、国府台の里見公園の横から、江戸川とその先を見た景色です。古くからこの地域にコウノトリがたくさん住み着いていたことから、国府台の「こう」にこの字を当てていたようです。今では絶滅危惧種に指定されている鳥ですが、古くからこのあたりはそれほど一般的な鳥だったのですね。

先ずこの場所をご確認ください。江戸川が市川にかかる手前で、大きくカーブするあたりですね。広重の視点に赤いグラデーションを入れてみました。

もう少し地図を拡大してみました。広重は、現在の里見公園の崖下あたりから、ほぼ真南を見ていたようです。

これに明治10年頃の地図を被せてみました。現在と違って、もう少し川幅が狭く、護岸用の堤防が設置されていたことがわかりますね。

これらを踏まえて、広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず画面の下半分を占める水辺が利根川ですが、今は、江戸川とよばれています。江戸時代の物流のメインルートとして、高瀬舟がたくさん浮かんでいます。これらの船のほとんどは、北からの物資を江戸に運んでいました。

右側に見える集落は現在の小岩あたりの村です。現在ここには、京成の江戸川駅ができています。

左側からのしかかるように見えている高台が、鴻の台です。江戸からの見物人が三人描かれ、周りには、松や色づいたカエデも描かれています。実際にもこの場所は、江戸湾と江戸の街並みが一望できるほど、眺めのいい場所だったようです。

右の真ん中あたりには富士山が描かれています。しかし、地図で見たように、この方向には富士山は見えません。広重が、この界隈の逸話を元に、物語として富士山を画面に入れたと思われます。

この付近の高低差のわかる地図をご覧ください。この鴻の台は古くから、西と東を海や川に囲まれ、古墳も多く確認されていることから、古代から人間の生活が営まれていました。
ここで鴻の台界隈の時代の流れを足早に紹介してみます。

律令制がひかれる前から国造(くにのみやつこ)と呼ばれる官僚の治める豪族の郷があったとも考えられています。前回の手児那伝説はこの時代のことになります。いずれにしても、この鴻の台は、関東一円の要衝だったようです。

645年から始まる大化の改新のあとに、この地に下総国府が置かれると、同時に国分寺なども建立され、京都のような碁盤の目の都市が造られていたようです。

939年に大和朝廷の策略にはまり、仕方なく関東に独立国家建設を目指すこととなった、平将門が鴻の台を攻め落とし、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)の国府の力は急速に衰えてしまいます。

1180年、最初の敗戦で南総に逃れていた源頼朝が下総国府に入り、ここで約3万騎を集め鎌倉へ出陣、その後の武家政権確立の礎となりました。

1479年、太田道灌が千葉氏討伐のために鴻の台に砦を築き、これがその後「鴻之台城」になっていきます。

1538年から2度に渡り、鴻之台城に陣を引いていた房総里見氏を、小田原北条氏が攻撃、鴻之台城は北条氏の管轄となります。

1590年、今度は豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、鴻之台城は徳川氏の預かりとなります。

しかし、徳川家康は、江戸を見下ろせる要塞は危険との理由で廃城にしてしまいます。

1663年には、鴻之台城の跡地に総寧寺が移転してきます。

江戸時代に入り、1814年から28年の歳月をかけて滝沢馬琴が仕上げた長編小説、「南総里見八犬伝」が大流行します。この、鴻の台から始まる小説は、刊行中からすでに歌舞伎の演目として採りあげられ、江戸市民の誰もが知っている物語に成長しました。
その後、鴻の台は、真間の手児奈伝説や紅葉、古戦場や里見八犬伝ゆかりの地として、今で言う聖地巡礼のような扱いで、江戸からたくさんの人々が訪れるようになりました。

また、崖の上から江戸や富士山を眺められる景勝地としても人気を得ていき、江戸でもないのに江戸のガイドブック的書籍にも多数掲載されていきました。

ここで、江戸の町と川と水の関係を見ていきます。これは現在の高低差のわかる地図ですが、青や緑になっている部分が低地です。縄文時代には、この低地のかなり奥まで海が入り込んでいました。

時代が進み、徳川家康が江戸に入府して、江戸幕府を開いた頃でも、こんな状態だったようです。

江戸との位置関係を見るために、もう少し広域の地図に広重の視点を白いグラデーションで入れてみました。
今の地図では河川改修により、荒川が再整備されて流れていますが、当時、利根川、荒川、渡良瀬川、入間川が入り乱れて江戸湾に流れており、この地図の青や緑っぽいところはほぼ洪水被害の絶えない地域でした。

関東以北から、船で運ばれてきていた物資は、銚子から大きく房総半島を回り、江戸湾に入っていくのが一般的でした。これは、海上の天気に左右される、不安定なコースでもありました。
これらをまとめて是正するため、幕府が主導して始めたのが「東遷事業」です。工事機械などもない時代に、いくつかの川の流れを変えてしまおう、という大それた計画でした。

しかし最終的に1654年ごろには、利根川は関宿で分流に成功し、銚子に流れていく経路と江戸川として江戸湾に注ぐ経路に分かれました。
これにより、北からの物資輸送は、銚子から利根川を遡り、関宿からは江戸川を下るという、安全で短縮された輸送経路ができあがり、江戸川は、江戸への物資輸送のメインルートになっていきました。だから、広重の描いた利根川には、高瀬舟がたくさん描かれていたのですね。

さて、実際にここに行ってみました。
崖ではなく、樹木が大きく覆い被さってきています。左上が里見公園として整備された鴻の台で、この後ろ側から上っていくことができます。遠くに小さく見える鉄橋が江戸川を渡る京成線です。

もう少し、北側に遡って撮ってみました。広重の画と違って、現実の鴻の台はそれほどの高さではありませんね。

里見公園の木の間から西側を見た景色です。天気がよければ、この角度で、富士山が見えるかもしれません。

現在の景色を、広重の画にはめ込んでみました。
名所江戸百景の中でも、この画はさまざまな歴史を孕んでいます。この鴻の台には古代から人が暮らし、時代の変遷とともにさまざまの人たちが通り過ぎ、さまざまな物語を残していきました。江戸川でもさまざまな人とモノが、毎日のように通り過ぎていきました。里見公園に立ってみると、その過ぎていったものたちを、渡る風の中に感じることができます。

最後に、住み着いた場所に幸福をもたらすという、コウノトリを景色の中に入れてみました。

096
堀江ねこざね
=ほりえねこざね
Horie and Nekozane Villages.

096

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
096の「堀江ねこざね」は、江戸川が下流で東に枝分かれした細い支流を挟んで、ポツンとあった堀江村と猫実村を描いたものです。

先ず、広域のApplemapからご覧ください。
今回の舞台は、赤い点線で囲まれた浦安市です。交通網が発達した現在の浦安は、東京に近いベッドタウンとして人気ですが、江戸時代ではもうここは江戸とは言えませんね。江戸城からも14kmほど離れています。

Applemapと比べると、少しわかりづらいのですが、国土地理院の地図もご覧ください。これに明治13年頃の地図を被せてみます。明治期からでも驚くほど東京湾の埋め立てが進んでしまったことがわかりますね。

再びApplemapの拡大図をご覧ください。広重は、猫実二丁目あたりから北西の方向、現在の東西線、浦安駅方面を見ていたようです。広重の視点を赤いグラデーションで表してみました。

同じぐらいの縮尺で、今度は国土地理院の淡色地図もご覧ください。
これに明治13年の地図を被せてみました。

位置関係がわかりやすいように広重の視点と、東西線の浦安駅、高速湾岸線の浦安ICの場所を書き入れてみました。境川を挟んで、南側が堀江村、北側が猫実村、その東側に、豊受神社がありました。堀江村の西には、現在も存在する大蓮寺、寳城院、清流神社の文字が読み取れます。
096の「堀江ねこざね」は、安政三年(1856年)2月に、名所江戸百景シリーズの最初の5枚として、発表された中の一枚です。どうして広重は、明治の頃ですら、周りに何もない寒村を、採りあげたのでしょうか。

これらを踏まえて、広重の画を詳しく見ていきます。
先ず左上に描かれているのは富士山ですが、実際にはこの方向に見えません。富士山を見るには、もっと西を向かないといけません。もしこの方向に山が見えるとしたら、それは秩父連山になります。

右側のタイトルが、「堀江祢古ざね」の字になっているのも面白いですね。
白い霞雲の中に見えている三角の帆柱は、江戸川に停泊している高瀬舟が帆を下ろしている姿です。中央の松林には、大蓮寺、寳城院、清流神社が隠れていて、その手前の村が堀江村になります。

川を挟んだ右側の村が猫実村で、その間を流れる境川は江戸川の入江のような役割をしていています。木の杭でしっかりと護岸され、たくさんの茶船が浮かんで港のような機能をしています。これらの船で、江戸まで塩や貝を運んでいました。

当時、猫実村の青柳(姫貝)は、江戸まで知られた名物でした。今の江戸前ずしでも、「バカ貝」として欠かせないネタのひとつですね。

上流の国府台からの旅人は、ここで船を下りて、歩いて右方向の千葉方面をめざしていました。猫実村の右横の道には、猫実村に帰る釣り人らしき親子が描かれています。右の松林の中から顔を覗かせているのが豊受神社です。

「ねこざね」という珍しい地名の元は、洪水被害が多いこの地域の、豊受神社の松の木の根を波が越さないように、という願いから「根を越さない」「ね、こさね」から変化したと伝えられています。

境川には、行徳からの塩を、菰を被せて運んできた船が一艘浮かんでいます。この船は、このまま江戸川に出て少し遡り、今度は西から流れ込む運河である小名木川を通って日本橋小網町に向かいます。

江戸に入府した徳川家康は、江戸城籠城の際の塩を確保するために、江戸近郊での塩の安定供給を考えていました。そこで目をつけたのが行徳で、それ以来、御手浜として行徳の塩田を保護してきました。小名木川という運河も、その安全輸送のために掘削されたと言われています。

右下の猟師は、左の干潟に屯する千鳥を狙っている二人組です。描かれている綱は無双網の引き綱で、おとりや餌で寄ってきた千鳥をみて、右の猟師がこの綱を素早く引き、網を起こしてかぶせるやり方で千鳥などの小鳥を一網打尽にしていました。

江戸湾は、干潟が発達していたので、貝やゴカイなどの鳥のための食性が豊かで、水鳥たちのサンクチュアリとして、機能していたようです。

実際にこの場所に行ってみました。広重の視点より先の、江川橋という境川に架かる橋の上から撮った現在の街の姿です。しかし、右の豊受神社が見切れています。

Applemapからのストリートビューに頼ってみました。

Google Eathにも頼ってみました。

そしてこのApplemapとGoogle Eathとを合成し、さらに荒川から見た秩父連山と合成してみました。実際に山はこんな近くには見えませんが、お許しください。

これを広重の画にはめ込んでみました。
ちょっと強引ではありますが、現在の姿が実感できるかなと思います。
広重の頃には、猫実村と堀江村以外にほとんど何もなかった場所が、今や住宅やビルがひしめき合う場所に変貌していることがわかりますね。行徳の塩田も昭和24年には、その歴史に幕を閉じました。境川、江戸川、小名木川を行き交う物資輸送の船も、今ではトラックに置き換わってしまいました。

広重の視点の後ろ側にあった海は、ずっと先まで埋め立てられ、新しい東京のベッドタウンとしての新浦安の町ができ、その突端には世界中から人々が集まるおとぎの国、東京ディズニーリゾートができました。

今でも秋に、遙かシベリアや、モンゴル方面から渡ってくるシギやチドリたちは、少しずつ再生している東京湾の、葛西臨海公園の水辺や船橋の三番瀬で、羽を休めるようになっています。

猫実村の名物だった青柳は、今では北海道と千葉がその主要産地となっており、戦後、浦安と言えば、むしろハマグリの方が有名になっています。この、串に刺した焼きハマグリ、高いけどとっても美味しいんですよ。

さて、どうして、広重は、江戸ではない、千葉の堀江と猫実を江戸百シリーズのトップで紹介したのでしょうか。
広重が流行病で亡くなったあとの安政6年(1859年)、「冨士見百圖初編」という二色刷の絵本が発行されています。この中に、名所江戸百景と同じ構図の「下総堀江猫実」が収録されています。本来はこれも100景以上描く予定だったのでしょうけど、広重が亡くなったからでしょうか、20景で終えています。

広重はこの絵本「冨士見百圖初編」の前書きの中で、葛飾北斎の「富嶽百景」は画のあしらい方は面白いが、富士山が脇役になっているので、私はこの本で写実的な富士を描いた、と記しています。

この前書きを読むと広重は、名所江戸百景でも富士山を半ば強引に絵の中に入れて描き、江戸百シリーズに入れたかったのだと思われます。よく見ると、「冨士見百圖初編」の「下総堀江猫実」の富士山が、ちゃんと見えるように、方角を西方向に修正しています。そのため東の村はずれにあった豊受神社が画角から外れていますね。しかし、それでも実際に富士山は、もっと左の方角にあります。

広重が指摘している「富嶽百景」とは、75歳になった葛飾北斎が天保5年(1834年)から売り出した、富士山題材の全百二図から成るモノクロの絵本シリーズのことです。

葛飾北斎が描いた大判の錦絵「富嶽三十六景」は、天保2年(1831年)から売り出され、大評判となり36景を越えてもう10景が追加で出されていました。実は、「富嶽百景」は、これと同時期に制作が始まりました。その前書きに北斎は、浮世絵師という職を超越し、新たなる絵画の世界を目指し、100歳まで生きるとまで記しています。

一方、広重は、亡くなったあとの安政6年(1859年)に冨二三十六景も出版しています。しかし、そのシリーズの中には、堀江村や猫実村も出てきません。やはり、堀江村、猫実村、それに境川を前景にした風景に、富士山を入れるのは、方角的にちょっと無理があったようです。

ただ、絵師としての広重が、北斎をリスペクトしながらも少しでもその域に近づきたい、そんなふうに思っていたのではないかと、私は勝手に想像してしまいます。

097
小奈木川五本まつ
=おなぎがわごほんまつ
Five Pines along the Onagigawa Canal.

097

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
097の「小奈木川五本まつ」は、現在の小名木川橋の上あたりから、中川方向を見た景色です。

広重が、この画をどこから描いたのか、Applemapからご確認ください。江戸城から西へ約6キロ弱ほど、赤い点線の丸で囲まれたあたりが舞台になります。

地図を拡大して、広重の視点に赤いグラデーションを入れてみます。広重は、現在の都営新宿線、住吉駅から四ッ目通りを南下して、川に架かる小名木川橋の上ぐらいから東側を見たことになります。

この地図に天保の頃の古地図を被せてみます。当時、小名木川橋は未だ無く、猿江町の右脇に五本松と「九鬼式部少輔(くきしきぶしょうゆう)」という文字が見えていますが、ここにあった、有名な松をメインテーマに、広重が描いたものです。

このあたりに、運河に沿って5本の松が植えられていたので、地名も五本松と呼ばれていました。その後、4本が枯れ、丹後国綾部藩藩主の九鬼家の松だけが残って、小名木川まで届くように伸びていきいきました。青々とした松が水面を覆うほどの大樹となり、江戸では有名な稀代の名木とされていました。

ここで「れきちず」で江戸の頃の地図をご覧ください。
この東西一直線に流れる小名木川は、1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康が、兵糧としての塩の確保のため、小名木四郎兵衛に命じて、下総国行徳までの運河を開削させました。その後、鴻の台、真間、佐倉への観光客や成田山への参詣客なども運ぶ船便も開通し、塩以外の運搬にも使われていきました。当時江戸から行徳まで、約13キロを船で行くと半日ほどかかったと言われています。

小名木川は1629年には、利根川の東遷事業と併せて広く拡幅されました。すると、それまで房総半島を迂回していた、いわゆる海路の東回りの物資ルートも、銚子から利根川を遡り、関宿から江戸川を下って小名木川経由で、日本橋に運ばれるようになり、江戸への物資流通の動脈となっていきました。

広重は、絵本江戸土産でも、この五本松を描いています。この画の視点は、東側から江戸方面を見た景色になっているのですが、この画の中に登場する松のすぐ後に描かれている橋は存在しません。かなり先に新高橋があるのですが、距離があるので小さな橋ぐらいのような描き方になるはずです。
その先の橋は2kmぐらい先にある高橋になってしまうので、この画は、見えないものを描いていることになりますね。

次に斉藤月岑の描いた江戸名所図會でも五本松が描かれているのでご覧ください。左側の九鬼家のお屋敷から、見事な松が黒塀を越えて小名木川に架かるぐらいにせり出しているのがわかります。川の縁あたりから伸びる、松の枝を支える三本の柱まで、正確に描かれています。東に向かう「行徳船」と呼ばれる乗合船の坊さんらしき人は、暑いのでしょうか手ぬぐいを川に浸しています。実際には一直線で流れる川は、画的に調整したのでしょうか、左側に緩く弧を描いています。

船の先に見えている小さな橋は、横十間川に架かる大島橋で、その先に家並みが一部左側に引っ込んでいて、小さな松が両脇に植えられています。ここには庚申堂が立っており、五百羅漢寺への案内の石碑が立っていました。ここを左に入ると300メートルほどで五百羅漢寺行くことができました。

広重は、江戸名所百景で、小名木川を他に二点描いています。52景の万年橋は、小名木川が隅田川に出る直前の橋の上から富士山を見た画です。72景の中川口は、中川と小名木川が交わる、交通の要衝を描いたものです。今回の「小奈木川五本まつ」は、ちょうどこの中間あたりに位置しています。

では、広重の描いた画を詳しく見ていきましょう。
左から大きくせり出している見事な松は、九鬼家のお屋敷から張り出している松です。木の杭で護岸された小名木川の縁から伸びる杭で、支えられていますね。行徳方面に向かう乗合船のお坊さんらしき人は、江戸名所図會と同じく、手ぬぐいを水に浸しています。

左側の岸辺の先には、民家の塀が少し窪んだところが描かれ、その少し先には小さな橋らしき物が描かれています。これが大島橋で、くぼみが五百羅漢寺の参道だとすると、位置関係が逆になってしまいますね。松を支える二番目の柱の後にはお寺らしきものが描かれていますが、どうやら、五百羅漢寺ではないかと思われます。これも、位置関係がずれていることになります。

画の二割近くの面積を松が占めています。しかし、実際の冷静になってみてみると松は強調しすぎですよねえ。松を支える柱の高さから推し量ると、松はとんでもない大木になってしまいます。でもまあ、これも広重らしい構図ではありますが。

実際にこの場所に行ってみました。小名木川橋の上から見た景色です。左端のピンクの壁が現在の島忠ホームセンターで、ちょうどその終わりあたりに九鬼家のお屋敷がありました。松が植わっていた場所ですね。奥の青い橋が横十間川との交差する場所で、かつての大島橋があった場所です。現在は、二本の川をクロスする小名木川クローバー橋となっています。

今回の撮影地点である小名木川橋の北側には、かつて大島橋の先にあった、百羅漢寺の道標が移築されています。これは碑の裏にある銘文によると文化二年(1805年)に再建されたものなので、広重や斉藤月岑も実際に目にしたであろう石碑ですね。

石碑の川寄りのスペースには、「五本松跡」と彫られた石柱とともに若い松が数本植えられています。実際に広重が描いた松は、明治42年(1909年)近所の工場の煤煙により枯れてしまったので、伐採されたと朝日新聞が報じています。

現在の景色を広重の画にはめ込んでみました。さらに、枝振りはよくありませんが、小名木川橋たもとに再現された松をあしらってみました。

さて今回、広重の描いた画と、当時の地図などを調べていくにあたり、本当に広重は、この場所に行ってこの画を描いたのだろうか、という疑問が湧きました。それは、あまりにも江戸名所図會に似通っていて、広重の画の方は、目標物の位置関係もずれていたからです。

さらに調べていくと、広重は、名所江戸百景シリーズを描くにあたり、江戸名所図會を描いた斉藤月岑に、図柄の使用を承諾してもらっていた、という記録も出てきました。なるほど、それならば似通った画になっていることも納得はできますね。広重本人にインタビューでもしてみないとその真偽はわかりませんが、この五本松に関しては、広重は、この場所には行っておらず、江戸名所図會を参考にして描いたようです。

098
両国花火
=りょうごくはなび
Fireworks at Ryogoku.

098

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
098の「両国花火」は、神田川が隅田川に注ぐ柳橋あたりから、両国橋と両国花火を見た景色です。

先ず、その位置をApplemapでご確認ください。江戸城天守から東北東へちょうど3kmほど行くと、隅田川に両国橋が架かっています。

少し地図を拡大して、広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。両国橋の少し北側には西から神田川が流れ込み、合流直前の神田川には柳橋という小さな橋が架かっていました。広重は、この橋あたりから見た花火を画にしたのではないかと言われています。

これに当時の古地図を被せてみました。ちょうど両国橋が架かる西側に「廣小路」と描かれた空き地がありますが、これは、火事の多かった江戸の町で、延焼防止用に作られた火除け地です。

この空き地は両国廣小路と呼ばれ、いつでも解体可能な葦簀張りの飲食店が建ち並び、江戸一番の繁華街となっていました。広重は、この廣小路を西から見た俯瞰図で描いています。いかに賑わっていたかがわかりますね。ここにも広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。

広重が、もう少し廣小路よりから描いた画もありますので、こちらもご覧ください。橋を渡った先にも、小さめの火除け地があり、その先は回向院で、境内では相撲興行が行われているようです。

さらに長谷川雪旦も、江戸名所図會で、同じような画を描いています。ここにも広重の視点を赤いグラデーションで入れてみました。橋の長さも人の多さもちょっと誇張されていますが、江戸市民にとって、両国の花火は、格別なものだったようですね。

これらをイメージして、実際の広重の画を詳しく見てみましょう。
先ず第一印象は、暗いということですね。花火と船の灯りを強調するために、それ以外はほぼ暗い色になっています。よく見ると橋の上にもたくさんの江戸市民が花火を楽しんでいる姿が描かれています。大小たくさんの船では提灯の明かりが明るく描かれ、宴も今が最高潮という感じ伝わってきますね。

中央の大きな船は屋形船で内部は20畳ほどの広さがあったようです。舳先に行灯を灯しているのが煮売り船で、お客の乗っている船に寄せて、お酒のおつまみなどを売っていました。小さい船は猪牙舟や屋根船で、客の乗った納涼船向けに新内、義太夫、影絵などを披露する舟もありました。見るからに楽しそうですねえ。

黒く描かれた空には、花火が描かれていますが、江戸時代の花火は、今の花火と比較すると極めて地味だったようです。花火の原料は塩硝・木炭・硫黄だけだったので、色は、金色、オレンジ色、赤色しかありませんでした。その花火そのものも、派手な大輪を描く花火ではなく、シュルシュルと放物線を描いては落ちていく「流星」という花火が主流でした。

この頃の花火は、上がった後で柳のように名残惜しく枝垂れる姿が人気だったようで、目で見て楽しんで、打ち上げの音や火薬の匂いなども同時に味わっていました。観客全員で「たまやー」「かぎやー」と、みんなで声をかけて一体感を楽しむ、今のライブコンサートのような楽しみもあったようです。

右上の開いた花火は 「割れ物」と呼ばれるもので、安政年間から使われ出した鉄により、割れた後に白く輝きながら落ちてくる花火です。おそらく現在の菊形花火に繋がるものだと思われます。

この画は、広重が船の上から見た両国橋を描いたものです。両国橋は、明暦の大火(1657年)をきっかけに、万治2年(1659年)にかけられた橋で、当時は現在よりも少し下流にかかっていました。当初、大橋と呼ばれましたが、のちに武蔵、下総の両方の国に架かることから、両国橋と正式に改められました。

この両国橋に毎年花火があがるようになったのは、享保18年(1733年)からでした。
享保16年は旱ばつによって米は不作、翌17年は、イナゴの大量発生で大飢饉、そのために米価が高騰し、江戸ではコレラが流行して、日本全国で百万人近い人が亡くなりました。そこで、8代将軍・徳川吉宗が亡くなった人の霊を弔うための「川施餓鬼(かわせがき)」を行いました。
享保18年の5月28日、太陽暦の1733年7月9日、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊と悪病退散を祈願する目的で両国の川開きの日に水神祭を実施しました。その際に花火を打ち上げたのが、両国花火の起源とされています。

この画は、広重の遺作となった一枚で、柳橋の料亭、万八楼から見た両国橋の画です。花火は描かれていませんが、この画の視点が、江戸百で描かれた「両国花火」の場所とほぼ一緒だと言われています。

それ以前に広重は外から見た万八楼も描いています。これを見ると万八楼は、柳橋の浅草側の角地にあったようですね。

両国花火は江戸市民にとって、とても人気だったようで、たくさんの浮世絵が残されています。これらを連続でご覧ください。

左が二代目広重が描いた花火、右が初代広重と豊国の合作です。右の画は花火より、女性が中心の画になっていますね。

これは、歌川国芳が天保の頃に描いた隅田川の画で、煮売り船が寄せている船には、新内を奏でている芸者風の女性がいます。さらに右から火の粉の降る中、大山詣帰りの男が6人、泳ぎながら近寄っているという、とてもユーモラスな画になっています。

渓斎英泉は、夕暮れの柳橋から少しデフォルメを効かせた料亭越しに、月の出と花火を描いています。

最後は、広重の師匠筋にあたる、歌川国満が文化年間に描いた、とても楽しそうな花火の画です。

さて、実際にこの場所に行ってみました。これが当時から少し上流に移動した現在の両国橋です。

これはもう少し下流、当時の両国廣小路の南あたりから現在の両国橋を見た景色です。

これは明治14年頃の柳橋から両国橋を見た景色です。広重の視点である料亭、万八楼は、写真に左側にあったようです。

これが現在、柳橋あたりから見た両国橋の夜景です。

これに花火を合成して、広重の画にはめ込んでみました。
ここで打ち上がっていた両国花火は、その後さまざまな理由で中止、再開を繰り返しながら、場所を上流の言問橋あたりに移し、現在も続いています。名前も「両国川開き大花火」から「隅田川花火大会」に変更になりました。

両国花火は、八代将軍吉宗が悪病退散も祈願の目的に入れていましたが、皮肉にもつい最近の新型コロナウイルス感染症の影響を受けて、3年間も中止になってしまいました。
両国花火の画は、安政5年8月に発表されましたが、9月には広重自身もコレラにかかり、他界しています。

明治30年(1897年)8月には、見物客の重みで木製の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きてしまいました。この事故を契機に両国橋は現在の場所に移され、鉄橋となって架け直されました。

「隅田川花火大会」となってからは立派なホームページも公開され、1978年からは、テレビ東京がテレビ中継を始め、最近では夏の年中行事番組になっています。
こうして見ると、花火は江戸時代から人々を元気づける薬のようですね。ずっと続いてほしいものですね。
最後に2016年の足立花火大会のファイナルを動画でお楽しみください。

099
浅草金龍山
=あさくさきんりゅうざん
Kinryuzan Temple in Asakusa.

099

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
099の「浅草金龍山」は、浅草の雷門から雪の降る仁王門方面を見た景色です。

最初にその場所をApplemapでご確認ください。浅草は、江戸城から北東へ一里、約4キロほどいったあたりですね。

少し地図を拡大して、そこに広重の視点を、赤いグラデーションで表してみます。雷門から、ほぼ北方向、宝蔵門を見ていることがわかりますね。
駒形橋の西詰には、駒形堂がありますが、ここは、初期に本尊の聖観音像が発見された場所で、現在は馬頭観音立像が祀られています。かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かっていました。

駒形堂の参詣を終えるとまっすぐ北上し、雷門をくぐり、宝蔵門、本堂の順に進んでいきました。いま仲見世となっている場所には当時、お店ではなく子院が六院ずつ並んでいました。

広重の画を詳しく見ていきましょう。先ず、上から吊された大きな提灯ですが、これは、奉納した人が好きな文字を書くことができる決まりで、新橋の屋根屋職人代表、三右衛門がお金を集めて奉納したもので、実際にはちょっと粋に「志ん橋」と書かれてありました。

雪の降りしきる参道を奥に向かう人たちが、たくさん描かれていて、浅草寺の賑わいが伝わってきますね。。正面の赤い建物が現在の宝蔵門で、当時は「仁王門」とも呼ばれていました。

その右にはやはり朱塗りの五重塔が描かれています。この画の出版は、安政3年の七月、前年の地震で曲がってしまった九輪が直っています。全体的に、白と赤のおめでたい色合いで描かれているのは、地震によって曲がってしまった九輪の修復が、無事終わったから、ではないかという研究者もいます。

作者は不明ですが、地震で曲がってしまった九輪を描いた、「浅草寺大塔解訳」という現代のニュース報道のような浮世絵が残されています。もっともこれは、京都八坂の法観寺の不思議な曲がり方と比べると、浅草寺観世音の神通力があったので被害が少なかった、と書かれているので、ちょっと笑えます。

この画の、刷りによる時代の変化をご覧ください。初摺りは、広重の意見が反映されてますが、その後の摺りは出版元の意見なのか、時代の要請なのか、色合いとグラデーションがどんどん変化していっています。これは、九輪の修復の白と赤のおめでたい演出が必要なくなっていったのではないかとも、思われます。

広重は、浅草寺全体を三枚つなぎの画で描いています。真ん中が本堂で、その右が仁王門、奥が五重塔ですが、画に描かれた雷門はもっと右側なので、見切れています。

広重はまた、浅草寺の由来も画に描いています。
浅草寺に伝わる『浅草寺縁起』によると、33代推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、兄弟の漁師が現在の駒形橋あたりで網をかけていたところ、一体の仏像が投網の中にはいっていました。それを近所の豪族であった土師中知(はじのなかとも)に見せると、聖観世音菩薩の像であることがわかり、中知は自ら出家して、いまの駒形橋の東側あたりにお堂を作りました。これが浅草寺の始まりと言われています。

浅草寺草創の建物として今は少し北側に移動しましたが、これが駒形堂です。天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えましたが、たびたび火災に遭ってしまいます。3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建され、庶民の娯楽の場も近くにあったため、浅草寺は「浅草の観音様」としてますます発展していきます。

実は、この隅田川から上がった観音様には後日談がありました。
埼玉県飯能市岩淵の成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものだというのです。この、岩井堂観音は26代継体天皇(450年~531年)のころ、名前の残っていない旅の僧が霊験を得て、成木川沿いに露出する岩肌の上に、聖観音像と堂宇を建立したのが始まりといわれています。それが27代安閑天皇の頃に暴風雨が起き、この堂宇と聖観音像は成木川へ流されてしまったということです。

聖観音像は暴風雨の夜から100年以上かけて、成木川から入間川、荒川を経て隅田川の駒形まで約75km、流れて行ったことになります。隅田川で聖観音像が発見されたとの報を聞いた当時の岩淵の郷の人々が、返還を求めたものの、叶わなかったといわれています。

しかし時は流れ、浅草寺第24代貫主だった清水谷恭順はこの口承を史実とみなし、昭和8年9月15日に浅草寺末寺一番の善龍院にあった聖観音像を岩井堂観音に奉還しました。何となくほっとしましたね。

実際にこの場所に行ってきました。これが現在の雷門です。
表参道入口の門で、右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というのが正式名称です。広重の画が発表されてから9年後の慶応元年(1865年)に焼失してしまいます。
昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。これはパナソニックの創設者、松下幸之助が寄進したものだそうです。提灯の下の金属部分には、松下電器の彫刻がみえます。

雷門の東側には、東京スカイツリーが見えます。

雷門をくぐると両脇には、仲見世と呼ばれる店が軒を連ねています。江戸時代までは、浅草寺の子院が並んでいましたが、参道の維持管理を約束することで、出店を許可しているそうです。

これは宝蔵門で、江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能でした。この門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造です。門の左右に金剛力士像を安置することからかつては「仁王門」とも呼ばれていました。

仁王門の左横の五重塔は、広重の頃には仁王門右側に見えていた五重塔です。昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造りで、高さ約48mあります。

これが本堂で、秘仏である本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれています。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建された鉄筋コンクリート造りです。旧堂は慶安2年(1649年)に3代将軍徳川家光の援助で再建されたもので、近世の大型寺院本堂の代表作として国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)に焼失しました。

これは本堂を上がったところで、上部の扁額は、昭和20年(1945年)に焼失していましたが、2020年に井波の彫刻師によって新調されたされました。「施無畏(せむい)」とは、「菩薩がその威力や方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うこと」だそうです。ありがたいことです。

広重の画に、現在の画をはめ込んでみました。
広重の雪景色の画とは、だいぶ趣が違いますが、コロナ禍を経て、だいぶ活気を取り戻しています。

もうお気づきだとは思いますが、浅草寺の伽藍のほぼすべては、最近になって再建されたものです。1945年3月10日未明、約300機の爆撃機が33万発の焼夷弾を投下し、人口密集地帯だった浅草寺を含めた下町は一面が火の海となり、10万人近くの民間人が犠牲になりました。東京大空襲です。

戦争は、人間を大量虐殺する仕組みです。しかし、どういうわけか未だに戦争はなくなりません。この世界には、どうしても戦争をやりたい人間がいるみたいです。浅草の観音様、この人たちに「施無畏(せむい)」をお願いいたします。救ってあげてください。

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よし原日本堤
=よしわらにほんづつみ
Nihonzutsumi Enbankment
at Yoshiwara.

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私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際にその場所を訪ねて見てみました。
100作品目の「よし原日本堤」は、日本堤と呼ばれた土手道を吉原遊郭に向かう客の賑わいを、少し上から描いたものです。

まず、Applemapで、ここがどこにあるのかをご確認ください。
江戸城から北東に約5キロほどいったあたりですね。当時、このあたりは江戸のはずれで、民家は少なく、ほぼ畑と田んぼだけでした。浅草寺裏の田圃の一部を使って作ったので、吉原遊郭は「観音裏」などとも呼ばれていました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。広重の視点を赤いグラデーションで入れてみます。徳川家康が江戸にやってきた頃は、この地図の右側半分は、入間川、荒川、利根川が入り乱れて流れ込んでいたので、ほぼ氾濫源でした。
その後、江戸幕府による利根川の東遷事業や荒川をはじめとする治水事業により、水量は減ったものの、江戸市街も常に氾濫の危険がありました。元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町の今戸橋から北西方向へ箕輪の浄閑寺にかけて堤防が築かれました。これが日本堤です。地図では、紺色の線で表してみました。

江戸幕府開設間もない1617年、現在の日本橋人形町あたりに吉原と呼ばれる公認の遊廓を許可していましたが、明暦の大火(1657年)で焼失してしまいました。そこで幕府は、既に人形町界隈がかなり住宅化していたために、再建ではなく遊郭そのものの移転を命じました。そこで候補に挙がったのが、日本堤脇の浅草田圃でした。この新しい公認遊郭は、日本橋と区別するために新吉原と呼ばれていました。地図では緑色で表しています。

これに、位置関係を大雑把に合わせて、当時の地図を被せてみました。
当時、隅田川を船でやって来た客は、今戸橋から土手の北側に流れる山谷堀に入り、途中で降ります。そこからは日本堤の土手を歩いて新吉原の入口である、吉原大門を目指しました。
当時の吉原遊郭は、周囲を堀で囲まれ、完全な別世界を形作っていたことがこの地図でわかりますね。

その吉原遊郭を北側から広重が俯瞰で描いています。左下が入口の大門で、右上が浅草側の行き止まりの門になります。メインストリートの仲之町には、春になると桜が植えられていました。
これを吉原の全店舗が記された地図で見てみると、右上から描いていることがわかります。この地図では、日本堤は右側になります。それにしても、公認遊郭新吉原の規模はすごいですねえ。

これは新吉原の上空から日本堤方面を見た画です。手前に公認の証である櫓の上がっている新吉原の各店舗、その先に日本堤を歩いたり駕籠に乗ったりして、新吉原に向かっている人たちが描かれています。左側の黒い木が見返り柳ですね。

広重は、現代のレストランガイドのようなシリーズで、新吉原の入口にあった播磨屋というお店を描いています。右奥から新吉原に向かって、日本堤の上を人がどんどんやって来ています。左が見返り柳で、ここを左に折れるとちょっとくねった衣門坂と呼ばれる通りがあり、播磨屋はその入口にありました。日本堤、見返り柳、衣門坂、大門は、新吉原に向かう客が必ず通る場所だったのですね。

ここで、明治時代になってからの実際の姿をご覧ください。これは明治初期に待乳山から撮られた写真で、今戸橋と河口の料亭有明楼、その向こうには隅田川が見えています。隅田川を船で来た客はここから山谷堀に入っていきました。

今戸橋の向こうには今戸神社が見えていて、橋をくぐって、新吉原方面に向かいます。潮の満ち干が激しいので、引き潮の時にはここで船から上がって、新吉原まで歩いていっていました。

桜の頃にメインストリートの仲之町通りから、入口の大門方面を見た写真です。傘や布団が干してあるのが妙に現実的ですね。

新吉原の大門は、明治14年に鉄製に変わりました。奥に並んでいるのは引手茶屋と呼ばれる案内所のような場所で、新吉原にきた客を遊女屋へ送り迎えしたり、酒宴をさせたりする場所です。当時の新吉原では、一流の遊女屋は直接に客を店にあげないで、必ずこの茶屋を通す風習がありました。

「角海老楼」は吉原遊郭で、最初に木造三階建ての大楼を建てた格式のある大店で、歴代の総理大臣が遊びに来るような、かなり高級な見世でした。現在も名前だけは残っています。

さてそれでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
最初上部に現れるのは、上弦の月と斜めに飛ぶ雁です。この角度で月が見えるということは、夜8時か9時ごろで、吉原大門の閉門前の時間ということになります。しかし、実際には閉門後も脇の小さな袖門を利用できたので、実質は深夜でも出入りができたようです。

霞雲の向こう側、左は鷲神社方面になります。右端の木が見返り柳で、この場所を左に入ると衣門坂となり、その先に大門があり、新吉原の入口となります。

左下からは日本堤の土手道が続き、こんな時間でも人通りが絶えていません。その客を狙って、葦簀張りの掛け茶屋が軒を連ねています。なんだか「平和な国の風景」という感じがしますねえ。よく見ると、ほとんどの人が羽織を羽織っているので、今で言うスーツ姿で、遊びに来ていたことがわかりますね。

実際にこの場所に行ってきました。ここが広重の視点になっているあたりの場所で、暗渠になってしまった山谷堀と地方橋が交差する地点から、千束方面をみた写真です。実際の広重の視点は、この場所のもう少し上空から見た景色になりますね。

これは、当時日本堤だった現在の土手通りに出て、吉原入口方面を見た写真です。左右何もなかった土手どころか、両脇にびっしりと建物が並んでいます。

これは当時山谷堀だった場所で、今では暗渠にして公園になっています。この山谷堀は当時、王子の音無川からの放流路にもなっていました。

現在の吉原大門交差点から広重の視点方面を見た写真です。この右側のスタンドから右に行くと衣門坂になり、大門はその少し先にありました。正面の小さな木は、再現された見返り柳です。新吉原を後にする客は、この柳をみて、去りがたい気持ちを感じていたようです。

実際に現在の写真を広重の画にはめ込んでみました。その先が見通せない景色ですし、視点も低いですね。

そこで今回も、ApplemapからのストリートビューとGoogle Earthと、上弦の月を合成して、それを夜の風景にして、広重の視点を再現してみました。ちょっと強引ではありますが、現在の状況を表しています。

当時、一日1000両落ちる場所として、芝居の猿若町、魚河岸の日本橋と並んで、新吉原遊郭がその筆頭にあげられていました。しかし、安政2年(1855年)暮れの大地震で、新吉原も大きな被害を受けて、遊女屋の多くは江戸のあちらこちらで仮店舗として営業せざるを得ない状況でした。この画が出版されたのは、安政4年(1857)の4月ですから、6月から始まる復興と店舗再開の前でした。広重が新吉原遊郭から依頼されて、事前PRのための出版だったのかもしれませんね。
ただ当時の江戸では、新吉原は文化の中心でもありましたから、広重自身も復活を心から喜んでいたのかもしれませんね。

その後の新吉原は、1911年(明治44年)の吉原大火事、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲では、ほぼ全焼という憂き目をみました。どっこい、それでも新吉原はめげずに復興していきました。
しかし、1956年(昭和31年)5月21日に売春防止法が可決成立し、吉原遊廓は完全に息の根を止められ、広重の画のような光景は遠く過ぎ去っていきました。

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