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071
利根川ばらばらまつ
=とねがわばらばらまつ
Scattered Pines on the Tonegawa River.

 

071

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
071の利根川ばらばらまつは、漁師の投げた投網越しに旧利根川の風景を描いたものです。しかし、この画を描いた場所は諸説あり、確定的な場所は未だにわかっていません。

まずは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
青いグラデーションの空の下には小鷺が二羽首を「つ」の字に折り曲げて飛んでいます。漁師の魚のおこぼれを狙っているかのようです。そのすぐ下、画面中央辺りにばらばら松と民家が数軒あります。この、「ばらばら松」は、固有名詞ではなく、松がばらばらに植わっている、という意味です。

画面の中央には、弁才船が浮かんでおり、利根川を銚子から遡って、関宿から下ってきた船だと推測できます。利根川が水上物流の最重要路線であったことを覗わせます。

その左には、漁師の舟が二艘、投網をかけています。画面右には、今まさに投げられたばかりの投網がパーッと広がっています。投網を使っているので、描かれているのはいわゆる鯉や鮒、ハヤなどを捉える川漁師だと思われます。しかし、通常は四つ手網を使う白魚漁師も、中川河口付近だけは投網の使用も許されたので、幕府から許しを受けた白魚漁師だという説もあります。

いずれにしてもこの、広がった投網の網目も彫り師が一本一本彫ったわけですから、凄いことですよね。さらに、よく見ると網目全体にも薄墨が乗せてあります。

川には、湿地帯らしく葦が生えており、川は、表題通り利根川だと思われます。

それでは、この画がどこを描いたものなのか、まずは、現在の国土地理院の地図をご覧ください。これに主だった路線と駅を入れてみます。

さらにこれに、この画が描かれた数年後の明治初期の比較的正確な地図をかぶせてみます。地下鉄東西線の線路あたりは、当時まだ海で、縦に流れている川は、左から、隅田川、中川、江戸川になります。しかし当時は、中川も江戸川も、両方とも利根川とも呼ばれていた時期がありました。これが場所特定を複雑にしています。とりあえず、この地図に有力な候補地を3ヶ所、赤い点線で囲って紹介しておきます。

次にもう少し大きな地図を使って、二つの川が利根川と呼ばれる所以になった、幕府の事業を大まかに説明します。これにも上から明治初期の地図をかぶせていきます。

先ず、徳川家康が、江戸幕府を開いた頃は、新河岸川、荒川、利根川は、川筋を何度も変えてはいるものの、ほぼ江戸湾に注いでいました。つまり、埼玉に降った雨、秩父に降った雨、上越国境に降った雨、これらが全部江戸湾に流れてくるため、江戸の町は洪水被害に悩まされていました。

そこで、幕府は利根川の水を分水しながら徐々に東へ移して行きました。その過程で利根川は、一時中川に、一時は江戸川になっていました。最終的に、利根川本流は、鬼怒川、小貝川を加え、現在のように銚子に流れ込むように付け替えられました。とても大雑把ですが、これが利根川東遷事業です。江戸川も中川も「利根川」だったわけですね。しかし、広重が暮らした江戸末期頃には、利根川といえばだいたい江戸川を指し示している場合が多かったようです。

広重は、この画を描く前に絵本江戸土産で、同じ利根川ばらばら松を描いています。そこでの解説で、「坂東いちの大河で、坂東太郎という異名を持つ利根川」と書いています。ということはやはり江戸川の護岸にばらばらに植えられた、松だと思われます。

また、地誌『江戸鹿子』や『江戸砂子』には、中川にあったばらばら松の記述も出てきます。しかし、それが何処にあったかという具体的な地名までは出てきません。近年の著名な浮世絵研究家の著述に依れば、江戸川河口付近で同じ景色を見たという古老の証言が書かれてあり、注目を集めています。

大正8年に、江戸百が描かれた場所を写真に納めた、「今昔対照江戸百景」が刊行されていて、その中にもばらばら松が写真として掲載されています。「浦安より南へ15-6丁進めば実景を目にすることができる」としてあるので、実際に行ってみました。

行った場所は浦安市富士見町、そこから対岸と上流を見てみました。

今では弁才船ではなく、モーターボートが行き来しています。もちろん、松はありません。

右一番奥の橋の向こう側が妙見島です。研究者達の一部が主張する、広重の画の中の対岸に当たる部分です。
地図では、赤いグラデーションで示しました。

これは、もう一つの候補、旧今井橋袂から北側を見た写真です。ここでも松は存在しません。

旧江戸川にかかる、今井橋方向を見た写真です。この橋のずっと先が妙見島になります。

「今昔対照江戸百景」から推測した、浦安市富士見町からの写真を、広重の画の中にはめ込んでみます。
薄と川鵜と背高泡立草の向こう側に、ただばらばらに植えてあった松の木を想像してみてください。ひょっとしたら、ここも違う場所かも知れませんが。

中川は、現在のJR東北線栗橋駅の東南1.5kmぐらいの、権現堂というところで、利根川に繋げられましたが、現在は繋がっていません。江戸川は、さらにそこから5kmほど進んだ関宿で利根川と繋がっています。ここでは、今でも利根川と江戸川の分流部分を見ることができます。

この写真は、晩秋に利根川と江戸川が別れる関宿の分岐点から、上越国境方面を望んだものです。遠くに雪山が見えていますね。

江戸を洪水被害から守るための利根川の東遷事業は、元和7年(1621年)から始まりました。これはこれで驚きなのですが、それに伴い、隅田川はもちろん、中川、江戸川にも河川改修に伴う護岸工事が必要でした。そのための堤防強化にたくさんの木が植えられました。この植栽は桜が基本で、河口近くでは松も数多く使われていたようです。浮世絵をみていくと、水辺を描いた作品には、必ずと言っていいほど松が出てくるのは、そのためなのかも知れません。ですので、ばらばら松、という場所は、これ以外にも、もっともっと沢山存在したのかも知れませんね。

072
はねたのわたし辨天の社
=はねたのわたしべんてんのやしろ
Haneda Ferry and Benten Shrine.

072私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
072の「はねたのわたし辨天の社」は、渡し船の船頭越しに羽田弁財天方向を見た景色になっています。

先ずこの場所がどこにあるのかということを確かめるため、Applemapからご覧ください。江戸城から、真南へほぼ17kmほど下ったあたりです。
羽田空港の南の入口あたりですね。

さらに拡大して、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみました。羽田6丁目の海老取川にかかる弁天橋のたもとあたりから見た景色ですね。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。先ず目につくのが上の方にある船頭の毛むくじゃらの手です。海岸線の向こうには浦賀と、房総の山並みが重なって見えていて江戸湾には、大型の弁才船が二艘、近景にもう一艘描かれています。その二艘の弁才船に挟まれて描かれているのが沖合の常夜灯で、弁財天にあったものとは別もので、黒船がやって来てから、海上防衛のために急遽沖合に作り上げたとものです。

左には、松林に囲まれた羽田弁財天が描かれています。これは、多摩川が運んだ砂でできた州である扇が浜の要島にあったため、要島弁財天とも呼ばれていました。地元の漁師達から厚い信仰を受けた、馴染みの弁天様でしたが、実際にはもっと遠くにあったものを広重は、構図的にかなり近くに寄せて描いているようです。

弁財天の脇には、網を干した船が一艘、他に小舟が二艘描かれ、周りには葦原が広がっています。実際にこの多摩川の河口付近は、広大な葦の生えた、砂の多い湿地だったようです。

船頭の足下の水辺は多摩川で、このあたりは当時、「六郷川」と呼ばれていました。この渡しは、今の弁天橋の袂あたりにあり、ここから川崎側に渡っていました。

ここで、広重が描いた絵本江戸土産の三編をご覧ください。東海道を江戸からやって来た旅人は普通、六郷の渡しで、玉川を渡っていました。

しかし、その途中の大森から羽田道を羽田まで来て、羽田の渡しから大師河原まで行く方法もありました。しかし、この場合の羽田の渡しは、別名「六左衛門の渡し」と呼ばれたもので、広重の描いた「はねだの渡し」より上流、今の大師橋の辺りにあった渡しのことを指します。広重の描いた船頭の操る渡しは別名大師河原の渡しとも呼ばれ、その旅人の主な目的は、穴守稲荷、羽田の弁財天経由で行く、弘法大師の平間寺、つまり川崎大師へのお参りでした。

さらに、広重は江戸近郊八景の内で、羽根田落雁のタイトルで、羽根田弁財天を大きく描いています。
羽田村の東側には海老取川があり、そこに古い船の底板で作った橋が架かっていました。その橋を渡って、葦と萱だけの生えた荒磯の細い道を行くと、羽田の森がありその中に羽田の弁天様が南に面して建っていました。
最初は陸地から離れた州だった要島の中にお経を書いた石垣で囲んで建てられましたが、玉川の砂の堆積と漁師の埋め立てにより、陸続きで行けるようになったようです。
この羽田弁財天は、弘法大師が開創した山から流れ着いた宝珠を、羽田の漁師が網で掬いあげて祀ったのが始まりとされています。

江戸土産の絵の解説には、本尊は神奈川県江ノ島の弁天様と同体で弘法大師作だとされていて、宝永八年(1711年)海誉上人が勧請したとされています。
1818年に書かれた文書には、「弁天の社は高く築かれた石段の上に立ち、東の僧坊の庭に常夜灯が立っていた」とあります。これだけ資料が残っているということは、漁師の信仰も厚く、よほど風光明媚なところだったのではないかと想像されます。

さて、実際にこの場所に行ってみました。しかし、弁天橋しか見えていません。

弁天橋から少し玉川寄りによると、景色が開けてきます。描かれた辨天の社は、赤い鳥居の後方、右からの堤防がぶつかったあたりにありましたが、今は移動しています。その後ろ側のビルが、羽田空港第3ターミナルです。右側の高い橋が新しくできた、多摩川スカイブリッジです。

この写真は、そのスカイブリッジから、広重の視点方向を見た写真です。正面がその視点となる海老取川と多摩川の合流点です。その右に赤い鳥居が見えています。辨天の社は、右側の赤信号が見えているあたりにありました。

川崎方面にカメラを振ってみました。

これが、旧羽田猟師町に移転した辨天の社です。今はちょっと寂しいですねえ。

今度は、国土地理院の地図で、辨天の社と広重の視点をご確認ください。
羽田は中世から漁村でしたが、江戸時代後期に入ると多摩川に面した一帯は魚貝類が豊富に採れたため、羽田猟師町と呼ばれる漁業専業の町となり、たいへん賑わっていました。

羽田の地名は、飛行場とは関係なく、海老取川を境に2分されたその土地の形が海上から見ると鳥が羽を広げたよう見えたからだと言われています。1881年の地図を用意しましたが、そんな風に見えますか?
辨天の社があった要島と呼ばれた海老取川の東側を、羽田猟師町の名主、鈴木弥五右衛門が中心となって天明年間(1780年代頃)から埋め立て開墾してきて、この頃には、鈴木新田と呼ばれていました。

その後もどんどん埋め立てが進み、羽田運動場や羽田海水浴場が開設され、羽田は海辺の行楽地として賑わっていきました。1913年には京浜電気鉄道(現京急)が、穴守稲荷まで延伸され、交通の便もよくなり、さらに発展していきました。

1931年には、鈴木新田北側に羽田飛行場が開設され、名実共に羽田の名前が全国に広まっていきました。
しかし、1945年8月のある日、進駐したアメリカ軍による突然の空港接収と拡張が決定し、海老取川より東の住民約1,200世帯、約3,000名が48時間以内に強制退去させられるという、衝撃の事件が起こりました。

1947年の空撮写真をご覧ください。以前は人が暮らす町として存在した、羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町の部分がことごとく破壊されているのがわかります。

もう少し周りまでわかる空撮写真です。

ここは、強制退去事件があった場所です。1952年にはアメリカ軍から日本に返還され、日本の空の玄関口、羽田国際空港となりました。その後空港の移転拡張のために取り壊され今はこんな状態です。しかしここは、紛れもなく1945年まで、実際に約3000人が暮らしを営んでいた町があった場所です。

返還され、旧羽田国際空港になった頃の空撮写真です。

これがさらに拡張移転が進み、3つのターミナルを持つ現在の羽田空港の空撮写真です。

旧羽田国際空港あたりを多摩川スカイブリッジの上から見渡したところです。今では、辨天の社はもちろん、穴守稲荷、民家など、暮らしの見える建物は、何ひとつもありません。

実際に現在の景色を広重の画にはめ込んでみました。
この赤い鳥居は、昭和初期に穴守稲荷神社で建立されたものです。戦後進駐した米軍により、海老取川の東側の住居はすべて取り壊されてしまいましたが、この大鳥居だけは、取り壊しを免れ、二度ほどの移動を経てこの地に残されました。広重がここでこの画を描いたときには、その後よもやこの地で、そんな哀しい出来事があろうとは、想像すらしなかったでしょう。
今では、世界平和を願う鳥居として、神額には平和の文字が刻まれ、その下には平和の鐘が吊されています。

073
市中繁栄七夕祭
=しちゅうはんえいたなばたまつり
The city Flourishing,
Tanabata Festival.

073

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
073の「市中繁栄七夕祭」は、京橋あたりから見た江戸の七夕祭の風景を描いています。

広重がこの画を描いた場所は、広重の自宅の物干し場だと言われています。広重はこの頃、大鋸町(おがちょう)というところに住んでいたのですが、その場所は、今の京橋1丁目あたりです。その場所を地図でご確認ください。

江戸城天守から見るとちょうど今の東京駅の裏側、駅から東北東へ500メートルほどの場所になります。

もう少し地図を拡大するとわかりますが、旧ブリジストン本社、今のアーティゾン美術館のほぼ真南の路地あたりになります。ここに広重の視点であろう場所を、赤いグラデーションで示してみます。

ここに当時の絵地図をかぶせてみます。今の首都高速は堀割で、東京駅に向かう八重洲通りも一部堀割だったことがわかりますね。

今では、七夕は織り姫と彦星の夏のお祭りとされていますが、そもそも中国の陰陽五行説に由来する、節句と呼ばれる季節の節目のひとつでした。年間にわたり様々な節句が存在していましたが、そのうちの5つを江戸幕府が公的な行事・祝日として定めました。

人日(じんじつ)1月7日は七草の節句で、七草がゆをいただきます。

上巳(じょうし)3月3日は桃の節句・雛祭で、菱餅や白酒などをいただきます。

端午(たんご)5月5日は菖蒲の節句で菖蒲酒をいただき、菖蒲湯にはいります。
関東では柏餅、中国や関西ではちまきなどもいただきました。

七夕(しちせき)7月7日は笹の節句で、通称七夕(たなばた)や、星祭りと呼ばれ、裁縫の上達を願い素麺がたべられました。このあたり、織り姫の影響があるのかも知れませんね。

重陽(ちょうよう)9月9日は菊の節句で、菊を浮かべた酒などをいただきました。

しかしこれらは、旧暦に則って行われたので、今のカレンダーにするとひと月ほど遅れていました。七夕は8月15日前後なので、夏のお祭りではなく江戸庶民は夏の終わり、秋口のお祭りという認識だったようです。

さてここで、当時の浮世絵に残された七夕の絵をご覧ください。
七夕が近くなると江戸の町には笹竹売りが登場し、それを物干し台や庭に立てるのは7月6日の夕方と決まっていました。身分や貧富に関係なく、その前に飾りものを作ったり、それを笹竹に吊したりと、江戸市民は準備も楽しんでいました。
七夕が庶民に広まっていくなかで、短冊に願い事を書くのも江戸時代あたりから始まったようです。飾りは短冊だけではなく、それぞれ謂れのあるものを吊し、その笹をできるだけ高く掲げるのがいいとされていました。

「吹き流し」は、織姫の織り糸を表したもので、魔除けの意味もありました。
和紙で作った着物、紙衣(かみこ)は裁縫上達と、着るものに困らないようにという願いが込められていました。
網(あみ)飾りは大漁を、そろばんや大福帳は商売繁盛を、筆や硯は習字の上達を、ひょうたんは無病息災を、スイカは豊作を祈願していました。

江戸の空を覆うようにたなびいていた笹竹は、七夕当日の7月7日中、もしくは翌日にはきれいさっぱり片付けられました。まさに一晩だけの星祭りですね。お供え物も笹竹も川や海に流し、穢(けがれ)を払い清めたのは、お盆の風習と関わりがあると言われています。

それでは広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず上部には、空を広くとってあって、笹に吊した七夕飾りがたくさん描かれています。短冊、吹き流し、ひょうたん、杯など、思い思いの願いが天に届くように吊されています。

下の方まで見ていくと、街には林立するかのように笹竹が立てられているのがわかります。遠くの富士山も、バランスのためか、かなり大きく描かれています。富士山下の森らしきものは麹町と九段の丘で、その右横には、江戸城も小さく描かれています。

江戸城の下には、小さく火の見櫓が描かれていますが、これは、元定火消屋敷の同心だった、広重が勤務した八代州河岸(やよすがし)の火の見櫓です。
この八代州河岸は、現在の八重洲という地名の元になったものですが、江戸時代には、和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠沿いを指していました。つまり今の丸の内のあたりです。1600年に漂着したオランダ人航海者、ヤン・ヨーステンに由来するとされています。

おびただしい数の笹竹と民家の手前には、大きな白い蔵が数棟描かれていますが、これは当時「京橋の四方蔵」と呼ばれた、江戸で有名な南伝馬町三丁目の商家ではないかと言われています。広重が住んでいた家は、安政の大地震の際に、この蔵のおかげで延焼を免れました。ただし、実際の蔵は黒い色をしていたようなので、広重が意図的に書き違えたようです。

実際にこの場所に行ってみました。
広重の視点から見上げると、目の前に大きなクレーンが静かに動いていました。ここは今、戸田建設本社ビルの建設工事中です。中央通り側には、三井ガーデンホテルが、その先には、東京駅前にできたミッドタウン八重洲がそびえ立っています。右に少しだけ見えているのがアーティゾン美術館です。
実際の広重の視点は、もう少し左寄りの京橋エドグラン方向なのですが、ここからでは何も見えません。

少し南にズレると、かろうじて中央通りまで見渡せますが、低い位置では何も見えません。

広重の画に、実際の景色をはめ込んでみました。
たくさんの笹竹が1本の巨大クレーンに変わってしまった、というような印象の画になっています。

そこで、Googleストリートビューと、雪のない夏の富士山の絵を合成して、今風の七夕祭を作ってみました。どうでしょう、平和な絵に見えますか?

広重は当時、ほぼ自宅の二階で絵を描いたりしながら、一日を過ごしていたという記録が残っています。ですので、毎日この景色を見て暮らしていたことになります。
広重の自宅は運良く類焼を免れましたが、江戸の町は、安政の大地震で、壊滅的な被害を受けました。そして1年半後、7月6日の夕方に、広重は自宅二階から、この空高く掲げられた七夕飾りが舞う景色を見たことになります。それはそれは、嬉しかったことでしょうねえ。これでやっと江戸の町に、もとの平和が戻ってきたと感激したことでしょう。
しかし時代は、これから意外な方向にねじ曲がっていくことになります。

074
大傳馬町こふく店
=おおてんまちょうごふくてん
Silk-goods Lane
in Ohtenmacho.

074

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
074の「大傳馬町こふく店」は、奥州街道にあった大丸屋前を棟梁送りの一行が通っている様子を描いたものです。

最初にこの場所がどこを描いたものなのか、地図でご確認ください。
ほぼ江戸城から見て東、現在の東京メトロ小伝馬町駅からほぼ2ブロックほど東に行ったあたりです。

絵で上下(かみしも)を着た棟梁送りの一行が歩いている道路は、現在大伝馬町本町通という名前で、今は小路のようになっていますが、当時は江戸五街道のひとつ、奥州街道でした。
当時、実際の地名は「通旅篭町」でしたが、大丸ではネームバリューのある大傳馬町を使い、大傳馬町三丁目と呼んでいたそうです。
広重の視点を赤いグラデーションで表し、当時の絵地図をかぶせてみました。それをよく見ると、南側の裏通りが大丸新道と表記してあります。如何に大丸の影響が大きかったのかがわかりますね。

では、実際の画を詳しく見ていきましょう。
左の建物が大丸屋呉服店、その右を歩いてくるのが棟梁送りの行列です。この直前にどこかの武家の上棟式を終えて、大丸屋にさしかかっている様子です。

当時、上棟式の後、現場から棟梁の自宅まで練り歩く「棟梁送り」が行なわれていました。先頭がかついでいる幣串は上棟式の際に飾られる祝い柱で、長さが3mほどありました。柱の先端に鏡と日の丸の扇、御幣を付け、その下に櫛、手絡と呼ばれる髪飾り、当時のヘアピースである「かもじ」と五色の布を飾ったものです。これら髪結い道具は古代に若い女性を人柱にした習わしの名残だといわれています。

後でかつがれているのは大きな鏑矢で、縁起物の鶴と亀が対になっています。これは、建築現場で鬼門の邪鬼を払うために飾る、破魔矢の役割をしていました。

実はこの画は現代で言う、販売促進用の広告として描かれました。
これ以外にも広重は、江戸百シリーズで依頼されて描いたであろう広告用浮世絵を何枚か描いています。その広告費用は、版元である魚栄の貴重な収入源になっていました。
それを時間順に追ってみます。

8景 する賀てふ 安政3年(1856)9月発行
越後屋
現在の日本橋三越
現在は、伊勢丹と合併して、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する百貨店となっている。

13景 下谷廣小路 安政3年(1856)9月発行
伊藤松坂屋
現在の上野松坂屋
現在は、大丸と合併して、J.フロントリテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する百貨店となっている。

7景 大てんま町木綿店 安政5年(1858)4月発行
田端屋、升屋、嶋屋
現在の野村不動産日本橋本町ビル
現在は、オフィスビルとなっており、3店舗とも閉店と思われる。

74景 大傳馬町こふく店 安政5年(1858)7月発行
大丸屋
現在はオフィスビル
現在は、松坂屋と合併して、J.フロントリテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する百貨店となっていて、大阪心斎橋が本店。現在東京駅八重洲には、駅に隣接した大丸東京店がある。

44景 日本橋通一丁目略圖 安政5年(1858)8月発行
白木屋
現在のコレド日本橋
1956年(昭和31年)に東急の傘下に入り、東急百貨店日本橋店を経て、この場所は現在、オフィスビルを兼ねたコレド日本橋になっている。

広重は、江戸名所でも大丸を描いています。
もともと大丸は、1717年(享保2年)に下村彦右衛門正啓が京都伏見の生家に古着商「大文字屋」開業したのが始まりです。

その後、大坂、名古屋、京都に店を出し、1743年(寛保3年)に江戸日本橋通旅篭町に江戸店(えどだな)開店しました。広重がこの絵を描いた頃には、越後屋、白木屋、大丸屋で、江戸三大呉服店として、名を馳せていました。

しかし、明治になると、道路の整備が進んで少し様相が変わっていきます。今まで、大丸屋の目の前の奥州街道が、今の江戸通りに移り、メインストリートではなくなっていきます。

その後、鉄道の発展とともに人の流れも変わり、大丸屋は1910年(明治43年)に167年間大伝馬町で営業していた東京店を閉鎖し、関西に拠点を移していきます。大正8年に発行された本に掲載されている写真は、既に運送会社のビルになっています。

そしてこれが現在の大丸屋があった場所です。大伝馬町から横山町にかけては、相変わらず繊維会社がたくさん存在していますが、大丸屋の跡地にも繊維問屋のビルが建っていました。もちろんメインストリートではなく、今は裏路地です。

実際の広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。
当時、あまりにお金がかかるので、1年ごとに交代で行われていた大江戸二大祭の神田祭と山王祭。そこで一番大きな山車を、毎年先頭で出していたのが大伝馬町でした。大伝馬町の呉服屋が当時の江戸の経済を動かしていた、というのがよく分かりますね。

現在の写真を見ると盛者必衰をイメージしてしまいます。しかし、一度東京から撤退した大丸は現在、大阪駅前ビルと、再開発が終わった東京駅八重洲口にメインテナントとして入っています。
広重の描いた町は、明らかに動いていますね。

075
神田紺屋町
=かんだこんやちょう
Dyers' Quarters in Kanda.

075

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
075の「神田紺屋町」は、染物職人の町であった紺屋町の物干しから吊された生地越しに見える、富士山を描いたものです。

最初に、この町の位置をお確かめください。
当時の江戸城天守閣から東北東へ約2.5km。今のJR神田駅からほぼ東に200mぐらい行った場所に染物職人の町がありました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。今でも昭和通りと神田金物通りの交差点に、紺屋町という交差点名が残されています。広重は、おそらくこのあたりから神田駅南口方面を見た景色を描いたのだと思われます。その視点を赤いグラデーションで表してみました。

この地図に古地図をかぶせてみました。古地図の紺屋町の北側には、細い水路が確認できますが、これが藍染川で、染められた反物は、ここで水に晒されて染料を落とし、製品になっていきました。

紺屋町は、幕府から関八州と伊豆から藍の買い付けを許されていた、土屋五郎右衛門が紺屋頭として支配していた染め物職人の町でした。紺屋とは、もともと藍染め専門の職人のことでしたが、この頃になると「染物屋」全体を指し示す言葉になっていました。

武蔵野に自生するムラサキソウを使って、江戸で染めたことから名付けられた「江戸紫」が人気になり、それをさらに藍で染めた鉢巻を、歌舞伎の人気演目である助六が頭に巻き演じたことから、さらに人気を得ました。粋で洒落た染め物で人気となった神田紺屋町ですが、紺屋町以外で染めたものを「場違い」と呼んで、区別する言葉も生まれました。

紺屋町といえば、実話を元にした古典落語「紺屋高尾」が有名ですね。
神田紺屋町の染物屋吉兵衛の奉公人である久蔵は真面目一筋。そんな久蔵が花魁道中で、一目惚れした、三浦屋の高尾太夫に会いたい一心で、3年間飲まず食わずでお金、3両を貯めて春日部の由緒ある大店の息子という触れ込みで吉原に会いに行きます。

高尾太夫が最初に社交辞令で次はいつ会えるかと尋ねると、久蔵は泣き泣き、藍で染まった手を見せながら正直に自分の正体を明かしてしまいます。これを聞いた高尾も涙ぐみながら、自分を三年も思ってくれたことが嬉しい、来年の三月十五日に年季が明けるのでその時に女房にしてほしいと切り出します。

実際に三浦屋代々の名跡である「高尾太夫」は、11代ほど続いたのですが、この話の元になったのは、五代目の駄染め高尾と呼ばれる人物でした。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁ぎ、駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、その手拭は当時の遊び人の間で大流行しました。五代目以外の高尾太夫は、いずれも悲惨な余生になってしまったのですが、五代目の高尾だけは、3人の子どもを産み、80歳を越えるまで生きたといわれています。

実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
先ず目につくのが、高く櫓を組んだ物干しから吊る下げられ、風になびいている藍染めの生地です。紺屋町らしく、藍色に染め抜かれた浴衣地には、版元である魚栄の「魚」の字と、広重の「ヒロ」をデザイン化した模様が染め抜かれています。

遠景には、夏の夕焼けの富士山、その周りには丹沢と秩父の山々が前後に描かれています。その手前が緑に囲まれた江戸城の櫓と蔵や江戸の街並みが描かれています。
左側には、当時流行っていた大八の車輪模様と、伝統的な藍の市松模様が染め抜かれた生地が風にたなびいています。

その下は、火事の多かったため火除け地として幕府に接収された場所です。火除け地は、防火設備であるため本来建築物は御法度でしたが、時代が進むにつれ、火事のとき直ぐに撤去できる葦簀作りであれば、建物を設置することが認められていました。

実は、同じ題材の画を数年前に葛飾北斎が富嶽百景で、描いていました。神田紺屋町は、北斎の富嶽シリーズに並々ならぬ対抗心があった、広重ならではの、完成形ではないかと言われています。実際に私は、「深川洲崎十万坪」や「大はしあたけの夕立」に次ぐ傑作だと思っています。

実際にこの場所に行ってみました。
撮影地点の真後ろが昭和通り紺屋町の交差点です。目の前の道路は、神田金物通りで先の信号が今川橋です。その先は神田駅南口で、ガードをくぐって左に進むと龍閑橋で、江戸城外堀に突き当たります。

ずっと先の高層ビルは、逓信博物館が建て変わった、大手町プレイス、NTTの大手町ビルと、大手町フィナンシャルシティです。

広重の画に現在の景色をはめ込んでみました。高さ的にも大きさ的にも全く合わないのですが、大手町のビル群の後に夏の富士山を合成してみました。
今、神田や紺屋町界隈には、染物屋さんは一軒も残っていません。都市化と藍染川の埋め立てにより、紺屋町の職人達は神田川、妙正寺川の畔に移転して行きました。しかし、現在では化学染料の振興と染色方法の多様化により、水道さえあれば染料を洗い流す川さえも必要なくなってます。

もともと藍染された生地や衣類は、防虫効果や消臭効果などがあり、そのちょっと使い込んだ色も重宝されていました。紺屋高尾とたなびく浴衣地を干す光景は、どんどん変化しているようですね。

参考:新宿染織協議会
https://tokyo-somemono.com

076
京橋竹がし
=きょうばしたけがし
Bamboo Yards at the Kyobashi Bridge.

076

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
076の「京橋竹がし」は、京橋を江戸城側から見た景色を描いたものです。

最初に、この橋の位置をApplemapでお確かめください。江戸城天守閣から南東へ約1.5kmほど、今の地下鉄銀座線京橋駅の南側あたりです。

もう少し拡大した地図に、京橋があった場所を紫色で示し、さらに広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみます。

これに当時の絵地図をかぶせてみます。京橋川が、ちょうど橋のあたりで少しずれた状態になっているのがわかります。今は、この京橋川にそって、東京高速道路が被さっています。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
全体を見ていくと、どうやら夏の夕暮れ、ちょうど月が出始めた頃合いに江戸城側から京橋越しに、竹河岸と呼ばれている京橋川の岸辺を見た画になっています。

画の上の方には、出たばかりの月がぽっかりと浮かび、左側には、竹が壁のように立てかけてあります。冷静に見てみるとすぐに気づくのですが、その竹の長さといい、橋の高さといい、かなり上下に誇張された画になっていて、面白いですね。

橋の中程には、擬宝珠が描かれているのがわかります。江戸の橋の中で、この擬宝珠が飾られた橋は、日本橋と新橋とこの京橋だけで、公儀橋と呼ばれた、江戸幕府が管理する橋でした。この擬宝珠は、釈迦の骨壺である宝珠から来ているとされています。また一方で、葱坊主が変化した当て字であるともされ、ネギのもつ独特の臭気が魔除けにもなると信じられてきました。
今でも、橋はもうありませんが、擬宝珠で飾られた京橋の親柱が、現地に残されています。

橋の右側には、今帰ってきたばかりの大山詣の一行が描かれています。当時、伊勢参りも流行っていましたが、この大山詣がお手軽で、数日で行ってくることができることから、町内で、講を立てて出かけるのが流行していました。行きは、今のほぼ国道246号線、旧大山往還を通って、溝の口、鶴間を抜けて大山に向かいました。帰りは伊勢原から江ノ島の弁天様にもお参りし、神奈川などを抜けて、東海道で帰ってくるのが多かったようです。広重の画は、ちょうど夕暮れに京橋に到着した、どこかの講の一行を描いています。
一緒に広重が描いた、大山詣の一行の姿と江ノ島の様子もご覧ください。

京橋を渡った北東側は、竹河岸と呼ばれていました。このあたりは竹屋町や竹町と呼ばれ、たくさんの竹問屋や竹職人の住まいが軒を連ねていました。当時竹は天井材や壁材、垣根などだけでなく、道具としてもさまざまなものに加工され、身近にあって、軽くて加工性の高い素材として、とても重宝されていました。

竹は主に千葉や群馬から、筏に組まれ運ばれてきました。竹河岸の前には、まだ解かれていない竹の筏が浮かんでいます。
さらによく見ると船頭が操る船の荷物には、竹製品が積まれています。

竹河岸から京橋を挟んで、反対側は、大根河岸と呼ばれた青物市場が形成されていました。大根河岸は明治期には京橋大根河岸市場として正式認可され、築地市場が開設される昭和初期まで青果市場として繁栄していました。川瀬巴水が、そこを描いているのでご覧ください。右側の画で、川の向こうに随分小さく描かれているのが京橋です。これを見ると、広重が如何に誇張して描いていたのかが判って、ちょっと笑ってしまいますね。

さていま、この場所がどうなっているのか、行ってみました。
ちょっとびっくりですが、これがその写真です。
1959年(昭和34年)京橋川は埋め立てられ、それに伴い京橋も撤去されました。京橋川の上には新しく東京高速道路が作られ、その下が写真のような店舗となり地下は、駐車場になっています。この写真は、ほぼ広重が描いた地点からのいまの景色なのですが、もう過去の面影は全くありません。

銀座側から見た橋のたもとには、1874年(明治7年)に金杉橋との間に設置したガス灯が復元されて立っています。

これが今はない京橋越しに見た銀座で、ここから先は、週末になると、歩行者天国になります。

中央通りの逆側は日本橋まで見通せて、直近の交差点が京橋という名前になっていて、その先の地下には、地下鉄銀座線の京橋駅があります。

実際に広重の画に、いまの京橋の画をはめ込んでみました。空すら見えておらず、なんだか唖然とするようなものになってしまいましたが、これが今の姿です。
空から覆い被さる高速道路の冷たい鉄骨が、恐ろしいほどの圧迫感を感じさせ、この下には、水ではなく鉄の車が停滞しています。広重が描いた昇る月も、巴水が描いた昇る朝日も、ここからはもう見ることはできません。

 

077
鉄砲洲稲荷橋湊神社
=てっぽうずいなりばしみなとじんじゃ
Inaribashi Bridge and Minatojinja
Shrine at Teppozu.

077

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
077の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」は、越前堀に流れ込んでいた八丁堀を河口側から描いたものです

まず最初にこの画が描かれた場所を現代の地図でご確認ください。
ちょうど八丁堀駅の南東500mぐらいの場所に、川の形がちょっと不自然な形をした場所がありますが、ここですね。そこに赤い丸をつけました。

もう少し拡大した地図をご覧ください。今はここに堀や川などは見当たりませんが、実は、江戸の頃には桜川公園のある場所は東西に八丁堀川が流れていました。地図でも何となく不自然に建物がなくなっているのが確認できますね。

そこで、地図に青い川と黄色い稲荷橋を書き入れてみました。この川は、河口から八丁堀、桜川、楓川、京橋川と、江戸城に近づくに従って名前を変え、江戸城を囲む内堀に繋がっていました。今の東京フォーラム東側ぐらいです。しかし、1959年には埋め立てられ、高速道路、公園、排水施設、下水道に姿を変えてしまいました。

この地図に、広重の視点を赤いグラデーションで表し、当時の古地図をかぶせてみました。河口付近にある赤い三角で描かれている場所が湊神社です。稲荷橋の北側には高橋があり、その下に流れているのが、松平越前守の下屋敷を囲むように掘られた越前堀で現在の亀島川です。

越前堀の南側は、東に佃島しかなく当時はもう外洋で、ここから芝浦あたりまでは、江戸湊と呼ばれ、江戸幕府の重要な港湾施設でした。
徳川家康が江戸に来た頃は、日比谷の入江が江戸城近くまで入り込み、その頃にこのあたりは鉄砲の形をした、弓なりの大きな隅田川の砂洲でした。鉄砲洲と呼ばれたこの砂地はその後整備が進み、江戸城から地続きになるぐらい埋め立てられ、本湊町や明石町などの町が形成されていきました。

ここで、このあたりをちょっと俯瞰で描いた江戸名所図會があるので、細部までご覧ください。左下から八丁堀が流れてきて稲荷橋を越えると左横から来る越前堀と合流して、大型船の停泊する江戸湊となります。左上部からは隅田川が流れ込み、永代橋を越えて右側に行くと佃島にぶつかり、二股に分かれます。
位置関係を判りやすくするために、この画の中にも広重の視点を赤いグラデーションで表してみました。いかがでしょう。

ここで注目したいのが、江戸湊に停泊するおびただしい数の船です。関西方面から来た菱垣廻船や樽廻船と呼ばれる大型船で、米、藍玉、酒、醤油などが運ばれてきました。この江戸湊までやって来た荷物は、瀬取船や茶船と呼ばれる小型船に積み替えられて、市内を縦横に張り巡らされた堀割を使って、各河岸まで運んでいました。

大型船が主に上方から来るので、その物資を江戸市民は「下りもの」と呼び、品質の高いものの代名詞になっていました。逆に江戸で造られた酒などはあまり美味しくはなかったようで、「くだらないもの」と呼んで区別していました。
広重は、この界隈を描いた他の画でもでもこの大型船の帆柱を、うまく使っています。

これら、盛んに行き来する船の関係者が絶大な信頼を寄せていたのが、別名で「浪ヨケイナリ」と呼ばれた湊神社でした。平安時代創建の古い社で、江戸の初め頃には、京橋川と亀島川の合流する地点にあったと言われています。

1790年には、湊神社境内に富士山の熔岩を用いた富士塚が造られ、本殿より大きな富士塚は、江戸市民の人気スポットとしても有名になっていきました。しかし、広重がこの画を描いた数年後の明治元年(1868年)には、湊神社の土地が収用され、120m程南に移転させられてしまいました。
その他に広重は、湊稲荷神社の富士詣を画にしています。富士塚が海側にあったのが判りますね。さらに沖にはたくさんの大型船が停泊しています。

広重の画を詳しく見ていきましょう。
空の青いグラデーションの下に柱が二本立っていてその柱が二本の縄で固定されています。これは江戸湊に停泊している大型船の帆柱です。縄の上の方にフサフサと垂れているものは、麻でできた帆摺(ほずれ)と呼ばれるもので、帆が風をはらんで膨らんだ時に、縄と帆が擦れても傷まないようにするための緩衝材です。

真ん中の遠景には、江戸城と富士山、銀座方面の建物の屋根がたくさん描かれています。画の左側の赤い塀で囲まれたところが湊神社で、そこにかかる橋が稲荷橋です。
橋の下を流れる堀が八丁堀で、この先、名前を変えて江戸城の内堀に繋がっていました。

今その堀を大型船から荷を積み替えた小型船が、上っていこうとしています。荷物をよく見ると「茶」の文字が読めます。手前の船頭の操る船には酒樽が積んであるように見えます。このあたりの状況を広重は実際に自分の目で確かめたのでしょうねえ。なんといっても、当時の広重の住まいは、ここから歩いても15分ぐらいの所でしたから。

実際に広重の視点となっている場所に行ってみました。左のビル三棟が建っているあたりに、湊神社がありました。正面の街路樹の後にある白と黒の積み木のような建物が桜橋ポンプ所で、ここに稲荷橋が架かっていて、この下に八丁堀が流れていました。
MVI_0237.MP4

ポンプ所の前には、橋があったという銘板だけが、今も寂しく残されています。

ポンプ所の屋上が公園として開放されているので、行ってみました。こんなビルに囲まれた人工芝の公園で、その昔川だった気配は、微塵もありません。

これが移転した、いまでは鉄砲洲稲荷神社と呼ばれている湊神社です。

裏に回ると、こぢんまりとしていますが、富士山の溶岩で造られた富士塚も残っていました。

広重の画に現在の景色をはめ込んでみました。

これではあまりにイメージが違いすぎるので、Googleのストリートビューに夏景色の富士山をはめ込んで、それらしく作ってみました。

のどかで平和そうな江戸の景色はそこにはなく、ビルが建ち並ぶ景色の向こうに富士山が見える、というなんとも情緒のない画になってしまいました。二本の帆柱に囲まれた景色の下側には、その昔確かに水が流れていて、船が往来し、それは江戸の重大な物流ネットワークでした。
今では、川と船に変わって、高速道路とトラックがその役を担い、川は、下水道に置き換わっています。そんな現代の埋め立てや開発は、「下りもの」なのか、「くだらないもの」なのか、ちょっと考えさせられますね。

078
鉄砲洲築地門跡
=てっぽうずつきじもんぜき
Teppozu and Tsukiji Honganji Temple.

078

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
078の「鉄砲洲築地門跡」は、今の築地本願寺を当時の海側から見た景色です。

先ず、この景色がどこから描かれたのかAppleMapからご確認ください。
築地本願寺の南東側、現在の隅田川あたりから見た景色です。広重の視点を赤いグラデーションで表しました。今では、対岸の月島5丁目あたりから見た感じになっていますが、実際には当時、ここはまだ海でした。天保の頃の地図をかぶせてみます。

この地図を見てみると、赤く塗られた本願寺の敷地は、北東側に本堂、南西側に子院がたくさん存在し、現在は、その真ん中を晴海通りが通り、子院のあった場所は、築地場外のお店になったことが判ります。南東側にあった築地川は、現在、駐車場と公園になっています。

ここで本願寺の歴史を調べてみました。
築地本願寺は、京都にある西本願寺の直轄寺院で、当初、浅草浜町にあった西本願寺が、移動再建されたものです。元の西本願寺である「浅草御堂」は、元和7年(1621年)3月に創設されました。場所は、今の都営浅草線、東日本橋駅のあたりです。

しかし明暦3年1月18日(1657年3月2日)に江戸の大半を焼いた大火災が発生します。この、明暦の大火の被害は江戸時代最大で、外堀内側の一部を除く、江戸のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者数は3万から10万人と記録されています。西本願寺もこれより焼失してしまいました。

この大火災で、江戸幕府は江戸の防災体制と都市計画の練り直しを余儀なくされました。このため西本願寺は元の場所での再建を許されず、代替地として八丁堀沖の海上が当てられました。そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き1679年には今の場所に再建され、「築地門跡」と呼ばれるようになりました。この「築地」とは、埋め立て地を意味しています。

さてここで、元の地図にもう一枚、区割りの判る地図をかぶせてみます。赤くなっている部分は、本願寺で、大部分を占める白い部分が大名屋敷です。ここでわずかにグレーになっている部分が、江戸市民が暮らす町屋です。この地図は、広重がこの画を描く50年ほど前の状態で、本願寺移転から築地界隈の埋め立ても進み、港湾都市としての機能も整備されてきました。

さらに、広重がこの画を描いて十数年経った明治初期の地図をかぶせてみます。
この頃になると、赤で示した築地本願寺界隈に、軍関係の施設が増えていることが判ります。
嘉永6年(1853年)の黒船来航後にあわてて幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、日本各地、とりわけ江戸界隈の海上防衛力増強に注力します。それが明治維新後、軍関係の施設に変化していきます。
1869年(明治2年)には明石町に外国人用の築地居留地が設けられ、文明開化の中心地となり、運上所(現在の東京税関)も設けられています。広重の画のちょうど水際のあたりが、その場所です。

ここで広重の画を詳しく見ていきます。
先ず、空の上に大きく張り出した築地本願寺の大屋根が描かれ、その下は霞雲でぼかしてあります。当時この界隈の軍事施設を描くことによって、幕府からお咎めを受けないようにする、広重の工夫です。当時、この築地本願寺の本堂の大屋根は、江戸各地から見られるほど、大きく象徴的な建物でした。

右側が明石町、左が南飯田町の岸壁で、その手前で投網を打つ漁師、今から網を投げようとしている漁師が描かれています。このあたりは、キス釣りで有名な場所で、釣り船も一艘描かれています。

都鳥の横では、どうやら酒樽を運んでいるらしい高瀬舟が一艘川を上っていきます。一番下には、関西方面からやって来た大型船が帆を張って北上しています。

ここで築地本願寺を俯瞰で描いた、江戸名所図會をご覧ください。南側から見た俯瞰図で、左上から右下、海方面に向かう道路は、今の晴海通りです。

広重も三連作で、築地本願寺を今の国立がんセンターあたりから見た俯瞰図として描いています。やはり軍事施設をぼかすため、霞雲が多用されています。左下の門が、今の築地四丁目の交差点あたりで、そこから右上、海の方に向かっている道路が今の晴海通りです。

広重がこの画を描いた7年後に、愛宕山の上から撮った写真です。築地本願寺の大屋根がしっかり写っています。

明治5年(1872年)の火災で被害を受けた大屋根を補修している姿を、采女橋(今の新橋演舞場あたり)から捉えた写真です。

再建を終えた本堂を正面から捉えた写真です。この当時、正面は、今の晴海通りの方向を向いていました。

明治26年、門前にガス灯がついた本願寺正面の写真です。

大正8年に刊行された「今昔対照江戸百景」に掲載された築地本願寺の大屋根の写真です。実際に広重の視点から見た当時の景色のようです。右の白い建物が、東京税関だと思われます。

実際にこの場所に行ってきました。
これがその写真です。茶色いビルの右横に本来なら築地本願寺の大屋根が見えるはずなのですが、全く見えません。

これが今公園になっている、築地川の北側です。

今は駐車場になっている、築地川の南側です。

その駐車場入口からちょっと見える、築地本願寺の屋根です。

これが現在の築地本願寺の正面です。
1923年9月1日の関東大震災後に起こった火災により再び伽藍を焼失。南側の、58の寺中子院は、区画整理により移転、その後築地場外市場になりました。
現在の本堂は1934年に伊東忠太設計の古代インド様式の建物で、正面は銀座側を向いています。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、大理石彫刻がふんだんに用いられた、お洒落な伽藍になっています。
本堂横には、洒落たカフェがあったりしています。

実際に広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。
もちろんですが、本願寺の大屋根は全く見えていません。
広重がこの画を出版したのは安政5年7月で、シリーズ最後の方にあたります。当初、この78景と次の79景は名所江戸百景でなく、付録扱いで「江戸百景余興」となっていましたが、あとから正式に名所江戸百景に組み込まれました。

一方、寛政の改革(1787年~1793年)以後、幕府は、武士だけでなく民衆に対しても出版統制などで思想を統制していた時期でした。特にこの時期には黒船来航などもあり、世の中が相当緊張している時期でもありました。
築地本願寺界隈にある軍事施設を浮世絵に描いたりすると、名所江戸百景全体、出版元も含めて、相当な処罰を受ける可能性もありました。そのあたりを心配して、広重は霞雲を多用して、体制の秘密を暴露するようなものは隠す、という手法に出たのかも知れません。

さらに、築地本願寺は、安政2年の大地震では倒壊を免れたものの、翌年夏の台風による高潮で、大伽藍の倒壊のみならず、周辺の町屋も流され、この頃の築地一帯は復興の真っ最中でした。ですので、広重が見た景色は、描かれた画とは全く違っていました。

さまざまな災害をくぐり抜けてきたこの寺は今、正式名が「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になりました。宗派を問わず外国人などにも開かれた寺を目指すプロジェクトが進められ、さまざまな講座やイベントが催されています。本堂は今、東京のあちらこちらから見えるという存在ではないのですが、見た目も中身も、築地の街の代表的な顔になっていて、親鸞聖人も驚いているかも知れませんね。全体を本願寺正面の写真に差し替えてみました。

079
芝神明増上寺
=しばしんめいぞうじょうじ
Shiba Shinmei Shrine and Zojoji Temple.

079

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
079の「芝神明増上寺」は、今の第一京浜大門交差点付近から、増上寺大門方面を見た景色です。この画は江戸百景シリーズの末期に、江戸百景の付録的な位置づけで、世の中に発表されました。

先ず、AppleMapでこの場所を確認してみます。
地図左の大きな緑色が増上寺です。真ん中あたり、大門の交差点を南北に走る道路が、東海道で、その右側がJR浜松町駅です。
広重の視点を赤いグラデーションで表してみます。

これに当時の地図をかぶせてみました。当時の増上寺がいかに大きかったのかが判りますね。周りを取り囲む赤い部分は、子院と寮です。縦に町名の入った道路が東海道で、今の浜松町駅あたりから先はもう海でした。紀伊殿のお屋敷が今の芝離宮に変わったのが判りますね。

当時、広重は、この増上寺と芝神明を俯瞰で描いた画を描いています。ご覧になると判りますが、道路と主要施設は、現在のレイアウトに近い状態です。
これに建物の解説を入れてみました。いかがでしょう?位置関係がものすごく判りやすくなりましたね。これに広重の視点である赤いグラデーションも入れてみました。

右下の東海道側から歩いてくると、右手に芝神明宮があって、橋を渡り大門をくぐります。大門の手前には桜川が右の溜池から流れてきて、左の古川方面に注いでいました。
大門を超えると、今も残る芝公園の松並木が左右に現れ、目の前が山門になります。
山門をくぐると本堂が現れます。このあたりの基本的なレイアウトは現在と全く変わりませんね。

最後にApplemapのストリートビューをかぶせてみました。大雑把には、広重の描いた位置関係を保っていることが判りますね。

それでは、広重の画を詳しく見ていきましょう。
この画は、78景に続いて題字が「江戸百景余興」となっているのが、印象的ですね。
左側に見える赤い門が増上寺入口の大門で、その後が山門、その奥に本堂の屋根も描かれています。

右側の千木が乗った屋根が特徴的な建物が、飯倉神明宮、俗称芝神明宮です。祭礼は、9月11日から21日まで続き、当時さまざまな薬効があるとされていた生姜市がたつため「生姜祭」とも呼ばれていました。千木とは神社建築の特徴のような屋根飾りのことですが、お祭りの時には、杉の曲げ物を三段重ねて造られた「千木筥」と呼ばれる縁起物がお土産として売られていました。

芝神明宮の周辺には、歌舞伎小屋、見世物小屋、楊弓場、講釈や落語の小屋が建ち並び、江戸南側の随一の盛り場を形成していました。歌舞伎の「め組の喧嘩」で有名な、火消しと力士の大喧嘩が起り、裁判沙汰にまでなったのも、この神明宮境内です。

大門の前には、桜川が流れていて、その橋を渡って、今僧侶が十数人歩いてこちらに向かっています。この一行は、日暮れ近くの七つ刻(午後4時ごろ)になると、江戸市中に托鉢に出かけたため、七つ坊主と呼ばれていました。

この七つ坊主達は、托鉢だけでなく、江戸の警備的な役割もしていたようで、「大道横行するものを、懲らしめることを専らとする」という、彼らを紹介した文書も残っています。

真ん中下には、尻っ端折りに脚絆、菅笠の格好の一行は、地方から江戸見物に出てきた人たちのようです。増上寺のお参りを終え、東海道に戻って、江戸の中心地に向かうようです。

実際にこの場所に行ってみました。この写真のだいたい左半分ぐらいを広重は画にしたようです。このシリーズには珍しく、当時の区割りのまま町が残っていて、赤い大門の後に山門も見えていますが、残念ながら神明宮は見えません。

芝神明商店街の入口から増上寺大門方向にカメラを振ってみました。

これが現在の芝神明宮です。もともと伊勢神宮の食堂的な社で、「飯倉御厨(いいぐらみくり)」とよばれ、最初は今の東京タワーあたりにあったものを増上寺が移転してきたためため、今の場所に移され、「飯倉神明宮」と呼ばれていました。

その後、芝の地に町ができたことから、「芝神明宮」と呼ばれるようになり、明治初期からは、天皇家ゆかりの名前、「芝大神宮」となりました。

これが大門で、1937年(昭和12年)に東京市が市民の寄付を募ってコンクリート造りで改築したものです。左右に走る道路はもと桜川で、交差点には橋が架かっていました。

これが、戦災で唯一焼け残った増上寺の山門で、三解脱門と呼ばれ、元和7年(1621年)の建立で、現在、国の重要文化財に指定されています。この赤い門をくぐると、3つの煩悩から解脱できるとされています。3つの煩悩とは、貪(とん=むさぼり)瞋(じん=にくしみ)癡(ち=おろかさ)のことです。さて、実際に解脱できるかは、是非ご自身でお試しください。

これが現在の本堂で、9世紀、空海の弟子・宗叡が今の千代田区麹町・紀尾井町あたりに建立した浄土宗の光明寺が前身だといわれています。
その後、徳川家の菩提寺となり、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移されました。風水学的に、寛永寺を江戸城の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられています。
本堂の後には、東京タワーが見えていますが、その後にある高層ビルは現在、麻布台一帯の再開発で、麻布台ヒルズが建設されている工事現場です。

さて広重の画に現在の景色をはめ込んでみました。
芝神明宮は、ビルの陰で見えていませんが、道路位置的に現在も当時の状態を保っています。本来はりそな銀行の後ぐらいに、千木を屋根に乗せた芝神明宮がみえるのですが、みえていませんね。

江戸末期、江戸湾に黒船が現れてから、京都朝廷と江戸幕府、その藩幕体制のパワーバランスが崩れていく中、市民の間でも何となく、徳川の時代が終わるのではないか、と思われていました。広重がこの画を描いた数年後、天皇家を担ぎ上げた薩長連合が「明治維新」という名前のクーデターを成功させます。広重の画は、徳川家菩提寺の総門である大門を半分にトリミングして、天皇家ゆかりの「関東のお伊勢さん」と呼ばれる芝神明宮が、本来の位置より大幅に張り出して描かれています。

増上寺の七つ坊主より、同じ人数の一般庶民が手前で大きく描かれています。私は、このあたりから、絵師広重の総合的な時代感覚を感じてしまいます。

080
金杦橋芝浦
=かなすぎばししばうら
Kanasugibashi Bridge and
Shibaura Inlet.

080

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねて見てみました。
080の「金杦橋芝浦」は、今の第一京浜金杉橋付近から、ほぼ東北東、海の方向を見た景色です。広重の頃には、この橋からすぐに海が見える状態でした。

まずは、Applemapで、この画がどこから見て描いたのかご確認ください。
金杉橋は、JR浜松町駅の南西あたり、今の第一京浜、昔の東海道が古川を跨ぐための橋です。

これに広重の視点を赤いグラデーションで入れ、さらに当時の地図をかぶせてみます。赤く大きな敷地が増上寺で、白い部分が武家屋敷です。ここでグレーになっている部分が町屋エリアで、町人達が暮らしていました。金杉橋の南側が金杉、今の芝一丁目あたりで、その南側、小さな小川を渡った先が本芝、今の芝四丁目あたりです。天正18年(1590年)徳川家康が江戸にやってきた頃は、この二つの集落は10人ほどの漁師が暮らす海に面した寒村でした。

その後、江戸湊で家康の御座船が座礁したのをこの漁民が助けたことから、褒美として家康から日本中のどこで魚を獲ってもよいという許可をもらいます。また、このあたりの海は昔から貝類、ウナギ、芝海老、カレイ、黒鯛などが獲れる豊かな漁場で、ここの魚市場は江戸庶民から「雑魚場(ざこば)」の愛称で呼ばれて発展していきました。
地図を少しあげて南の方まで表してみました。

そこであの有名な落語の「芝浜」が誕生します。
魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、失敗ばかりの貧乏暮らし。その日も女房に朝早く叩き起こされて行った、芝の浜で大金が入った革の財布を拾い、自宅に飛んで帰り上機嫌で大酒を呑んで、寝てしまいます。
翌日、女房から財布なんか拾っていないし、夢でも見たんだろうと諭され、考えなおした勝は一念発起、お酒もやめて死にもの狂いで働きはじめます。
三年後には表通りに店を構え、生活も安定した大晦日の夜、増上寺の鐘を聞きながら女房が、三年前の財布は、本当に拾ったんだということを勝に話します。
あらすじはこんな展開ですが、この勝が住んでいたのが金杉あたりで、財布を拾うのが本芝の海岸、今の芝四丁目あたりです。今のJRの線路あたりはもう海で、このあたりは江戸の頃、沙濱と呼ばれる綺麗な砂浜で、漁師の網干し場でもありました。

さて、実際に広重の画を詳しく見ていきましょう。
空にはさまざまなものが掲げられていますが、橋の上では、お会式に向かう講と、お参りを終えて帰る講がすれ違っています。お会式とは、日蓮の命日、10月13日に行われる祭りのことです。

手前の集団はこれからお会式に向かう講で、「たまねき」と呼ばれる左の茶色い手ぬぐいと青い手ぬぐいを持って右方向に向かっています。日蓮を表す井桁に橘の紋が書かれた傘と垂れの下にはお題目が書かれた赤い幟も翻っています。右側の傘の垂れには、日蓮宗本山である身延山の文字も見えます。

海側の黄色い笠の集団は、お会式を終え左方向の江戸市中に帰っていく講です。お題目を唱え「法華の太鼓」と呼ばれるうちわ太鼓を「ドンドンドコドン」とリズミカルにたたきながら橋を渡っています。このあたりはいかにも日蓮宗で、なんだか音が聞こえてきそうですね。

金杉橋を渡り、東海道をもっと南に進んで、八ツ山を越え、今の池上通りを進めば、祖師日蓮が没した地、池上本門寺に辿り着きます。広重は、この本門寺のお会式の様子も描いています。このお会式は現在でも盛大に行われていて、前夜祭の万灯供養には各地から観光客が押し寄せます。

ついでに右側の画、月岡芳年が、広重と全く同じ構図で描いた金杦橋を発見したので、是非ご覧ください。講の集団が大名行列になっているだけですね

実際にこの場所に行きました。
上に首都高速が通っているので、わけのわからない写真になっていますね。

これは少し北側に寄った景色です。目の前が国道15号線、第一京浜です。右上空には首都高速環状線が通り、この先が浜崎橋ジャンクションになります。正面先の赤い電波塔が掲げられた建物が東京ガスの本社ビルです。

これは金杉橋から大門、新橋方面を見た動画です。

金杉橋から芝二丁目方面を見たところです。一番奥のちょっと先には幕末、勝海舟と西郷隆盛が会見し、江戸城無血開城を決めた薩摩藩蔵屋敷がありました。

金杉橋から古川の上流を見ると、こんな感じです。
見えている上流の橋が将監橋で、このまま遡ると、麻布十番、広尾、渋谷駅界隈からは、渋谷川と名前を変えてほとんど暗渠で、原宿キャットストリート経由で新宿御苑あたりに辿り着きます。

広重の画に現在の写真をはめ込んでみました。
遠くまでも見通せず、なんともつまらない写真になっています。

当時でも、ここ金杉橋は、名所でもなんでもなく東海道の橋の一つに過ぎませんでした。かなり細かく江戸の名所を採りあげて編纂された「江戸名所図會」からも洩れ落ちている場所です。
この画の発行は、安政4年の7月で、10月の日蓮宗のお会式までは、あまりに日があります。そこで考えられるのは、池上本門寺から依頼されて描いたのではないか、ということです。あのリズミカルなうちわ太鼓と前夜の万灯供養を見においで、という呼びかけだったのではないでしょうか。

さらに政情不安の香りが漂う時期だけに、画の真ん中にある、赤い幟の南無妙法蓮華経を唱えて、みんなで平和に極楽に行きましょう、という、願いもあったのかも知れませんね。
その願いが通じたのか、広重がこの画を描いた10年後に江戸城無血開城が実現します。

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