ロゴ

021
芝 愛宕山=しばあたごやま
Atagoyama Mountain in Shiba.

 

021

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
011の上野清水堂不忍ノ池は、今も現存する上野公園内、清水堂の横から、不忍ノ池と弁天堂参道、奥に本郷台地を望む構図になっています。

まず古地図から、その場所を確認してみます。視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみました。下の方で左右に横切る水色の線は神田川です。右側に斜め縦に走る太い水色は隅田川です。これに現代の地図を重ねてみました。

では画を拡大して上から見てみましょう。
この画の清水堂は、元禄時代に、今の場所に移されてきたと言われています。この画が描かれた直前に発生した安政の大地震でも大した被害がなかったようです。さらに寛永寺をほぼ灰にした明治維新の上野戦争でも、関東大震災でも、第2次世界大戦の戦火からも、奇跡的に逃れてきています。現在は、国の重要文化財になっています。

もともと、江戸の都市計画から、この界隈は、徳川家の菩提寺である寛永寺の開基、天海僧正が京都を模して作らせました。不忍ノ池は、初期に今の倍近い広さがあったといわれていて、これが琵琶湖に当たります。現在上野弁天堂のある中島は、できた当初は、船で行き来していたようで、竹生島をイメージして作られました。京都東山の清水寺をモチーフに作られたのが、この清水堂です。寛永寺は、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山にならい、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」としたと伝えられています。

画の中の桜も、天海僧正が大和・吉野山と同じように、桜の名所にしようと、咲く時期の異なる桜を計画的に植えたと伝えられています。そのため、旧暦の2月末から3月半ばまで、途絶えることなく桜が楽しめました。さらに桜の時期だけは、広小路側入口の黒門を開き江戸庶民の入山を許しました。ただし、寛永寺の規則が厳しく、魚を食べたり、三味線や太鼓でおどったりすることは禁じられ、午後6時には追い出されてしまっていたようです。今の上野公園と比較すると、大違いですね。

では実際に画の主要部を詳細に見てみましょう。
この画そのものがかなりデフォルメの効いた絵になっています。まず、清水堂の舞台の高低差が実際の倍以上に描かれ、桜の本数も実際よりかなり多く描かれています。さらに中島にいたる弁天堂参道手前の石段は、前年の安政の大地震により崩壊し、茶店も焼失していました。広重は、うまい具合に構図を組み立て、隠すところを隠して描いていたようです。

現在の清水堂を下から見上げた写真がこれです。月の松は、近年復元されました。

実際の視点になった場所にも行ってみました。高低差も景色も随分と違っていることが分かると思います。それでも強引に画になりそうな写真を、広重の画の中にはめ込んでみました。
この画の中には、いつも通りたくさんの、江戸庶民が描かれています。こうして見てみると、天才絵師、広重は、庶民目線で、見た人を楽しませる画を描いていたのが分かりますね。


022
広尾 ふる川=ひろおふるかわ
Furukawa River in Hiroo.

022私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
022の広尾 ふる川は、古川橋の西側、四の橋越しに、現在の北里大学北里研究所病院方面を見た景色のようです。

まずは、この画の発行された翌年、安政四年の江戸の全体図をご覧ください。
この画の視点となる場所に赤いグラデーションを入れました。

画にある古川は、玉川上水の余った水を源流としていました。地図では左上の方の四谷の大木戸水番所から、内藤駿河守の下屋敷(今の新宿御苑の横)、渋谷、広尾、麻布、麻布十番、増上寺南側を通過して、金杉橋の先で、江戸湾に注いでいました。名前も渋谷川、古川、赤羽川、新堀川、金杉川と次々に名前を変えていました。

もともとこの広尾あたりは、古くから本村集落があったにもかかわらず、江戸城の南西のはずれに位置し、大きな街道も通っていなかったので、寂れた村でした。その後江戸幕府の政策で、広尾の北側、今の六本木麻布界隈に、多くの寺社が移転させられ、それとともに大名屋敷も増えていきました。

それでも広尾原と呼ばれるこのあたりは、将軍の鷹狩りぐらいにしか使われていなかったようですが、江戸中期以降、鷹狩りで使われなくなると、ようやく江戸市民が春夏秋の野遊びや、虫聴きなどに使うようになり、それに伴い、葦簀張りの茶屋などもできて、町屋も増えていったようです。

このあたりをもう少し拡大した、天保の古地図でご覧ください。麻布界隈と白金界隈の地図を方向性だけ合わせて、合成してあります。古川より北側、麻布六本木界隈は、大名屋敷が林立しています。

この地図に、現在との位置関係がわかりやすいように、主だった場所をプロットしてみました。日本の開国にあたり、麻布界隈の寺社が臨時的に各国の施設になり、やがて、この近所の大名屋敷が大使館に変わっていきました。そんな理由で、このあたりにはたくさんの大使館が存在しています。

麻布十番の善福寺は、幕末にはアメリカ公使館だったのですが、その公使ハリスの秘書兼通訳だったヒュースケンが、東麻布で攘夷派の薩摩藩士に襲撃され落命、幕末の大きな事件となりました。広重の描いた画の右側に見切れていますが、そのヒュースケンは、フランス大使館横の光林寺に葬られています。

この地図にさらに現代の地図を、だいたい合わせて、重ねてみました。

さて、画を上から詳しく見ていきましょう。
画の上部遠方は広尾原と呼ばれる丘陵地ですが、今の天現寺から先の広尾病院や恵比寿三丁目から続く恵比寿ガーデンプレイスあたりの丘だと思われます。谷の先は、渋谷橋方面だと思われます。丘の先には桜が一本、所々に、町人風の人が野遊びに興じている姿が描かれています。

左側に町屋が数軒あり、掛け茶屋の奥のひときわ大きなお店は「狐鰻」で有名な尾張屋で、天保の古地図にもその名前が残っています。この古川は、今はまっすぐですが、当時は、船航行のための深さを確保するため、蛇行させていました。

ここに架かる橋は、現在の四の橋です。町人風、武家風の人たちが今、古川を越えようとしています。当時は、この右側に土屋相模守の下屋敷があったことから、相模殿橋とも呼ばれていました。四の橋は、麻布十番の一の橋から始まって、4番目の橋だったからで、6番目の橋が現在の天現寺橋となっています。

実際にこの場所に行ってみました。上には首都高速目黒線が通っているため全く見渡せません。

これは四の橋から北方向の薬園坂方面を見たところです。左側の大きなビルとその後がイラン共和国大使館で、元土屋相模守の下屋敷があった場所です。

これが四の橋から、東側を見たところです。

これが四の橋から、西側を見たところです。

広重の視点の首都高速目黒線上から見た景色がこれです。

どれも現実的ではないので、今回もApplemapを見てみました。

広重の画に、現在の実際の写真をはめ込んでみました。

これではあまりに画にならないので、Applemapの画像をはめ込んでみました。

いずれにしても、このあたりはもう、野遊びに興じるような場所ではなくなっているのがよく分かります。当時の狐鰻の尾張屋があった場所の向かい側には、現在焼き肉屋ができていて、休日にはとても繁盛しています。

023
目黒千代が池=めぐろちよがいけ
Chiyogaike Pond in Meguro.

 

023

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
023の目黒千代が池は、JR目黒駅前を三田通りに沿って、ホテルプリンセスガーデンの坂を下ったあたりから、坂上を見た景色のようです。今でも目黒駅から、三田通りの西側は、急な崖地になっていて、千代が池は、その崖の途中、九州松原藩主、松平主殿頭(まつだいらとのものかみ)の下屋敷の中にあったと言われています。このあたりの台地は、眼下の目黒川から田圃、遠くに丹沢や秩父の山々、その先に富士山まで見えるという、とても景色のいい場所だったため、「絶景観」とも呼ばれていたそうです。
当時は、こういう景色や花、季節の移り変わりといったことが、娯楽だったというのが、よく分かりますね。

まず、古地図からその場所を探ってみましょう。広重の視点となる場所に赤いグラデーションを入れてみます。
この左右に横切る太めの道は、今の目黒通りで、その当時は、相模街道と呼ばれていました。ほぼ真ん中あたりが今の目黒駅にあたり、左、権之助坂を下ると目黒新橋を経て、今の大鳥神社に至ります。駅右側は、上大崎、自然教育園を経て、八方園の北、都ホテルを通り白金一丁目に至ります。

この上大崎から白金一丁目にかけては、当時人家が少なく辻斬りや追い剥ぎが頻繁に出没したと言われています。今の八方園北側から都ホテルあたりにかけて日吉坂という坂道は特に危険地帯で、旅人が足早に通り過ぎたので、早道場とも呼ばれていました。
それでも、目黒駅から、行人坂を下るとその先に目黒不動、大鳥神社手前から右に抜けると祐天寺があったので、縁日には、参詣者で賑わっていたようです。

駅から北、松平家下屋敷に沿って走る三田通りは、そのまま恵比寿、渋谷まで続く高台になっており、その高台に沿って世田谷の北沢で玉川上水を分岐した三田用水が流れていました。地図の青い線がその三田用水です。おそらく広重の画の中に出てくる、滝や池は、この水を利用したのではないかと思われます。

それでは、広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず姿を現すのが数本の松とわずかにのぞく桜。
この千代が池の由来は、南北朝時代の武将、新田義興の愛人の名前からだと言われています。足利尊氏に追われ、越後から武蔵へ逃れてきた新田義興は、多摩川の六郷の渡しで最期を遂げます。この知らせを受けた愛人千代が、この池に身投げをする前に、着ていた衣を松に掛けたという、衣掛の松が後世まで残っていたそうです。

そこの右は五段に分かれる滝が描かれています。この滝は記録によると長さ110m幅45mといわれています。ほんとかなとも思ってしまいますが。滝の下には武家の女性が3人描かれ、桜を愛でています。おそらく松原藩主の関係者ではないかと思われます。

画の下の方には大きな面積を割いて、千代が池が描かれています。広重は、この画のあとで「絵本江戸土産」で同じ場所を描いて発行しています。その解説によると、構図的に千代が池の広さを表現できなくて、心残りだったと書いています。その画を見ると、ほぼ左ページの半分は、千代が池になっています。いずれにしても、かなり大きな池であったと思われます。

さて、実際にその場所に行ってみました。
松平家の下屋敷は、南北に長いので、どこに千代が池があったのかまでは、特定できていません。現在、この警視庁目黒合同庁舎が一番の有力候補となっています。

これが坂をもう少し下っていった場所から上を見上げた写真です。

同じ坂下からもう少し、北側に寄ったところです。

もと下屋敷の真ん中あたり、三田通り側から、坂下方面を見た写真です。何も見えませんが。

同じ地点の三田通りから目黒駅方面を見た写真です。

同じ地点の三田通りから恵比寿方面を見た写真です。

元下屋敷の北の端、三田公園から南側を見た写真です。

広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。
今回は、池の場所はもちろん、庭や滝がどこにあったかその痕跡すら見つかっていません。そのぐらい高級住宅地となった目黒が変貌を遂げています。千代が池の大きさに拘っていた広重が、池の場所すらわからない現在の場所を見ると、どう思うのでしょうか。

024
目黒新富士=めぐろしんふじ
Shin Fuji in Meguro.

 

024

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
024の目黒新富士は、恵比寿西口正面の商店街をそのまま抜けて、別所坂にさしかかった辺りにあった富士塚を、本物の富士山と一緒に描いた画です。すぐ近所にもう一つあった富士塚と区別するために、こちらは新富士と呼んでいたようです。もう一つの富士塚は、元不二と呼ばれていて、次回025で紹介します。

まず古地図から、その場所を探してみました。江戸時代、このあたりは人家も少なく寒村というイメージで、地図にもかなり大雑把に書かれています。そこで、新富士と次回に紹介する元不二を両方まとめて表記してみました。それに場所の見当がつくように代表的な駅を入れてみました。

次に現在の地図に広重の視点をグラデーションで入れてみました。赤が新富士、緑が元不二です。富士山は、ほぼ西南西の方向です。古地図で入れた駅も参考にしてください。

富士塚とは富士信仰に基づき、霊峰富士山に似せて作った小山(築山)のことです。江戸時代、一般人は実際の富士山に登るのが困難だったため、各地の富士講と呼ばれる富士山を信仰するグループで、富士山の山開きの日(現在では7月1日)に近所の富士塚に登山する習わしになっていました。現在でも、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社境内や、十条冨士神社境内など、都内数カ所に富士塚が残されています。

このあたりは、駒場から五反田、高輪の先まで続く、目黒川の河岸段丘です。崖になっていて、この新富士と元不二はその崖の上にあるため、小さな小山でも、とても眺めが良く、天気のいい日はかなり遠くの場所まで見通せたはずです。

徳川幕府の与力で北蝦夷や千島列島を探検して、後に書物奉行にまで出世した近藤重蔵は、日本橋蛎殻町に住んでいました。文政二年(1819年)三田村槍が崎の別宅の敷地に富士講の人たちの手を借りて、新しい富士山を作りました。その大きさは、高さ12m、周囲が300mあったと言われています。
実際の富士山麓にある溶岩洞をモデルにした「胎内洞穴」を麓に作ったり、江戸中期に富士講再興の祖となった、身禄行者(みろくぎょうじゃ)の祠と石碑を中腹に設え、江戸の一大観光地となっていました。

この新しい富士山を2ヶ月で作り、近藤重蔵は、この富士山の管理を隣の植木屋に頼んで大坂に転勤になります。2年後、帰ってきてみるとその隣の植木屋と、土地の境界の件でもめてしまいます。これが文政九年(1826年)重蔵の息子がこの植木屋一家4人に切りつけるという殺人事件に発展します。息子は遠島、重蔵はお預けの身(謹慎)となり、その三年後に58歳で亡くなっています。その約30年後にこの画を描いた広重は、こんな事件を知っていたのでしょうか?

それでは、画を上から詳しく見ていきましょう。
まず、まだ雪を頂く富士山が山の向こうに見えます。手前は、左が大山、丹沢、右が陣馬山あたりではないかと思われます。

この写真は現在、立川から見える富士山ですが、当時、目黒から見えていた景色と、角度は5度ほどの違いはありますが、ほぼ一緒だと思います。実際には、目黒から秩父あたりまで見渡せたのではないかと想像できます。

新富士の頂上からは、町人三人が富士山を見てなにやら話しています。
黄色い霞雲の下には、緑の森が広がっていますが、祐天寺に続く森で、黒く見えている耕地部分が東急東横線中目黒駅あたりではないかと思われます。この角度だと、本来目黒川も見えているはずなのですが、三田用水との対比で、カットされてしまったのかも知れません。山の中腹には身禄行者の祠と、近藤重蔵が蝦夷地から持ち帰った楠の化石で作った碑が見えています。その左脇、九十九折りの参道には、今まさに頂上を目指す富士講の信者が三人います。

画の下の方で、山を取り囲むように流れているのが、玉川上水から分岐した三田用水です。この三田用水の岸辺も遊歩道になっていたようですね。その畔ではお花見真っ盛りの桜の下で、家族連れが遊んでいます。左の藤蔓の絡んだ茶屋では上がり込んでいる町人の男と、まだ寒いのか、羽織を着こんだ武家ふうの女性が描かれてます。

さて実際この場所に行ってみました。新富士は既に崩されているので、その姿はありませんが、別所坂の上から、富士山方向を見た写真です。木立とビルに囲まれ、全く見渡せません。

これは、目黒区が現地に設置した新富士の案内看板です。最近になって、新富士の地下遺構と大日如来像が発見されて、今は地下に埋め戻されているとのことです。

別所坂の下り口には、庚申講の仲間達で作ったであろう、庚申塔が6基ほど祀られていました。庚申講とは、60日に一回やってくる庚申の日の夜に、天に悪事を報告する虫が、からだに入らないように一晩中起きているという、習わしです。これらの像は1665から1764年頃に作られたものです。

これは別所坂を少し下りた場所からの写真です。ここでもやはり見通しが悪いですねえ。

これは別所坂の下の方から、新富士があったであろう場所を見上げた写真です。当時はこの上に12mの小山がそびえていたことになります。

恵比寿駅西口から商店街を抜けて、三田通りを越えたところにある古い道しるべの石碑です。正面に南無阿弥陀仏と彫られていて、左側面に「左ふどう尊みち」右側面に「右ゆうてん寺道」と彫られています。ここは、広尾から来た古道が別れる場所で、左に行くと目黒駅方面に行き目黒不動、右に行くと別所坂を下りて祐天寺に行くという、道中安全祈願を兼ねた道案内の石柱ですね。

広重の画に、現在の写真をはめ込んでみました。いかがでしょうか?

現実的には、これなのですが、あまりに広重のイメージと違いすぎるので、Applemapと富士山の画を合成して、元画の大部分を活かして、はめ込んでみました。
広重の新富士もかなり大げさに書いていましたが、高さ12mの新富士が、中目黒駅前の高層マンションの倍以上の高さになってしまいました。これで広重も笑ってくれるでしょう。

025
目黒元不二=めぐろもとふじ
Moto Fuji in Meguro.

 

025

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
025の目黒元不二は、代官山の旧山手通り、ヒルサイドテラスの裏辺りにあった、富士塚と実際の富士山を一緒に描いたものです。

まず天保の頃の古地図から、その場所を探してみました。前回紹介した024の新富士と一緒の地図を使用しています。江戸時代、このあたりは人家も少なく寒村というイメージで、古地図にもその位置だけが、かなり大雑把に書かれています。元不二と前回紹介した新富士を両方まとめて表記してみました。それに場所の関係がわかるように代表的な駅を入れています。

次に古地図とほぼ同じ縮尺の現在のGoogleの地図に、広重の視点をグラデーションで入れてみました。赤が新富士、緑が元不二です。富士山は、ほぼ西南西の方向になります。古地図で入れた駅のプロットも再度確認ください。これで実際のだいたいの位置関係がわかるはずです。

さて、どうしてこんな近所に二個も富士山に見立てた小山が築かれたのかを調べてみました。

富士講は、江戸時代に成立した民衆信仰で富士山で修業した修験者達が、江戸各地の富士講の信者達を富士山へ先導する、というものでした。富士吉田まで行って、身を清めてから、御師と呼ばれる先導者に連れられて、霊峰富士に登るというのがプログラムでした。しかし、これには、膨大な費用や、体力、日数、通行手形など、さまざまな難問が待ち構えていました。こんな状況の中、もともと厳しい修行を行っていた修験者の一人に、三重生まれで、町人出身の伊藤伊兵衞という修行者がいました。修業では、食行身禄(じきぎょうみろく)という名前で活動し、貧しい庶民に教線を広げていたため「乞食身禄」と呼ばれていました。

亨保18年(1733年)この食行身禄(じきぎょうみろく)が63歳のときに駒込の自宅を出立し、世直しを祈願して富士山吉田口の八合目、烏帽子岩で断食行を行い、その35日目には入定しました。つまり、絶命し自ら即身仏となりました。このセンセーショナルな出来事が、富士講を一気に江戸市中に知らしめることになりました。

この食行身禄(じきぎょうみろく)を師と仰ぐ高田の庭木職人、藤四郎が、師の三十三回忌の年に発願し、14年後の安永八年(1779年)に江戸最初の富士塚を、早稲田の水稲荷神社で完成させます。藤四郎は師の残した一文を守り、女性や子どもでも気軽に登れる富士山を作り上げました。これにより、当時、一部の新興宗教だった富士講が、一気に江戸の人気となり、江戸のあちこちにミニチュアの富士山が作られるようになりました。当時、八百八講といわれるぐらい、江戸市中に講が乱立していたようです。
現在東京には7基の富士塚が現存し、そのうち三基が国の重要無形民俗文化財になっています。

この目黒元不二は、文化九年(1812年)麻布善福寺門前の伊右衛門という富士講の先達が願主となり、麻布、芝、上目黒など近くの村々の信者達が講を結んで築いたと言われています。頂上には浅間神社があり、高さは12mほどで、人が簡単に上り下りできるようになっていました。その7年後に新富士ができたため、こちらは元不二と呼ばれるようになり、どちらもとても眺めのいい高台にあったので、富士講以外の人たちも観光に訪れ、大変賑わったと言われています。

さて、広重の画を上から詳しく見ていきましょう。
まず最初に松の木が現れます。実際に記録では枝振りのいい松が一本あったと記されています。それを含めて、空も大きく採ってあり、富士塚と同じ高さに、色のない富士山が表れます。手前の山は陣馬山、丹沢ではないかと思われます。その下の白い霞雲の下は、現在の東山から、池尻、三軒茶屋方面だと思われます。

山の中腹には、股引と頭巾に羽織という出で立ちの男が二人、富士山を見ながらなりやら話しています。色づく楓かイロハモミジの下では、出された床几の上で、それぞれに景色を愛で、紅葉狩りを楽しんでいます。
実際にこの地は高台なので、天気のいい日には、かなりと奥まで見渡せたようです。

この元不二は、初摺りの時には、富士山に雪がなく、楓や紅葉になっているのですが、それ以降は、青い富士山に雪が描かれ、楓が桜の木の色になっています。

広重は、絵本江戸土産でも同じ元不二を描いています。こちらの構図は南西側から見た元不二で、目黒元不二下道とタイトルがつけられています。同じように山の中腹に一本の松、手前には楓が描かれています。しかし、土地の高低差はあまり反映されていません。

実際この画の場所に行ってみました。
富士塚は崩されてありません。元の場所には大きなマンションが建設され、その下にあった雑木林は、東京音楽大学になっています。この場所の東側斜面は、東急東横線が中目黒駅に向けて、地上に顔を出す場所になっています。今でもビル横には、晴れている日に富士山が見えるそうです。

もう少し寄った写真を見てみると、確かに富士山が見えています。

これは目切り坂の下り口にあたります。下りていくと青葉台を経て、大山往還つまり今の国道246号線に合流する、古道です。

これは代官山側を見た写真です。この先、八幡通りを抜けて、並木橋に至ります。

広重の画に、今の景色を重ねてみました。いかがでしょうか?まあ、これはこれで、いいのですがねえ。

描かれた元画とは違いすぎるので、Applemapと、富士山の写真を合成して、広重の画にはめ込んでみました。これでいかがでしょうか?
それにしても、現存する富士塚と比べると、ちょっと大胆に描きすぎているのではと思ってしまいますね。いずれにしても当時、観光客誘致には、充分にその効果を発揮したと思われます。

 

026
八景坂鎧懸枩=はっけいざかよろいかけまつ
Amor-Hanging Pine in Hakkeizaka hill.

026

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
026の八景坂鎧懸枩は、今のJR大森駅西口近く、池上通りにあった大きな松の大木とその先の風景を描いたものです。

まず古地図を探してみましたが、当時このあたりは江戸ではなかったので、近郊図しかありません。江戸日本橋を出た東海道が、高輪大木戸を越えて、品川の先、南品川で右に行くと池上通となり、大井、新井宿を経て、日蓮宗の総本山、池上本門寺を脇に矢口渡から多摩川を渡り、中原街道に合流していました。地図の青い線が東海道、緑の線が池上道になります。広重の視点として、赤いグラデーションを入れてみました。

画の中の大きな松は、池上道、大井と新井宿の中間ぐらいにある八景坂にありました。実際に、今の池上通りも、結構急な坂道ですがその当時はもっと急だったようです。雨が降ると、薬を作る薬研のように掘れてしまったので、最初は薬研坂と呼んでいたようですが、そのうち、この地域の景勝八景を選んだときに、風光明媚を意味する八景坂と呼ぶようになりました。
また、柳田国男によると丘陵地の端という意味の「ハケ(崖)」から来たのではないか、という説もあるようです。

東海道で品川宿をぬけ、そのまま立会川、鈴ヶ森あたりまで来た旅人たちは、右手の丘の上の大きな松を見つけます。この松は二本あり、大きい方は樹齢八百年、高さが20メートルほどあり、枝が柳のように垂れ下がり、幹は牛一頭が隠れられるほど太かったという記述が残っています。この松はその後、明治の終わり頃には枯れてしまい、それでもしばらくは、切り株を見ることができていたようです。さらに、大正の頃にはこの場所に、田中重城という人の家が建てられ、松もその先の景色も見えなくなっていたようです。

平安時代の武将、八幡太郎義家が奥州征伐で、安倍氏との前九年の役に向かうときに、この松の向かいにある天祖神社に戦勝祈願のために立ち寄りました。そのときに鎧を掛けたのがこの松だった、ということから、この松は鎧懸松と呼ばれるようになりました。

この古地図は、かなり縮尺と方向がズレているのですが、強引に現代の地図を重ねてみました。位置と方向がだいたいわかるのではないでしょうか。大森駅前から、北北東を見た画になっています。

広重は、同じ場所を何度か描いています。まずは、絵本江戸土産です。横位置ではあるのですが、だいたい名所江戸百景と同じ構図で、松の形や枝振りもほぼ一緒ですね。品川は描かれていなくて、房総半島が小さく描かれています。

次が東都坂盡です。こちらは、松が二本とも描かれ、よりリアルに描かれています。往来の人も数多く描かれ、東海道と品川宿も描かれています。松の形がかなりくねっていますが、実際にこんな状態だったのでしょうか、ちょっと疑わしいですね。

次に広重の名所江戸百景の初摺りと後刷りを比べてみました。色合いとグラデーションの使い方が若干違いますね。後刷りは、全体に色が濃く、鮮やかさを増し、派手になっています。

最後は、江戸名所図会の八景坂夕景です。こちらは随分とダイナミックに描かれていて、茶店の様子や、駕籠でやってくる観光客、下で列をなしている、本門寺のお会式から帰る講の一行など、随分とリアルに描かれています。この画は人が中心に描かれていて、松そのものは、他と比べるとおとなしい描き方なので、実際にはこんな状態だったのかも知れませんね。

さて実際に画を上から詳しく見ていきましょう。
まず空が半分近くの面積を占め、大きな松が現れます。記述通り、松がクネって垂れ下がっている状況がよく分かります。

江戸湾の向こうには房総まで見えていて、その先に筑波山まで描かれています。その下が江戸の街並みですね。さらにその下の海に突き出た半島が品川宿になります。
江戸湾には、白帆を立てた船が数艘と右の方には舫ってある船も数艘描かれています。波打ち際には黒っぽい松林が描かれていますが、これが東海道で、人の往来まで描かれています。

左の茶店には、休んでいる人、床几の上で談笑している人、旅人が二人、馬子と馬、駕籠に乗ってやって来た、二組の観光客、広重らしく、当時のひとびとの暮らしが生き生きと描かれていますね。

右の黄色い低地には、駕籠に乗った人と歩いている人が小さく描かれています。ここは、今の立会川あたりだと思われます。崖の下からは、今まさに登ってくる人が二人いますが、これは今の大森駅東側から西側に上ってくる人です。本門寺方面から坂を登って品川へ向かう人も一人描かれています。

一番下の黄色い屋根は、茶店ふうですが、木の様子から考えると、その手前の天祖神社を描いたのかも知れません。

さて、実際にこの場所に行ってみました。
天祖神社の、登り口から撮った写真がこれです。当時は、ここから房総まで見渡せたのでしょうねえ。

これは、池上通り、大井方面を見た写真です。

これは、池上通り、池上方面を見た写真です。

池上通り越しに見た大森駅西口です。

八幡太郎義家が戦勝祈願した、駅向かいの天祖神社です。

天祖神社参道横から見た、広重の視点の方向です。

広重の画に、現代の写真をはめ込んでみました。その頃の面影は、見事にありません。当時の崖際には今、駅を始めさまざまな建物が建っていますから、仕方がありませんね。

027
蒲田の梅園=かまだのうめぞの
Plum Garden in Kamada.

 

027

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
027の蒲田の梅園は、今の京浜急行梅屋敷駅と京急蒲田駅の間にあった、薬屋の梅林をリズミカルに描いたものです。その後の道路整備や、京急の線路整備などで紆余曲折を経たものの、今では、その一部が区立の聖跡蒲田梅屋敷公園として残されています。

大森界隈の農家が、年貢に四苦八苦しているときに、そのあたりの土地が梅の栽培に適していることに気づきました。そこで、少しでも年貢の足しになればと言うことで、梅の木を栽培し、その梅畑を梅林と呼ばれるまでに大きくし、海苔と同じぐらい有名な、大森の名物となっていきました。

東海道の大森村中原、谷戸、南原には和中散(わちゅうさん)という漢方薬を売る店が三軒ありました。この絵は『江戸名所図絵』(斉藤月岑編 天保年間)に描かれた大森の風景です。和中散は、枇杷葉(びわよう)・桂枝(けいし)・辰砂(しんしゃ)・木香・甘草(かんぞう)などを調合した胃薬で、暑気あたり、めまい、風邪などに効く、旅の常備薬でした。

この和中散は、近江国栗太郡梅ノ木村(現在の滋賀県栗東市六地蔵)が発祥の地で、ここを訪れた徳川家康が腹痛を訴えたところ、典医がこの薬を勧め、たちどころに快復したとのいい伝えがあり、和中散の名前は、この時家康から命名されたとのことです。いまでも建物が、旧和中散本舗として、重要文化財となって滋賀に残っています。

この発祥地の地名が梅ノ木で、和中散本舗の立派な庭に梅の木が植えられていたことから、大森の三軒も、梅の木を看板にしていました。その中の南原にあった店が、北蒲田の山本忠左衛門に買い取られ、北蒲田に移転しました。やがて息子の久三郎が、自宅の庭の続きに、池や四阿を作り、花と枝振りを見せる梅をたくさん植え、「休み茶屋」を作りました。この様子は、江戸名所図会に残されました。また、広重も絵本江戸土産で描いています。

もともと農家は、梅の実の収穫が目的だったので、老木はいりません。久三郎がその中から枝振りのいい老木を買い集めて移植し、自分の庭に見事な梅林を作りました。当時、亀戸梅屋敷と並び、江戸の梅の名所となっていました。ただし、こちらの梅林は亀戸臥竜梅と違い、薬を売るのが目的でしたから、自由に梅園の中に入り、四阿で存分に梅見と梅の香を楽しめました。

さて、画を上から詳しく見ていきましょう。
まず、空の赤いグラデーションから始まります。早春をイメージした梅色なのでしょうか。そこに枝振りのいい、よく手入れされたであろう梅が現れます。絵本江戸土産の画と比べると、梅の木の手入れが行き届いているのがわかりますね。

中間右には駕籠が描かれています。これは山駕籠と言い、旅行用の駕籠で、旅人が東海道から立ち寄ったのでしょうか。
四阿と、おそらく歌を刻んだのであろう石碑がリズミカルに配置され、遠近感を出していて、梅の木がずっと奥まで続いているのがわかります。その四阿の中には、観光客や旅人が休んで、今、梅を楽しんでいます。まるで梅の香りがしてくるようです。ゴツゴツした、梅の老木の質感がよく出ていて、左には、池ものぞいています。

右側の青竹の山駕籠をよく見ると、格子模様の座布団の上に桔梗模様の旅合羽が置かれています。当時の駕籠の旅はおもしろそうだというイメージが伝わってきますね。

この場所がどこにあったのか、やはり当時の江戸近郊図を探してみたら、ちゃんと梅林と和中散の表記がありました。青い丸と赤い丸がそれです。この地図を見ても当時、この場所がかなり有名だったことがよく分かります。

現代の地図で、位置関係をご覧ください。今は規模は縮小されているものの、区立の聖跡蒲田梅屋敷公園となって保存されています。

実際にここに行ってみました。聖跡蒲田梅屋敷公園の南側正面に当たります。後の白い建築物は、京急の高架橋です。

実際にあったといわれている石の里程標も復元されていました。「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」と刻まれていました。

今の梅屋敷公園は、池や四阿はないものの、綺麗に整備されています。実際の梅の時期に訪れたかったですねえ。

すぐ脇には交通量の多い、第一京浜国道が通っています。これが当時の東海道になりますね。

実際の庭の景色を、広重の画にはめ込んでみました。名所江戸百景のシリーズの中では、珍しく、それらしき景色が残っている場所です。山駕籠がちょっと浮いて見えるのは、ご愛嬌ですが。

028
品川御殿やま=しながわごてんやま
Gotenyama Hills in Shinagawa.

 

028

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
028の品川御殿やまは、箱根駅伝で有名な品川駅南の八ツ山橋跨線橋の少し南側あたりから、御殿山方向、つまり今の大崎方面を見た景色です。

まず最初にその場所を確認するために、当時の地図を用意しました。今も変わらない道路状態を考えて、北が上になるように全体を傾けてみます。左から右に流れ込む川が、目黒川です。上から下に走るちょっと太くて黄色い道が東海道です。その東海道と目黒川が交差する、ちょっと左あたりが今の京急新馬場駅です。

これに、広重の視点であろう場所に赤いグラデーションを入れてみました。「御殿山、櫻ノ名所ナリ」という文字が見えていますね。

これに現代のApplemapを重ねてみました。今の第一京浜国道の品川女子学園の南、マンション群ぐらいから見た景色のようです。

この地図では、当時の状況がよく分からないので、ちょっとズレてはしまいますが、当時の海の水色と赤い東海道を現代の地図にかぶせてみました。

この、御殿山は太田道灌が江戸城に入る前の長禄年間(1457年-1460年)に城を構えていて、眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす高台でした。その後、徳川家康が江戸城に入ってからは、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所となっていました。しかし、元禄十五年(1702年)2月、四ッ谷太宗寺から出火した火事で、御殿は焼失。以後再建されることはなく、八代将軍吉宗がこの芝山に吉野の桜を六百本ほど移植し、御殿山は面積11,500坪(38,016平方メートル)に及ぶ桜の名所として整備されました。

特にこの山は、周りが崖になっているにもかかわらず、頂上は平らで芝生広場のようになっていました。しかも海からも近く、白帆を立てて航行する船の先には、房総の山々まで見渡せると人気になり、江戸市民は芝生の上に毛氈を敷き、幕を張って宴を催していました。亨保六年(1721年)には、酒を飲んで暴れるものまで出たため、狼藉禁止の立て札まで出されました。このあたりは、現代の上野公園に似ていますね。

嘉永六年(1853年)、ペリーが来航して幕府に開国要求をせまり、これに脅威を感じた江戸幕府は、江戸の直接防衛のために品川沖に11基から12基の台場(砲台)を造る計画を立てました。工事は急ピッチで進められ1854年にペリーが2度目に来航するまでに総工費約七十五万両(約22.5億~30億円)をかけて、第一、二、三、五、六番台場が完成。この時、運搬しやすかったことから、埋め立てに用いる土はこの御殿山やこれに連なる高輪の八ツ山を切り崩して調達されました。また、そのために東海道の高輪通りを昼間は通行止めにし迂回路を使用させた、という記録があります。

この台場の効果があったのか、ペリー艦隊は品川沖から横浜まで引き返し、そこで上陸することになりましたが、品川では台場開発景気に支えられ、経済的に大変な盛り上がり見せる一方、江戸市民の憩いの場である桜の名所が大きく削られることとなりました。この広重の画は、大きく削られて崖になってしまった桜の名所を、東海道側から描いています。

これは明治十四年の品川あたりの詳しい地図です。台場の位置と状態がはっきりわかりますね。現在では、第三台場は、レインボウブリッジの下で台場公園として公開されていて、第六台場は、その横にぽつんと地続きではなく残っています。途中で建設中止になった第四台場の代わりに、御殿山のふもとに御殿山下台場が建設されましたが、それも現在では埋め立てが進み、品川区立台場小学校、台場保育園とマンションなどになっています。

それでは広重の画を詳しく上から見てみましょう。
まず、何事もなかったかのような、緑の松と色の違う桜が描かれています。江戸庶民が集い、桜をみんなで楽しんでいるようです。

中程を見ていくと、その桜の園は、切り立った崖になっていることがわかります。九十九折りの坂道を、桜見物のために登ってくる人たちも描かれています。右の方には八つ山方面に崖に沿って歩いている人もいます。

画の下の方には、土を取った後にできた川でしょうか、橋が架けられ、東海道方面から、歩いて桜を見に行く人も描かれています。

さて実際にこの場所に行ってみました、が、ビルに囲まれて全く見えません。この写真は、画に出てくる残された桜を庶民が見ているあたりではないかと思われます。奥に見えているのは御殿山トラストタワーで、手前が御殿山庭園です。

これは、視点を西側に振ったミャンマー大使館方面です

この写真は、山の上から広重の視点方面をみたものです。手前が新幹線とJRの線路になっていて、広重の描いた崖にあたるところです。

これは、崖を下りていって、旧東海道の川崎方面を見た写真です。当時、この左側は、海でした。

実際の画に、現在の写真をはめ込んでみました。ビルの壁を入れても仕方がないので、御殿山庭園の画をはめ込んでみました。いずれにしても当時の面影は全くありません。

広重が嘉永年間に描いたといわれる絵本江戸土産七編では、土が取られた御殿山の上から描いた景色が残されています。この画の解説には、こんなことが記してあります。以前に同じ画を描いたことがあるが、その後幕府が黒船を防ぐために、御殿山の土を削って海に台場を造った。そのため、以前と姿が変わったので、今またもう一度この画を参考のために描いた、とあります。しかし、この画には台場が描かれていません。この画の原画には、広重筆の画の落款があります。

名所江戸百景を出版する、前年の安政二年に五十三次名所図会で、同じように逆から見た御殿山を描いています。しかし今度は、南品川の家々と一緒に、江戸湾とできあがった数個の台場までが描かれています。

しかし、名所江戸百景では、崖を強調した新しい御殿山を海側から描いています。かなり大きく削られても、桜の名所としては変わりなく、ともすればこの新しい崖自体が新しい名所だ、ともいわんばかりです。広重は、どうして山の上から海を見る遠景を描かなかったのでしょうか?

わたしは、五十三次名所図会に軍事目的の台場まで描いてしまって、広重が幕府からお叱りを受けてしまったのではないかと考えています。ちょうどこの画が発行された安政三年三月には、広重自身が髪を落とし、画の落款も広重画から広重筆に変えています。
広重は、やがてやってくるであろう新しい時代が、この国にも、自分にもやって来ている、と考えていたのではないでしょうか。

029
砂むら元八まん=すなむらもとはちまん
Moto-Hachiman Shrine in Sunamura.

 

029

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
029の砂むら元八まんは、東京メトロの南砂駅から東に行った、富賀岡八幡宮の鳥居越しに千葉方面の海を見た画になっています。

まずその位置を確かめるために、江戸時代の古地図から調べてみましたが、ここも郊外のため、大雑把な周辺図しかありません。それでも、文字は逆さまですが、真ん中右あたりの中川の畔から、八右衛門、砂村、大ツカ、中田と、新田名の村が並んでいるのがわかります。このあたりは、まだ開発途中で、すぐ南側が海だったこともわかります。

越前国、今の福井県鯖江市で生まれた砂村新左衛門は、地元で土木事業に携わる傍ら、新田開発の技術を習得し、まず摂津国、今の大阪福島で事業を成功させた後、全国展開を図り江戸にやって来ます。

江戸初期に息子達と手がけたこのあたりは、小高い洲が宝六島と呼ばれていて、その後、干拓が進め、砂村新左衛門が手がけた新田なので「砂村新田」という村名で呼ばれていました。その後砂村は砂町になり、北砂、南砂、東砂、新砂に分割され現在に至っています。広重の描いた場所は、現在の江東区南砂七丁目あたりになります。

この周辺の詳しい地図を探してみると、明治十四年まで時代が進みます。この地図の赤い丸の部分が広重の画になった富賀岡八幡宮の場所です。

地図をもう少し拡大してみました。赤い丸が富賀岡八幡宮、黄色い丸が洲崎弁天です。今の洲崎神社のことで、富賀岡八幡宮から十八町あったと記述されています。この左側がイトーヨーカドー木場店になります。江戸の頃は、広重の画のように神社のすぐ南側に防潮堤があったのですが、この頃になると、もう少し南側に堤防が新設されていますね。

この地図の縮尺にだいたい合わせて、現代のApplemapを重ねてみました。それに、広重の視点となる赤いグラデーションを入れてみました。現在の位置関係がわかりますね。

同じ頃、斉藤月岑が江戸名所図会で、この場所を海側から描いています。左右には、矢竹多しと書いてあるのは、八代将軍吉宗が植えたとされる、弓で使う矢になる竹のことです。防潮堤はかなり高く、鳥居の前が階段になっているのがわかります。左真ん中あたりには、富士塚らしきものも確認できます。

この神社は創建が749年という、長い歴史のを持つ神社でしたが、度重なる水害や塩に悩まされていました。嘉永六年(1629年)千葉氏、上杉氏を経て太田道灌へと伝えられたご神体の八幡像を、京都から来た長盛法印が深川に遷し、富岡八幡宮を作ったため、こちらは元八まんと呼ばれるようになった、と言われています。
それでも砂村の総鎮守として、松や桜の名所、富士塚の信仰など、近所の疝気稲荷神社と共に、周辺住民と江戸の市民の人気を集めていました。

さて、実際に広重の画を上から見ていきましょう。
江戸湾にのどかに浮かぶ白帆の向こうには、房総の山々が見えています。手前には葦原でしょうか、三色の緑を使って一面に描かれています。

中頃には、行徳に向かうらしき船と、心地のいい潮風の中、市民が堤防を歩きながら松を愛でています。堤防そのものは、かなり高く土が盛られているのがわかりますね。

下の方には、桜並木の中を笠をかぶった旅人でしょうか?二人で社殿の方に進んでいきます。どういうわけか、鳥居は描かれていますが、社殿は見えていません。この手前後ろ側が見渡す限りの畑だったわけですから、かなり先遠く、今の錦糸町あたりまで見渡せたと思われます。

今昔対照江戸百景という大正時代に出された本に、この砂村八まんの写真が載っていました。解説によると撮影前年の津波により、名物の松が被害を受けていたようで、左側のくねった松を見てもわかりますね。鳥居の前には、3本の松の切り株があったようで、この頃にこのあたりはまだ、飲料水に恵まれず、水を他から運んで来ていたと記されています。

実際にこの場所に行ってみました。
これが南から八幡宮正面を見た写真です。今では松ではなく、銀杏が植わっていました。

正面左には、碑と由緒の解説版、それに砂村新左衛門の出生地鯖江から贈られたという、水仙が植わっていました。

奥には、当時富士講の信者が集まっていた、人気の富士塚もありました。

鳥居は建物の影で見えていませんが、現在の道から千葉方面を見た景色がこれです。広重の画は、もう少し視点は高いですね。

実際の画に、現在の写真をはめ込んでみました。
しかしこれでは画にならないので、社殿の裏から撮った写真をはめ込んでみました。

さて、いかがだったでしょうか?この元八まんは、七世紀から宝六島と呼ばれた小高い洲に建っていたわけですが、わかっていたはずの水害のためだけに深川に移っていったのでしょうか?このあたりの本当の理由が、明らかになっていないだけに、何か他の理由があったのではないでしょうか。
広重が、鳥居だけで社殿を描いていないのも、ちょっと不思議ですねえ。

030
亀戸梅屋舗=かめいどうめやしき
Plum Garden in Kameido.

 

030

私の大好きな、安藤広重の描いた名所江戸百景、その場面が今どうなっているのか、実際に訪ねてみました。
030の亀戸梅屋舗は、亀戸天神の裏、北に四百メートルほど行った場所にあった、梅の名所を描いています。北十間川に沿って、広さ四町四方に梅の木が約三百株あまりあり、花の香りから「清香庵」と名付けられていていましたが、人々からは「梅屋敷」とよばれていました。もとは、本所石原の呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘だったものを、後に豪農、喜右衛門が買い取り、東西に聞こえる梅の名所となりました。

園内に植えてあった梅の中でも、龍がとぐろを巻いて臥しているような梅が一本あり、人々はこれを臥竜梅と呼んで特別視していました。高さは3メートルほどなのに、根もとの太さは1.6mほどあり、枝は龍がとぐろを巻くように四方の地中に入ったり出たりして、その周辺はおおよそ11mほどあったといわれています。この花は薄紅色をしていて、香りが特別によかったという記録が残っています。

龍が大地に横たわっている意味で名付けられた、この臥竜梅、命名したのは水戸光圀、いわゆる黄門様で、広重の画の左側にわずかに見える高札に、その謂れが書かれてあったといわれています。八代将軍徳川吉宗からは、代継梅(よつぎうめ)の名を貰い、「枝より根を生じて再び若木となれば、万世までも絶えることなかるべし」とたたえられ、以後、御用木として毎年梅の実を二籠ずつ江戸城本丸と二の丸に納めたとのことです。

この画をもう一つ有名にしているのは、30年後に印象派の巨匠、ゴッホが模写していることです。日本からパリに送られてきた陶器の包み紙に、この広重の浮世絵が使われていて、たまたまそれを目にしたゴッホが1887年に模写したと言う説がありますが、定かではありません。左右に金釘流の漢字まで書かれている、この画は現在、アムステルダムの国立ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館にあります。

広重は、絵本江戸土産でも亀戸梅屋敷の画を残しています。こちらは、梅屋敷全体を描いており、四阿や床几(椅子)が設えてありますが、梅林の中には入れなかった事がよくわかりますね。このあたりは、人寄せ目的の蒲田の梅園とは違いますね。
ここは、春のまだ梅の花が咲く前、かなり肌寒い頃から人が訪れ、総じて雅人、粋人、隠士が多かったと言われています。桜の下のような宴会をするのではなく、静かに散策し、梅と香りを楽しむ、そんな大人の社交場的な場所でした。
梅の花がいい香りを振りまいているので清香庵と自ら呼んでいる。龍が臥しているような古木は、年を重ねるごとに新しくなる、この花の満開の時の賑やかさは、他に聞いたことがない。この画の解説には、現代訳にすると、こんなことが書かれているようです。

明治四十三年(1910年)の大雨による洪水で、亀戸、大島、砂村のほぼ全域が水に浸かってしまいました。このとき、この梅林も大きな被害を受けてしまいます。根を傷めて、立ち枯れする木が多くなり、さらに大正五年(1916年)頃からは周囲に工場が建ち並び、その煤煙でさらにダメージを受ける結果となってしまったようです。「今昔対照江戸百景」という大正八年に出版された本に、この場所の写真が載っていました。
その解説には、数度の洪水や道路整備のために痛めつけられてきた臥竜梅は、今でも馥郁たる香りを街のあちらこちらに流している。ただ、残念なのは工場地として、どんどん煤煙が濃くなり、清い空気を好む梅の木がいつまで持つのか、疑問だ、と結んでいます。

この場所を古地図で確認してみます。天保の頃の地図に、ぎりぎりこの場所が載っています。梅屋敷と逆さまに書かれている場所です。赤い丸で囲ってみました。これに、現在のAppleMapを重ねてみます。少し位置はずれますが、だいたいの場所はつかめるのではないでしょうか。

広重の画を上から見ていきましょう。
まず赤い空のグラデーションの中に、バランスよく咲いた梅の花が配置されています。空を赤くするのは、梅に合わせたわけではなく、夕焼けの空を演出する、歌川豊春以降からの、浮世絵の伝統です。左上に見えているのが、臥竜梅の由来を書いた高札です。

画の中段には、大きく太い梅の木が斜めに横切り、その向こう側には梅の木がずっと続いているように描かれています。床几に腰掛けて梅を楽しむ人、歩いて見て回る人が描かれていますが、全員、梅林と隔てる柵の外側にいます。

画の下の方には、もっとくねった、ゴツゴツした梅の木とともに、空と対照的な濃い緑の地面が広がります。よく見ると木の根元にはあてなぼかしと呼ばれるグラデーションが施されていて、この画全体に奥行きを与えています。その中に咲く三輪の梅の白がとてもよく強調されています。

さて、実際にこの場所に行ってみました。
今、この場所は、タクシー会社とその車庫、それに多数の住宅になっていました。梅林の面影は、微塵も残していませんでした。梅そのものは、大正10年には、すべて枯れてしまったようです。

浅草通りに面した歩道にはいま、臥竜梅の碑とその解説版が立っています。

臥竜梅の碑から中川方面を見た写真です。左が北十間川です。

臥竜梅の碑から浅草方面を見た写真です。右が北十間川で、左にそそり立っているのは東京スカイツリーです。

臥竜梅の碑の脇には、解説版と一緒に小さな梅の老木が植えられていました。

せめてもの思いで、広重の画にこの梅の木の写真をはめ込んでみました。いかがでしょうか?臥竜梅の梅林が、今はもう無くなっているとは言え、あまりに違いすぎますね。

そこで、水戸偕楽園の梅林の写真をはめ込んでみました。水戸光圀繋がりではありますが、臥竜梅とまでいかなくても、まあ、許せるのではないでしょうか。それにしても、あのゴッホにまで影響を与えた、臥竜梅が水害と都市開発で痕跡すら残っていないのは、あまりに悲しいですね。特別に香りがよかった薄紅色の臥竜梅、その馥郁たる香りに包まれてみたかったですねえ。

ページのトップへ戻る